小さな風を纏い、その人は現れた。

会いたい時には会う事叶わず、会いたくない時には勝手に現れる。
何て身勝手なんだろうか、と由衣は責めても詮無いと知りながら、それでも心に沸き立つ不満を消す事が出来なかった。

庭に降り立った小太郎の周囲には、あの日拾ったのと同じ羽がふわふわと舞っている。

袂に入れて、事ある毎に触れていたあの羽は、持ち歩くのをやめた。
しかし、今も捨てる事だけは出来ずに、部屋の小物入れの中に隠してある。

それは恋心に似ているような気がした。
こうして目の前に現れ、その姿を晒されれば、否が応にも心は揺れる、揺れてしまう。

イヤだと思いながらも、引き摺られるようにあの日の甘露が心に落ちる。

落ちれば同じ。
痺れるように想いは駆けてしまう。

いっそ、本人が嗜めてくれれば良いのに。
俺を見るな、迷惑だ、と罵ってくれれば良いのに。
そうしたならば、もっと何かに諦めがつくだろう。

けれど、目の前の人は何も言ってはくれないのだ。

誰も声を聞いた事がないと言う。
国主の氏政様でさえ、その声を知らぬと言う。

だから……由衣の恋が終焉を迎えるのは、ひどく難しいことなのだろう。


「……ふ、風魔さま」


どこか問う様に、どこか縋るように。
我知らずに手を伸ばし、小さな声が零れていた。

何か。
何か。
声がないなら、態度で言って欲しい。

この手を跳ね除けて、馴れ馴れしくするなと全身で拒絶してくれれば良い。


けれど、それも叶わなかった。


「……え」


由衣が伸ばした手は、そっと下から掬うように小太郎の大きな手に取られ、そのまま反対の手が頭上に伸びる。

ただただ由衣は目を白黒するばかりだ。

まさか。
拒絶以外の何かが与えられるとは予想だにしなかった。

温かい。
ちゃんと生きている、そこにいる温度がある。

こんなの堪らない。

勝手に一人、恋心を覚えてしまった愚かな娘の側からしてみれば、奇跡のような一度の邂逅よりも更に―――焦げるような痛みを募らせるばかりではないか。

磨いた床に音を立てて落ちるのは、昨日と同じ透明な雫。
パタパタと頬を滑り落ち、顎を伝って、そうして幾粒も弾けていく。


「ひどいです……ひどい、です……!」


きゅぅ、と握り締められる己の手を前に、小太郎は言葉の意味に首を傾げる。
何故に酷いなどと言われるのだろうか、と。

けれど、そこから先は何も考えられなかった。

目の前にはうなじ。
全国津々浦々を行く小太郎が、一番認定をしているうなじが、目の前にあるのだ。

涙を見せまいと俯けば俯くほどに、その美しいうなじが露わになる。
まさに垂涎ものだ。

けれどここで昨日のようにポタリとする訳にはいかない。
彼女が顔を上げてしまう。

なので、小太郎は必死に口元を固くし、うなじを凝視することに集中した。


「どうして、どうして触れるのですか?許すのですか?」


由衣が涙と共に訴える言葉も、残念な事に小太郎の耳には二割ほどしか届いていない。

だが、二割は届いているのだ。
つまりは聞いている。

何故に触れるかと問われれば、答えは明白だ。
うなじに触れる為の足掛かりに決まっている

そのように小太郎が言ってしまえば、ここで関係は破綻しただろう。

幸か不幸か……小太郎は言葉を持たない。
だからこそ、由衣はまた夢を見る。

答えはない。
手を振り払われる事もない。

心の中に「栄光門を見るな」と言う忠告が過ぎるけれど、それでも、恋焦がれる気持ちが失速する事など、最早ないに等しいだろう。


頭上に触れていた小太郎の手がスッと退き、それに合わせ由衣も自然と彼の方を向いた。

由衣の手を取ったままの小太郎は、不自由であろうに、器用な動きで口を使って嵌めていた手袋のような装具を外す。


「?」


それを床に落とすと、不思議顔をしている由衣の頭を優しく撫で、そのまま……


「ひゃんっ」


頬を濡らす水滴を指先で拭い、つるり、つやりとした「目的地」へと到達する。
予想外なほどに良い声で啼いた由衣に驚きつつも、やはり小太郎は悪くない、と内心でご満悦だ。

何よりも、目的のうなじに触れる事に成功したのだから、小太郎の浮かれっぷりといったらなかった。
誰もいなければ両手を天高く上げ、膝から90度ほど曲げた状態で片足を上げ、クルクルと回って踊りたいほどの有頂天振りである。


「ふ、ふ、ふう、風魔さ、ま……!?」


わざわざ直に触れる為だけに素肌を晒した風魔に動揺しつつも、由衣は拒む事だけはしなかった。
幸せな彼女の脳内では、彼の変態思考から来る行動が美化され、以下のようになっていたからである。

“泣いている娘を慰める為、彼は手を取り、あまつさえ傷つけまい、警戒させまいと素肌を晒して下さった”

見事な妄想力と言わざるを得ないだろう。

合っているのは「警戒させまい」の件(くだり)のみであり、しかもそれは、あくまでもうなじを触りたいが為、であるのだから救いようもない。


しかし、この触れ合いを切欠に、二人の距離はグッと縮まったのも間違いなく、それは互いに望んだ事だったのだから、内容さえ気にしないのならば、両者共に「幸せ」な展開だと言えなくもないのだろう。

最も……幸せなのは、両者の頭の中身なのだろうけれど。