由衣が大打撃を受けている頃、栄光門の上では風魔 小太郎が苛立っていた。
いらいらいらいらいらいらいら……。
栄光門の上から漂ってくる不穏な空気の正体こそ、門を守る衛兵達にはバレてはいなかったが、周囲に漂う重苦しくも、針で指して来るかのような徒ならぬ気配に、緊張を張り巡らせていた。
今日は何か起きるかも知れない。
俺の勘は冴えてるぜ!
衛兵たちは、無駄に士気が高かった。
可哀相に。
単に小太郎の機嫌が悪いだけの事なのに……。
ピリピリとしている小太郎の傍には、何人たりとも近付けはしない。
部下でさえも、余程の事でもない限りは遠巻きに様子を伺うばかりである。
何故に彼がそんなに苛立っているのか―――それは所謂「禁断症状」だ。
北条一のうなじ美人である由衣が、どういう訳か、ここ最近上を見上げてばかりなのである。
上を向くな。
うなじが見えないだろう。
まったく……何だというのだ。
小太郎は大層ご立腹であった。
彼は傭兵であるからして、今までもあちこちに仕えてはいたが、こと小田原城勤務は気に入っていたのである。
それは偏に由衣がいるからだ。
いや、正しく言うのならば「由衣のうなじがあるから」なのだが。
だと言うのに、彼女のうなじを堪能出来ないのならば、小田原城に居る意味すら薄れてくるではないか。
どうにもうなじ主義である小太郎は、もう北条に仕えるのやめようか、とまで思い始めていた。
他人からすれば、たかがうなじ如きでそんな事を考えるな、と言いたい所なのだが、小太郎にしてみれば「美うなじ」は死活問題に近いのだ。
仕事のやる気や精度にだって影響は出る。
由衣のうなじが満足いくまで見れなくなって早数日、小太郎は本日とうとう栄光門から落ちそうになった。
これは不味い。
誰にも見られてなかったから良いものの、風魔の頭領としての沽券にも関わってくる。
と言うか、普通に恥ずかしい。
嗚呼、あのうなじが見たい。
出来る事なら、間近から見たい。
至近距離が望ましい。
いっそこの手で触れてみたい。
つか、見せろ、触らせろ。
小太郎の頭の中では、そんな事ばかりが巡っていたのである。
「………………」
うぅむ、と栄光門の上で、一人考える。
見たい、が叶わない。
ならば……触りたい、はどうだろうか?
頭がおかしくなっている小太郎の思考は、いよいよ変態染みて来ていた。
所謂「普通の人間」ならば、絶対に「見たい」から「触りたい」へ直結はしないはずだが、彼はそれを当たり前にやってのける脳をしているのである。
更に最悪なのは、彼の行動が滅茶苦茶に早かった点であろう。
思い立ったら即行動。
座右の銘にでもした方が良い。
***
シュバッと栄光門から飛び立ち、変態、もとい小太郎がやって来たのは、当然由衣のいる場所である。
何故に彼女のいる場所を知っているのか?
そんなもんはある種のストーカーだから、としか答えられない。
何時にはドコドコに居り、その後にはドコソコに移動する。
そこに居ない場合はアソコら辺に居る筈だ。
小太郎はその程度には、由衣の行動パターンを熟知しているのだ。
そして小太郎の睨み通り、由衣は長〜い廊下をキュッキュと拭いていた。
掃除中だけはちゃんとうなじが見えるので、これまでも毎日小太郎はうなじ観察のベスポジにて由衣をねっとりと、それこそ舐めるように見詰めていたのだが、己の存在をバラさぬように見詰めると言うのは、そこそこに距離を取っていると同義なのだ。
物足りない。
触りたいと言う衝動に至っている彼にとって、この距離は最早拷問に近かった。
けれど、それも今日で終いだ。
これからの俺は今までとは違う。
小太郎は妙に気合が入っていた。
ふぅと呼吸を整え、小太郎はごく自然を装って由衣へと近づく。
前回は鈍臭い彼女がゴミクズをばら撒くと言う失態を犯した為に容易に接近が図れたが、今回は特に何も起きては居ない。
どう現れるのが自然なのだろうか。
誰かを曲者に仕立てて始末すると言うのはどうだろう?
いや、血生臭いのは後が面倒臭い。
怖がられたい訳ではないのだ。
これから先がなくなるような真似をしてはならぬ。
何かドジしねぇかなぁ〜。
小太郎はちょっぴり他力本願になりかけていた。
キュッキュ、キュッキュと一心不乱に床を磨く由衣。
その背後に腕組して立っている小太郎。
第三者が見たら、さぞかし異様な光景だろうが、幸いな事に人っ子一人いなかった。
小太郎は間近からのうなじ堪能に夢中であり、傷心の由衣は掃除に逃避中だ。
どちらも己の世界にドップリと浸かっている為に、互いの存在に気付く事もない。
その時だった。
キュッキュと磨かれる床に、ポタリと水滴が落ちた。
流石に由衣とて、己の磨く床に水が落ちてくれば気付くので、直ぐに斜め上空を確認するも、そこにあるのは天井であり、特にコレと言って何もなかった。
周囲を見回すも、やはり何もない。
由衣は空模様を見て納得する事にした。
今にも雨が降り出しそうな曇天だったからである。
あ、あ、危ねぇ!!!
小太郎は己の口元を拭いながら、間一髪で天井裏へと逃げ出す事に成功していた。
なんとも情けない事に、あまりの「美うなじ」を間近にし、興奮のあまりうっかり涎が落ちてしまったのである。
俺もまだまだ修行が足りぬ。
小太郎はあさってな方向に反省した。
だが。
だがしかし。
思っていたよりも、間近、と言うのは良い物だった。
うっかり涎さえ垂らさねば、目的であった「触れる」さえも可能であったはずなのに。
小太郎は屋根の上で悶えた。
たしたしたし、と苛立たしげにつま先で高速貧乏揺すりである。
しかも、無表情以前に兜で見える事はないが、ちょっぴり目尻が濡れていた。
泣くほどに無念だったのである。
痛恨のミスであった。
そのミスを踏まえた翌日。
小太郎はキュッと口を引き結び、緩くなる事の無いよう十分に配慮の上で、満を持して由衣の前に現れた。
彼女が現在、小太郎にどんな気持ちを抱いているのかをまるで知る事無く。
今日も今日とて、一心不乱に床を磨いていた由衣。
小太郎は彼女に近づくべく、磨かれた床の上に風で周囲の木々の葉を飛ばしてわざと汚し、ついでに触れるべく、由衣の頭上にも1枚、葉を落とした。
昨日、あれからずっと栄光門の上で一人考えていたのだ。
どうすれば違和感なく、由衣のうなじに触れる事が可能なのかを。
これならば完璧だ。
ごく自然な成り行きで、由衣に触れる事が出来る。
小太郎は己の考えた策に満足げに頷き、あわわと床を掃除している由衣の眼前に姿を現した。
あの日と同じに、親切を装って―――。