本日も仕事に勤しみ、とてとてと廊下を行く由衣は、コッソリと袂に潜ませた拾い物を何度も何度も頬を緩ませて、布地の上から撫でていた。
彼女が拾ったのは「風魔さまの羽」である。
あの日、音もなく掻き消えた彼が残していった、漆黒の羽。
忍の方が使われる術か何かの名残なのだろうか。
それとも、風魔さまは天の遣いか何かなのだろうか。
ただただ由衣は胸を躍らせて、取り留めなく風魔の事ばかりを想っていた。
由衣にとって、風魔は憧れてやまぬ存在だったけれど、こうして直接触れ合ってしまうような出来事があれば、それが加速度的に熱を孕んでいくのは自明の理で、当然彼女もまた自然の理には逆らいようもなかったのである。
言葉なく、そっと顔に触れた彼の指先にはちゃんと熱があり、それは人外の如く強いと言う「風の悪魔」が、自分と変わらぬ「人間」である事を由衣に教えた。
不思議なもので、一度出会ってしまえば、触れた温度を覚えてしまえば、心は手に負えなくなってしまうものである。
由衣の心は既に憧れと言う領域を越え、何かを望み始める、欲張りな「恋」の側へと進み始めていた。
間近に見た彼の背格好。
装束に浮かび上がる、鍛え上げられた肉体美。
強靭な身体を持つのに、そっと優しく触れた指先。
そこから伝わる温度。
くっと口端を吊り上げた、微かな笑み。
全てが由衣の脳を侵略していくのだ。
頭の中ではそれらが繰り返し繰り返し、淡い恋心にて由衣を喜ばせては、知らず欲張りになる己へと溜息を呼び寄せる。
一度ある事は二度ある。
誰がそんな事を言ったのだろう。
期待してしまう。
城下へとお遣いに出るたびに、じぃと栄光門の上を見詰めてしまう。
いらっしゃるかしら?
もしかしたら、私に気付いて下さるかしら?
気付いて下さったのなら、今度はきちんとお礼をしなくては。
でも。
でも、許されるのならば……もっと、色んな事をお話してみたい。
また笑って下さるかしら?
お声をお聞かせ下さるかしら?
少しだけ、少しだけで良いから。
仲良く、なれはしないだろうか。
ほら、こうして心はいつでも欲張りになってしまうから、罪深い。
片や北条の守護神。
片や北条の下っ端女中。
実りようもない、望むだけ無駄な、そんな想い。
解るのに、解っているのに、それでも気付けば考える。
会いたいな。
会えないかな。
せめて、お姿を見る事が叶わないかな。
あの美しい髪が、風に揺れるのを見れないかな。
駄目だ、駄目だよ。
そんな事を考えてはいけないよ。
心の奥の方から声がしてる。
諌められている。
でも、募る想いをどうしようもなくて。
「……また、来ちゃった」
夢遊病の如く、最近は気付けば此処に来てしまっている。
風魔さまに初めて触れて頂けた、あの廊下へと。
期待しては諦めて、夢想しては己を諌めて、そうこうしてると此処につく。
仕事をしている時は、せめてそれに集中する事で誤魔化せるのだが、如何せん時間が空くと思考が奔流に押し流されるのだ。
結局いつもこの場所へと辿り着き、座り込んでは暫くぼんやりと過ごし、やはり二度目なんてないのだと諦める事で、ようやく去る気になる。
繰り返す、馬鹿げた行動を自分自身でも止めたいと思っているのだ。
ただ、上手く行かないだけで。
そして、この日も由衣はこの場に在った。
仕事に疲れているのだから、夜になれば眠れるはずなのに、会えぬまま過ぎ行く日々にこそ疲労が溜まったらしく、満月の美しい夜……由衣はやはり気付けば其処にいたのである。
最早、病の域なのではなかろうか。
自分でもそう思ってしまうほどで、寝巻き姿にちょっとしたものを羽織っただけの非常識極まりない姿で、由衣は座り込んでいたのだ。
忍の者たちは昼夜を問わずに仕事をすると聞く。
だからかも知れない。
期待が、夢の世界よりも現実へと惹き付けて由衣を放さないのは。
けれども願いが叶う事はなく、段々と白んでいく空が、現実にも夢などない事を知らせるものだから、由衣の目に浮かぶ涙に朝陽が煌いた。
たった一度の、奇跡のような触れ合い。
そう、「奇跡」なのだから……二度目などないのだ。
このままでは身体を壊すだろうし、常盤ちゃんにも心配を掛ける。
何より、仕事をクビにでもなったらどうすれば良いのだ。
現実を見なくては。
由衣はようやくどこかで割り切る事が出来そうだと、パタパタと落ちて弾ける涙を見送り、これを最後にしようと心に決めた。
だが悲しいかな。
人生の転機というのは、望まずして起こる事の方が多いのだ。
痩せようと思い立った日にご馳走が出たり、散歩に出ようとした途端に雨がどばっしゃんと降って来たり、大なり小なり出鼻を挫く出来事と言うのは往々にして起きるのである。
満月の光を遮り、己の前に影が出来た事に気付き、由衣は無防備に顔を上げた。
何も考えられる状況ではなかったのだ。
「………………」
目の前には忍。
咄嗟に叫ぶべきかとも本能的に思ったが、良く見なくとも風魔忍が纏う装束だと気付き、由衣はぱくりと開けた口を手の平で隠した。
ここに来ても由衣がどうしようもないのは、現れた忍が風魔 小太郎でない事にガッカリしている点である。
諦めようと決意したのではなかったのか。
由衣は思わず自分に突っ込むも、見知らぬ者の前で涙をだらだらと流している事の方が重大な問題な気がした為、取り敢えず袂でクイクイと目元を拭った。
目の前の忍は何も言わない。
髪の色も、彼が持つ雰囲気も、何もかもが違うけれど、そんな所だけが風魔さまに似ている。
風魔忍は何らかの掟に基づき、意図して喋らないのかも知れない、とぼんやり思った時、目の前の忍が「あんた……」と声を発した。
由衣の考える事、何故かさっきから全てハズレである。
「は、い?」
「あんた、こんな場所で何をしている」
「!も、申し訳ありません!警備のお邪魔でしたか!?」
ハッとし、額をぶつけそうな勢いで頭を下げれば、忍は「いや、そういう訳ではないのだが」と、何故か言いよどむ。
「……余計な世話だろうが、一つ忠告しておく」
「はい?」
「栄光門を見上げるな」
「!」
彼の発した言葉に驚き、目を瞠る由衣を残し、忍は音もなく消えた。
“栄光門を見上げるな”
それは、自分が「風魔さま」を探し、つい視線を遣っていた事を知っているという事だ。
誰が知っていた?
栄光門の上に居るのは……風魔 小太郎、その人だけではないのか?
拒絶?
迷惑だった?
一目、その姿を見たいと願う事すら、望んではならなかった?
あんまりだ。
あんまりだ。
あの人は勝手に触れたのに。
憧れを、恋心へ塗り替えて行ったのに。
乾きかけた瞳が濡れ、床に水音が弾ける。
もっと早く、諦めておくべきだった。
愚かしい真似の繰り返しなど、止めておくべきだった。
由衣は満月を仰ぎ、何かが壊れた心の中を思う。
淡い恋心は打ち砕かれ、何度も思い返した優しい指の温もりは、何故か、ひどく冷たく感じられた。