北条には守護神が居る。
先祖に頼ってばかりの北条氏政のことではない。
彼が雇っている傭兵忍び、風魔小太郎のことである。
赤い髪に兜で顔を覆った彼の風体は異様だが、それを補ってなお余りある強さが彼にはある。
攻めてきた敵の軍勢を、単騎で撃破しきれる風魔小太郎は、強い。強すぎる。
普通なら恐れられて然るべきだが、北条では違った。
主がしっかりとしていればまた違ったのだろうが、
彼は上述の通り偉大な先祖に頼ることが多く、今一頼りがいが無い。
その上、主・北条氏政は、異常な強さを持つ風魔小太郎を心底信頼し
偉大な先祖と同じぐらいに頼っており、その心が部下たちにも伝わって
結果、彼は北条の守護神として、尊敬と信頼の眼差しで見つめられているのだ。
もちろん、畏怖はある。
所詮は忍びという者も、居る。
だけれども、それだけではなく、それだけでない者の方が多いと、そう言う話だ。
そしてそれは北条で侍女として働く由衣とて例外では無い。
最も彼女の場合には、尊敬と信頼と、ほのかな憧れがある、というのが正しいのだけれども。
さして、前のことでもない話だ。
北条に軍勢が攻め込んできたことがあった。
男たちはそれの撃退に駆り出されていき、残されたのは留守役たちと女達。
微妙に皆不安を抱えながらも、いつもよりちょっとだけ警戒を強めながら生活して。
だけれども、すぐにその不安は解消されることになった。
早駆けの馬が、いつも通り風魔小太郎の活躍が切っ掛けとなり
北条の軍勢は勝利を収めたと報告してきたのである。
それによって、後は出て行った者たちの帰りを待つだけだと、
城内は安堵し、いつも通りの日常がすぐさま戻ってくることとなった。
「風魔さまは、本当に北条の守護神のようね」
戦は、やはり女の由衣は怖い。
だからそれを終わらせてくれたという雇われ忍びの名を感謝の気持ちで呟いて
彼女はずっと居てくれたら良いのに、と風魔小太郎に対して思う。
彼は傭兵だから、金の切れ目が縁の切れ目になるだろう。
それは、ちょっと困る。不安だ。
多分そのような事態には、彼を心底から信頼し重用している氏政がさせないだろうけれど。
でも、ずっと居てくれたら良い。
平時には栄光門の上に佇んで、じっとどこかを眺めている忍びの姿を由衣が思い浮かべ
切に願っていると、柔らかな風が吹いた。
花を活けた花瓶を持ち、縁側を歩いていた由衣はその風に目を細めて
それからぱちっと瞬く。
向こうの方に影が見えたからだ。
何かしら。
首を傾げて由衣はそちらを注視する。
戦が終わったばかりのことということで、いつもは呑気に鳥かしらねぇ。と思う彼女も
注意する気になっていた。
そして、彼女は見る。
木から木へ、早い速度で飛び移り移動する赤い髪の忍びの姿。
北条の守護神。
風魔小太郎が、小田原城に向かって走っている姿を。
その赤い髪が日の光に煌めいて、美しい色をしているのを。
「…綺麗」
ぽつんと呟いた由衣の声は、誰にも聞かれることはなかったが
その声には先ほどまでは無かったほのかな感情が入り混じるようになっていた。
綺麗だったのだ。
まぁ…だからといって何があるというわけでもない。
ほのかな感情はほのかな感情だし、侍女と忍びでは同じ城の中に居ると言っても接点は無いに等しい。
だから由衣は、今日も風魔さまが見れたら幸せ。という地味で小さい事を願う程度で
侍女の仕事をこなすのである。
「あのね、常盤ちゃん。南の階段は雑巾がけ、皆済ませたのかなぁ?」
由衣は、同僚の常盤に向かい首を傾げた。
毎朝の掃除は侍女たち全員で行うことになっているが、客間などの室内はともかく
階段などの掃除は皆さぼりがちだ。
だから、少しだけ汚れがちなので由衣は暇を見つけたら掃除を出来るだけすることにしている。
ただたまに同じことを考えた誰か、例えば目の前の常盤だとかに先を越されていることがあるので
一応問いかけてみると、彼女は首を横に振った。
「済ませてないと思うけど?」
「じゃあ、私してくるね」
「手伝おうか?」
「ううん。一人で大丈夫」
常盤の申し出に、今度は由衣が首を横に振る。
常盤には常盤の仕事がある。
確か、部屋のいくつかに花を活けてくれと頼まれていたはずだ。
だから手を煩わせてはいけないと断って、由衣は雑巾と桶を持って南階段へと向かうのだった。
「…今日はお仕事そんなに無いし、北階段も掃除しちゃおうかな」
雑巾をかけた桶を持ち、由衣は口元に人差し指を当てて、んーと考える。
別に由衣は掃除が好きなわけではないけれども、やっぱりいろんな場所が綺麗だと
気持ち良く過ごせる気がするから、気がついた時には掃除はしておきたい。
だが、どうしようかなぁと、考えながら歩いているとやはり注意が疎かになるもので
彼女はうっかりと、柱にガンっとぶつかった。
「ひゃん!?」
反射的に情けない悲鳴が由衣の口から洩れた。
「あいたたたた…」
しかしいつものことだ。
うっかりバスっとかゴスっとかガスっとか言う音を立てて
柱だとかにぶつかったり、思い切りずっこけたりするのは由衣にとって珍しいことではない。
だから、彼女にとって不幸だったのは
「……ちょっと、桶持ってるんだから気をつけなさいよ?」
侍女頭が由衣のすぐ後ろを歩いていたことだろう。
声に振り向き、侍女頭の呆れた表情を目にした由衣は、かぁっと顔を赤くして
挙動不審にうろうろと視線をさまよわせる。
うわ、なんでこんな所見られちゃうんだろう、恥ずかしい。
「あ、いやあの、違うんです。ごめんなさい」
「…違うって何が」
その突っ込みは、極限まで羞恥が高まったのだろう、空いた手で顔を隠して
ぱたたと逃げて行った後の由衣には届かない。
だけれども、まぁ、いつものことか。
思い直した侍女頭は、苦笑を浮かべて仕方がない娘だと年若い彼女を思う。
頑張りやで良い子なのだけれども、ちょっと抜けていて天然なところがあるのが、困りものだ。
ただ、まぁそこも彼女の可愛らしさといえばそうなので、
結局皆きつく注意することも無く放っているのだけれども。
「ま、あの調子ならすぐ嫁に行くだろうしねぇ」
顔も可愛いし、性格も良い。
貰い手は山のように居るだろう。
肩をすくめて歩き出した侍女頭は知らない。
彼女にこの後待ちうけている出会いを。
きゅっきゅと、階段を拭く。
侍女仲間は皆、腰をかがめて後ろ向きに下がらねばならない
この階段拭きが怖いから嫌いなのだという。
でも、由衣は、怖いのは怖いけれども、階段が汚い方が嫌だ。
皆に気持ち良く過ごしてもらう、そういう気配りをするのも侍女の仕事の内であるし
由衣が純粋にそうしたいのもある。
皆、一緒に居るんだもの。気持ち良くして笑っていて欲しい。
真剣に、茶化すこと無くそう思える由衣の心というのは
何かと荒みがちな戦国の世においては希少で。
だからだろうか。
彼女に仕事を頼みたがる人間は多かった。
「由衣、階段拭きかね」
「あ、はい。そうです。今どけますね。申し訳ありません」
にこりと目を細めた壮年の男、城の重鎮に声を掛けられた由比は、パッと顔を上げて
すぐさま男の通り道から身をどけた。
だが、男は由衣のその反応を見ながら、相変わらずにこやかにし
「やれ、そこまでかしこまることはない。
それよりも、一つ頼みごとがあるのだが良いかな」
「はい、何なりと」
「私の部屋の紙くずをかたずけて欲しいのだ。
書を書いていたら、くず籠から溢れてしまってね」
「かしこまりました」
男の期待通り、由衣は頼みごとをされても嫌な顔一つせず
それどころか満面の笑みを浮かべる。
そうすると、平素からふんにゃりとしている由衣の雰囲気は
ふんにゃりを通り越してほんにゃりになって、その空気を感じていると、何かと和む。
そして、その和む空気を感じたいからこそ、皆、彼女に仕事を頼みたがるのである。
荒む心に癒しは欲しい。
けれども、由衣はふんにゃりほんにゃりした女であるので
そのような意図が皆にあるとは知らず、ふんにゃりほんにゃり言われた仕事を一生懸命こなすのだ。
それは今回にしてもそうで、彼女は大急ぎで階段の拭き掃除を済ませると、男の仕事部屋へと向かう。
勝手に入っても良いとの許可は貰っているので、するりと襖を開けて中に入ると
男の言った通り、彼の部屋のくず籠は満杯になっていた。
「ほんとにいっぱいねぇ」
のんどりとした声で一人呟いて、由衣はくず籠を持ち上げる。
よほどごみを出すことが多いのだろうか、他の部屋よりも大きい、一抱えあるくず籠を抱え
由衣はてくてくと廊下へ出る。
確か、今日は庭師が枯れ草を抜いて焼くと言っていたから、一緒に焼いてもらいましょう。
記憶をたどり、二日ほど前に聞いた情報を頭の引き出しから引っ張り出して
由衣は庭師が『煙に注意するように』と言いながら教えてくれた場所へと向かう。
だが、すすっとそこに向かうには、抱えたくず籠が邪魔をする。
大きすぎて、視界を遮るのだ。
「……見にくいわ…」
ほんの少し眉を寄せ、困った調子で由衣は呟く。
いい加減普通にしていても、こけたりぶつかったりする自分なのに
こんな状態では、ますますどじをしてしまいそう。
困りながら、さりとて片手では持てず。
どうしようもないのでそのままの状態で進んでいた由衣が、外へと出た瞬間。
「あ」
心配通り、予想通り、彼女はこけっとつまずいた。
しかも、最悪なことにその拍子にくず籠を空中に放り投げてしまうという失態付きで、こけた。
「あ、あ、あー!?」
こけながら叫んで、でもどうにもならずに彼女は顔面から地面に向かってこんにちわ。
くず籠は空中で弧を描き、地面にぼすっという音を立てて転がる。
無論、中身は弧を描く途中で綺麗ーに地面に散らばった。
まさに最悪。
…いつものことだけど、最悪だわ…。
くすんっと鼻をすすって、自分のどじっぷりを責めながら起き上がろうとした由衣だが
彼女が起き上がる前にぬぅっと影が差した。
それに何気なく顔を上げ、彼女は驚愕する。
影の主、由衣を覗き込みながら見下ろしていたのは、北条の守護神と陰で噂される風魔小太郎であったからである。
どうして風魔さまがここに?!
予想だにしなかった事態に、パクパクと口を開け、言葉も出ない由衣に構わず
小太郎は由衣を見下ろし続ける。
その視線は探るようなものであり、馬鹿にする調子が混じっていなかったのは
彼女にとって幸いであったが、でも、なぜ見られているのかが分からない。
ほのかな憧れを抱いている、今までは遠くからちらりと見えるだけだった相手が
至近距離で自分を見ているということに、由衣の思考はますますもって、纏まらなくなる。
そのため、彼女は起き上がることも、声も出すこともできず
かあっと顔を赤くするばかりで。
それがおかしかったのだろうか、小太郎の口の端がくっと吊りあがった。
―あ、笑った。
風魔小太郎の表情の変化を初めてみた由衣は、何故か感動したような気分を味わいつつ
彼の顔を顔を赤らめ眺め見る。
兜から上は見えないが、下半分は整っていて、兜から覗く赤い髪が、綺麗だ。
その事に、憧れの気持ちが少し、募る。
そしておまけに風魔小太郎は、その状態の由衣に
拾ったのだろう、持っていた紙くずを手渡し、そして彼女が思うさまぶつけた顔面を一撫でして、掻き消えた。
「あ」
手を思わず伸ばすけれども、届くわけがない。
消えた後の虚空に、むなしく由衣の手は伸びて、そして彼女はその手を下す。
「………わざわざ拾ってくださったのね…お礼も言えなかった」
呟く声は小さく、そして僅かに熱を孕んでいた。
間近で見て、親切にしてもらって。
ほのかな憧れが熱をもつのには十分だ。
手渡されたときに触れた手の温度と、口の端を吊り上げた笑いの表情を繰り返し思い出しながら
由衣は今度会ったらお礼が言いたいと、風魔小太郎と再度会えることを願うのだった。
…まあ、その後には、散らばったごみくずのお片付けが待っているのだけれども。