目が覚めて日光の光を一番に目にする生活、プライスレス。
実にロハス的で、セレブティな響きの言葉であるけれども、日輪への信仰によるものだと付け加えると
途端に残念になるのはなぜだろう。
目を開いて一番に目にした、清々しい青と、陽の白に、目を眇めながら
里香はどうでも良い事を思った。
結婚してからというもの、毎日繰り返されるルーチンではあるけれども
今日は殊更空が青々しくて、綺麗だ。
「………今日は、空が青青しいですねぇ」
「夏だ。当然であろう」
だから思わず、日輪を遮光眼鏡を掛けて眺める夫に話しかけてみたけれども
一蹴されて会話は終わった。
まぁ、日輪信仰の人間が日輪を眺めている時に話しかければこんなものだ。
里香は己の発言の一蹴され具合を気にすることもなく、伸びをしながらベッドから起き上がる。
そうして、床に足をついて立った所で、自分の体調を彼女は改めて確認してみた。
頭、頭痛無し。
鼻、鼻水出てない。
喉、痛くない。
体調、オールグリーン。
よっしと握りこぶしを作って、
里香は自分の全快を喜ぶ。
一日寝込んだだけで治るとは、まだまだ若いじゃないか、自分の体。
年々、特に十代のころと比べると衰えを感じる自らの体だが
まだまだ捨てた物ではない。
月中だから、仕事はそうそう溜まって無いとは思うけど、休んだ分は取り返さなくては。
さて、どこから手をつけた物か。
恐らくとして来ているだろう伝票や、出張の仮払い清算書などに考えを巡らせつつ
里香は朝の支度をするために、夫を置いて寝室を出て行くのだった。
意外かもしれないが、毛利夫婦は朝は一緒に出勤する。
ただ単に、普通に支度していれば、それが終わる時間がかち合うだけの話で
特に一緒に出ようとかそういう感覚はないのだけれども、今のところ結婚して五カ月程度が過ぎたが
欠勤した時以外は、揃っていなかった日は無い。
「…元就さんがもともと住んでいたマンションは、本当に便が良いですね。
看病しに帰ってきたときに実感しましたよ」
「でなくば選ばぬ。気がついて無かろうが、あそこはセキュリティも万全ぞ」
「相変わらず、そつのない」
「だろうね。僕もそう思うよ」
「ですよね…………?」
混じるはずのない第三者の声が、会話に加わる。
それに
里香はきょとんと眼を開き、元就は嫌そうに顔をしかめた。
「やあ、おはよう」
にっこりと笑いながら登社する夫婦に話しかけたのは、竹中半兵衛人事課長であった。
夫婦の後ろに涼しげな笑いを浮かべて立つ彼は、今日も麗しい。
…のはいいけれども、なぜこの人がここに居るのだろう。
振り向き彼の姿を視認した
里香は、やはりきょとんとしたまま首を傾げる。
「あれ、竹中課長?…おはようございます」
「近くに住んでいるんだよ。便が良いからね、ここ周辺は」
「便が良い以前に、貴様の通いの病院が近くにあるだけの話であろう」
疑問に思ったことを口に出す前に、察しの良い半兵衛は
里香に向かって微笑んだ。
だけれども、その半兵衛の愛想を打ち壊すように、普段通りの夫が彼に向かって正しく情報を是正する。
しかも非常に冷たい声で。
…また要らん真似を。
誰彼構わず喧嘩を打って歩く癖でもあるのだろうか、この人は。
思わずため息をつきたい気分になった
里香だが、しかし言われた当の本人は
笑みを浮かべたまま軽く肩をすくめて元就の言を受け流す。
「まぁ、そうとも言うかな。でも便が良いのは本当の話だろう、元就君。
でなくば君がここに住まうわけがない」
「好きに解釈するが良いわ」
「じゃあ、そう解釈させてもらおうか。…そんな目でこちらを見ないで欲しいものだね」
「どのような目だ。言うてみよ」
「僕は君に喧嘩を売る気はないよ。その辺りは、理解してもらえると非常にありがたいね、元就君」
「戯言を。貴様の手の内、見通せぬ我だと思っておるのか」
「そうやって疑ってかかるのは、君の良くない癖だね。
僕は秀吉のためにしか動かないし、秀吉は特に今、君を排除すべきだとは思っていない。
これが僕が君に提示できる唯一の答えだ」
「戯言と言ったのは取り消してやろう。特に今と注釈をつける程度の状態で
そのような詭弁ばかりを吐く口ならば、閉じておるが良い。空気の無駄ぞ」
「…やれやれだね。僕のいった言葉を理解してくれるなら、君の方こそ少し黙ったらどうかな」
どうして、朝からこんなうすら寒い空気にさらされないとならないのだろうか。
二人の横を歩きながら、
里香は非常に陰鬱な気分になった。
至近距離で話されて、いやでも聞こえてくる会話がうすら寒い。
なんだ、この仲の良くない会話は。
仲が悪いなら、会話しなきゃいいじゃない!
と、ごく当然に
里香辺りは思うのだけれども、多分、この二人は別に仲が悪いわけではない。
予想すると、おそらく目の前に居さえしなければ関心もないだろう。
ただ、現状目の前にいるから探り合っているだけで。
同じ会社で、利益が絡む関係でなければ、話もしないのだろうなぁと
ぼんやりと
里香が空を見上げて現実逃避していると、ふと半兵衛の視線がこちらを向いた。
そして次に彼は元就を見て、少しだけ面白そうな色を瞳に浮かべる。
珍しくも。
竹中半兵衛という男は非常に優秀ではあるが、その才は豊臣秀吉ただ一人のために使われている。
全てが、結局そこに帰結してくる。してこなかったことがない。
だから、彼が秀吉に関係の無い所で行動をするのはごく珍しい事なのだけれども。
「それにしても、君たちは予想と違って随分と仲が良い。
一緒に登社して、お昼を取って。昨日一昨日と仲良く連続ダウンまでしてしまったそうだね。
そういう微笑ましい一面が、元就君に有るとは思わなかったんだけど
…少し羨ましくなるかな。
熱を出したらわざわざお昼に帰ってきてくれるお嫁さんがいるというのは」
珍しい、事なのだけれども、そんなことは、一昨日の出来事を冷やかされた毛利夫婦には何ら関係の無い事だった。
半兵衛の笑いを含んだ声に、元就は即座に表情を消して能面のような顔で半兵衛を見据え。
そうして残る
里香の方はと言えば、一番言われたくない所をからかわれた羞恥の余り
じわっと半泣き状態になりながら、真っ赤になって俯く。
べ、別に好きで帰ったわけじゃないのに。
ただ、お昼を作り忘れたから帰っただけで。
でもそこで、あぁ。あの。手を握られた。
ずるりと引っ張り出される記憶の中で、自分が落ちた瞬間までも思い出した
里香は
息を押し殺しながら、必死にそれを打ち消して、額を抑える。
思い出すな思い出すな。
ここでは、思い出すな。
半兵衛にからかわれたくないと、ふるふると首を振って
里香が顔を上げると
まず、元就と目があった。
彼は非常に嫌そうな表情をしてこちらを見ている。
…すみません。
里香は、反射的に脳内で謝った。
悪いのは自分だなと、自分でも思うので。
そういう動揺が相手の思うツボなのだと分かってはいるのだが、いかんせん耐性が無いのだ。
もうちょっと、こう…心を強く。
思いながらため息を吐くその前に、くすりという笑い声が耳に入る。
「
吉野君は、少し思っていたのと違う反応をする人だね。
僕が読み切れないとは、君は本当に愉快だ」
「………はぁ」
麗しく、口元に手を当て微笑む半兵衛に
里香が返せたのは、その間抜けな相槌だけだった。
そんなところ、褒められても。
果たして本当に褒められているのかは怪しいものだが、少なくとも面白がられているのは間違いあるまい。
面白がられても、なぁ。
果てしなく微妙な気持ちになって、
里香が眉をはの字にすると、半兵衛はそれを合図にしたように
自らの腕時計を見て、おやと小声で呟いた。
「まずいな。もうこんな時間か。僕は少し寄る所があるから、これで失礼させてもらうよ」
「あ、はい」
里香がその言葉に頷くよりも先に、半兵衛は早足気味に夫婦を追い越して行く。
元就が相槌すら打たなかったことを気にする様子もなく、だ。
…あの人もあの人で。
一見して人当たりが良いように見えるかもしれないが、その実、全く人当たりが良くない
竹中半兵衛という男の背中を見送って、朝から疲れたと
里香は額を掻いた。
しかし、何をしに声を掛けてきたのだろうかあの人は。
いや、おそらく大した理由もなく、居たから声を掛けてきたのだろうけれども。
そうやって、
里香が竹中半兵衛について考えを巡らせていると
横で僅かなため息の音が聞こえる。
その音に、ちらりと視線をやると、夫と目があって
彼は視線が交わった瞬間に、もう一度、これ見よがしにため息をつく。
「
里香」
「はい、元就さん」
「耐性をつけよ。いちいち見苦しく反応するでない。
それ以外は文句もないというに、貴様は」
「…善処します」
冷たい物言いをしながら、元就が
里香の今だ赤みの残る頬を押し込むように触った。
だが、それに対して顔が赤くなることはない。
余りに元就の物言いと表情が忌々しげなのもあるし、押し込む様に触られている頬が痛いせいもある。
だけれども、一応みっともなく反応した自覚はあるのでされるがままになりながら
里香は胸中で、でもなぁと思う。
でもなぁ。
竹中半兵衛が
里香の夫、毛利元就に対してからかいめいた行為をした理由が、
里香にはちょっとだけ分かる。
分かるから、元就のこの反応もどうかなぁと、正しいと思いつつもどううかなぁと思うのだ。
思えば、以前に伊達政宗、長曾我部元親がちょっかいを掛けてきたこともあった。
それ以外でも、常に反応を注視されるような節が、新婚当初には感じられた。
それ即ち、毛利元就が周りの事に全く反応しないからに他ならない。
動かぬものは、動かしてみたくなるだろう。
自分に興味がないとまるきり態度で示されてしまえば、意地になるものも居るだろう。
それを無視するからこそ、毛利元就は毛利元就であるのだけれども
同時に彼が鬱陶しがる事柄の原因の大半は、自身が作っているともいえる。
…前々から、そう。食せぬの騒ぎの頃から思っていたのだけれども
この人はどうしようもなく生き方が下手くそ。
憐れみでもなく。
もう少し何とかすれば良いのにと、それだけの気持ちで思って
毛利元就の妻は、私だとて、気持ちが分からなくもないものと
政宗や元親半兵衛の行動に、少しだけ共感を覚えてしまう。
余りに平然としすぎていて、何にも反応しない人間を突き崩したくなる気持ちは、分かるとも。
里香だとて、元就を見ているとそのような気持ちになることがある。
というか、割と頻繁になる。
例えば、朝ご飯がゆで卵のときとか。
自分は突き崩されているというのに、相手は崩れない。というのは結構不愉快なものだ。
たまにはこう…やり返してやりたい。思い切り。
平静な仮面を無理やりに剥がしとって、動揺させてやりたい。
一方的にやられるという事に対して、多少の鬱憤はたまっている。
近頃とみに、そう、食せぬ騒ぎからというもの、一方的にこちらばかりが動揺する事が続いているから
一度ぐらいは反撃を。
そう、自分が考えた所で罰は当たるまい。
本当は、一度と言わず、二度も三度も返してやりたい所ではあるのだが
いかんせん、
里香と元就では頭の作りが違いすぎる。
……むしろ一度の反撃も、難しいだろうなぁ。
いや、長く年月を重ねれば、反撃のチャンスも巡ってくるのかもしれないけど
近々と言うのは、多分ない。
今 なう やり返してやりたいのに。
やりたいのにやれないという欲求不満に、
里香は尖りかけた唇を掌で軽く抑え
―その直後、突如として襲ってきた嘔吐感に眉間にしわを寄せる。
胃の奥から熱い塊がせりあがってくるような、それ。
朝、目が覚めた時にはすこぶる良いと思ったのに、未だ全快とはいかないらしい。
オールグリーン、まだまだ若いではないかと思ったのは、全くの間違いだったと
自らの体に思い知らされ、
里香は漏れ出そうになるため息を押し殺した。
と、同時に観察するような視線がこちらに向けられたので、彼女は
「まだ体調が多少悪いだけです」
「ならば精々、風邪薬を飲んで、体調管理に努める事よ」
「気をつけます」
無表情気味に放たれた夫の言葉に、こちらも愛想なく頷きを返す。
常通りの淡々とした、夫婦らしくないいかにも会社の同僚的な雰囲気の会話。
よほど半兵衛に乱された空気が不愉快だったのだろう。
感情も混じらぬような、そういう無機質なやり取りに、(珍しく)いやに満足そうな顔をして
元就は、頷きの代わりに、一つ瞬いた。
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