「元就さん、熱があります。今日は会社お休みします」
「そうか」
「三十七度三分ですけど、こういう時には大人しくしているのが悪化を防ぐ最善ですので」
「あぁ」
「ところで、お昼ごはんなんですけど、さすがにお弁当は作るのしんどかったんで
どこぞで食べてきていただけますか」
「然様か。病院にはきちんと行くが良い」
「はい。じゃ、行ってらっしゃい」
「あぁ」

結論。一緒の家にいると、どうしても風邪は感染します。

ということで、いつかのというか、昨日のデジャヴュのような会話をして
夫、毛利元就を送りだした里香は、ふぅと熱っぽいため息を漏らした。
元就の前では気を張って平然とした風を装っていたが、この風邪中々キツイ。
頭はぐらぐらするし、吐き気が酷い。
里香はこみあげる嘔吐感を口元に手を当てこらえつつ
寝室に戻ってベッドへと倒れ込んだ。
「……気持ち悪い」
呟いてみるが、呟いた所でどうにもならぬ。
というか、却って体力を消耗した気さえして、里香はため息を零した。
だるい。
ひたすらに。
そしてここで寝てしまえれば良いのだろうけれども、里香は社会人であるから
自分で会社に連絡を入れなければならない。
ベッドに持って入った時計を見ると、時刻はぴったり八時。
浅井長政部長が登社してくるのが、八時十五分だからあと十五分か…。
地味に起きてるだけでも体力を摩耗する気持ちの悪さに
里香は気を重たくしつつも、布団をひっかぶって
ただ時が過ぎるのを待つのだった。


そして、十五分が過ぎ、会社に欠勤の連絡を入れ。
寝ようかとも思ったが、病院に行き。
結局里香がベッドで横になれたのは、昼前のこととなった。
本当は、昼にちゃんとしたものを食べた方が治りも早いのだろうが
面倒くさいので、元就の看病の時に買いこんだプリンとペットボトルのお茶を
冷蔵庫から取って、彼女はベッドの縁にずるずると倒れ込む。
「……疲れ…た」
普段ならばどうということもない動きも、風邪を引いた時にすると
体力ががしがしと削れていくのはどういうことなのか。
己の体なのだから、己の良いようになってくれれば良いのに。
中々の無茶を思いながら、里香は持ってきたプリンのビニール蓋を音を立てて剥がす。
本当は、何も食べたくないのだけれども、食べなければ薬が飲めないのだから、仕方がない。
ふっと息を吐いて、一口。
口に含むとふんわりとした甘さが広がって……里香はおえっとえずいた。
………なんか、甘い感じが喉にキて、気持ち悪い。
漫画とかで、風邪の時にはプリンが食べたいとか言う馬鹿が居るけれども、あれは嘘か…。
それらの媒体のおかげで、なんとなく風邪のときはプリンか桃缶というイメージがあったのだが
この調子では、食べたら食べただけ気持ち悪くなって、最終的には吐く予感がする。
「………一口、食べたから…良いよね……」
プリンはもう食べたくない。えずくから。
しかして今更他の物を買いに行きたくもないし、今からご飯を炊いて粥を作るのなんて却下却下却下。
記憶の底をひっかきまわすと、台所にうどんの乾麺があったような気もするけれど……。
「…面倒くさい」
面倒くさいから、一口食べたからもう良いよね発言が飛び出したのだ。
この体調で、何かを作る気などさらさらない。
里香はこみあげる吐き気を大きな吐息に変えて吐きだし、持ってきたペットボトルのお茶の蓋を開けた。
そうしてそのお茶で薬を流し込み、ベッドの中へと潜り込む。
そうすると、ふと、指先に硬い感触が当たった。
ぱちっと瞬きして、引き寄せてみれば、どうやら病院に行くときに持っていくのを忘れていたらしい。
携帯電話がベッドの中から引き摺りだされる。
「あら」
持っていくのを忘れていたことに、まったく気がつかなかった。
多分熱のせいだな。
あまりこういううっかりはしない自分の、珍しいうっかりに頭をかいて
彼女はなんとなしに二つ折りの携帯電話をパカリと開く。
すると待ち受け画面にはメールが一通届いたとの知らせが表示されていて
やはりなんとなく表示させると、携帯電話会社からのアップデートのお知らせメールであった。
よりによって今来なくても。
何を期待していたのかは分からないが、なんとなく肩透かしを食らったような気分になった里香
ふと、携帯電話の右上に表示されている時計の時刻を見た。
時刻、十二時二十分。
プリンだとか薬だとかでうだうだしているうちに、二十分も経ってしまっている。
それにうわぁという、言葉に出来ない感情を覚えながら、里香
こうなれば一緒かと、密かに気にしていた事を問うべくアドレス帳を開いた。
人に干渉しないされない彼女は、友人は居れど滅多に連絡はとらぬから
微妙に手間取りつつも、目的の人のアドレスを開き。
「ご飯、たべ、ました、か。っと」
ぽちぽちぽちっとメールを打って、送信。
年間通して五十通も送らない人間のメール打ちの遅さを舐めてはいけない。
多分じっさまばっさまの方が、早いキータッチを見せてくれるのだろう速度でメールを送ると
返事はそれに反比例するように、素早く返ってきた。
そしてその返ってきたメールを開くと、
『食した』
という短い四文字が躍っている。
そう。メールの送り先は無論、夫・毛利元就であった。
本当は、いい歳をした大人なのだし、昼ぐらい聞かなくてもとは思ったのだけれども
妙に気になったのは、おそらくとして彼が以前初の夫婦喧嘩の際
里香がお弁当を持って帰ってしまったならば、昼食を抜いた事が、どこかで引っかかっていたのだろう。

『一食抜いたとて支障はない。
それと、わざわざ添加物まみれの美味くもないと分かっておるものを
口に入れる事とを比較して、何故夕食まで待とうと思ってはならぬのか』

夫婦喧嘩の際に、昼食を食べていないと言った彼に対して
何故食べなかったのかと問いかけて、返ってきた答えを頭の中でリフレインさせていた里香
どこかほっとしたような、寂しいような気持ちを自分が抱いている事に気がついた。

―ほっとしたのは、きちんとご飯を食べていたから。

―寂しいのは、その時には『なぜわざわざ貴様の作ったものでない食事を口に入れねばならぬ』とまで言ってくれたから。

毛利里香、という女はそれなりには頭が良い。
毛利元就には及ばずとも、それなりに自己分析もできるし、冷静でいられる。
故に、自分の心の動きをきっちり理解してしまって
反射的に、彼女はみしりと悲鳴をたてるまで、携帯電話を思うさま力いっぱい握ってしまった。
「恋する、乙女じゃ、ないんだから…っ」
そうしてそのように力のこん限り嫌がりながら、口を開いた彼女の声は
非常に苦々しく嫌がっていて。
到底、昨日間違った順番で、恋をしてしまった。と、認めた女の物とは思えぬものであった。
だが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
里香は気分を切り替えようと、携帯電話を折りたたみ、一旦は目を閉じたのだが
やはり、ふと気になって、またぽちぽちと携帯電話キーを叩いて、またもメールを送信した。
今度のメールは、『何を食べたのですか』という文面を送った。
添加物まみれの物が嫌だと言っていたから、元就が食べたのは、コンビニ弁当では決してないだろう。
でも、あの辺りの飲食店って、隠れ家的な店が多いから
普段食べに行かない人だと、あんまり良い所では食べられないのよねぇ?
精々、ファミレスが関の山で、それだと添加物まみれからは程遠い。
元・外食組の経験からそれを知っている里香は、そのように疑問に思って
それが気になってメールを送ったのだけれども。
次に携帯電話がメールの着信を知らせるために震え、それを合図にメールを開いた瞬間に
里香は問い合わせのメールを送ったことを、酷く後悔した。

『机にサプリメントを常備しておる』

「………それは、食べ物じゃ、ない……!!」
そりゃ薬というのだ、夫よ。
がっくりと項垂れ、里香はうるうるとしてきた目を擦り、無言でベッドに入る。
駄目だ、うちの夫、放っておいたら栄養バランスをサプリメントで補い始める。
というか、補い始めた。
そしてこのままこっちの風邪が長引いたら、食事の大半サプリメントにし始めるぞ、絶対。確実に。
予感で無く確信を覚え、里香は一刻も早く治さなくてはと、強い決意を固め、就寝するべく目を閉じた。

…しかし、食材指定とかのこだわりから見て、結婚前は自炊を完璧にしてたと思っていたのだけれども
この様子から鑑みると、忙しい時はサプリメントだったな、絶対。
…………なんで、一零めいた行動しかとれないの、あの人は。

どこまでもアレな夫に呆れを強く抱きつつも、どこかに心配が混じる自分の心にこそ呆れながら
里香はゆっくりと、眠りの中に落ちていった。


そして、次に彼女が目を開けると、男の背中がまず目に入った。
ベッドの縁に腰かけて、男がナイトテーブルに置かれたランプの微かな明かりを頼りに、本を読んでいる。
「…元就、さん?」
「目が覚めたか」
名前を呼ぶと、彼は振り向きもせずに読んでいる本の頁をめくる。
風邪で寝ていた妻に対しての夫の所業とも思えないが、優しくされても気持ちが悪いだけなので
里香は気にもせずに起き上がって、伸びをした。
「んぅ…」
背筋を伸ばすと、声が漏れる。
その声に邪魔くさそうに、元就が抗議の視線をこちらに向け
そこでようやっと、里香は半日程度ぶりに夫と顔を合わせる。
…が、どうにも思わない。
ただ、居るなぁと思っただけだ。
人恋しかったともほっとするとも、なにとも思わず、里香はぼんやりと上司が言った
病気の時には心が弱るものだという言葉は、人によるなと考えて
それから、元就がほっとした表情を浮かべた事を瞬時に思い出し
「………」
自分を振り返って、酷く残念な気持ちになった。
「………うん」
「何を一人で納得しておる」
「いえ、何でも」
私はどれだけ人に興味がないのだろうと、改めて考えると己が非常に人非人な気がして(今更である)
里香はふるふると首を振り、思考を止めつつ夫を誤魔化した。
しかし。
そういう反応だということは、元就に果たして本当に恋をしているのかどうかも怪しいものだ。
里香は、尚も訝しげな顔をしつつこちらを見る夫の顔を見て、ほんの少し首を傾げた。
恋を、しているのなら。
こういう時に居てくれたら、ほっとしたり嬉しかったりするものだろう、普通、一般的には。
だけれども、先ほど目が覚めて元就が居たのを見ても、そんな感情は一欠片も生まれなかった。
ただ、先ほども思ったように、居るなぁと、感じただけだ。
……ひょっとすると、気の迷いだとか、勘違いだったりするのかもなぁ。
人間あまりに驚きすぎると、思考がおかしくなるし。
あの。毛利元就が人の名前を呼んでほっとした顔をするなどという
人生に一度もない珍事に巡り合ったがために、少し思考が死んでいたのかもしれないと
あんまりすぎる思考をしながら、里香はナイトテーブルに置かれた時計に目をやり
それから、再び本へと視線を戻しかけていた元就に向かい口を開く。
「ご飯、うどんでも良いですか」
「作れるのか」
「良く寝ましたから」
昼から夜までぐっすりだったおかげか、体調は寝る前とは雲泥の差だ。
それを答えると、夫は読んでいた本を閉じて里香を見る。
そしてそのまま静かに視線を合わせた後、そっと顔を背けて彼は立ち上がった。
その行動で何を彼が思ったのかは知れない。
だが、里香は毛利里香であるので、その彼の意図の読めない行動を思い切り流して
寝ていたベッドから起き上がり、んぅっと声を漏らしもう一度伸びをする。
良く寝た。ともかく、良く寝た。
おかげで頭はぼんやりと重たいが、それ以外はすこぶる良い。
頭以外は軽い身体に、うんうんと喜んで、里香はベッドから降りようとして。
けれども良く寝ていた体はその動きを鈍らせていたようで
彼女はシーツに足を絡ませて、上体をぐらつかせた。
「わっと」
軽い悲鳴を漏らし、そのままつんのめってこけるかと思った里香だが
寸前でぽふっと何かにぶつかって、それは阻止される。
「…何をしておる。愚か者が」
「あぁ、はい、すいません」
状況を把握する前に、降ってきた鋭い声に反射的に謝って
そこで初めて、里香は己が、暖かな何かに抱きとめられている事に気がついた。
はて?
寝起きのせいか、微妙に回転が悪い頭で考えながら
里香は前にあるスーツの黒にぱちぱちと二度目を閉じて、開いて。
数拍の間をおいた後、彼女は自分が元就に抱きとめられ、転ばずに済んだという状況を理解して
声にならない悲鳴を上げた。
あの、元就に抱きとめて助けてもらうとか。後が怖い。
…到底抱きとめてくれた人物に恋をしている人間の思考とは思えないが
思考とは裏腹に体は正直なもので、抱きとめられている。ということに気がついた瞬間
里香の顔にかぁっと血が集まって、彼女の顔は真っ赤に染まった。
そうしたならば、到底それは隠しきれるものでなく、鋭い元就は瞬間的にそれに気がつき
訝しそうな、不愉快そうな気配を見せる。
「…なぜ、顔を赤くしておる」
平素よりも鋭い声。
多分、嫌なのだろうと予想をつけつつ、里香が躊躇いがちに顔を上げると
予想通り、元就の表情は大層嫌そうに歪んでいた。
とても妻に向けるものとは思えない。
だが、里香里香で、元就の表情に傷つきもせず気にしもせず
平然と言い訳を口にする。
「……あー…熱が、上がったから?」
…言い訳にもなっていない、言い訳であったけれども。
「…………斯様な言い訳が通ると思うたか」
「いえ、全く」
嫌そうな嫌悪の視線から、呆れに色を変えた元就の感情を正面から受け流しつつ
里香が肩をすくめると、夫の方も面倒くさそうにこちらの体を突き放した。
「…………まぁ良い。どうせ碌なことも言わぬのであろう。
我には何ら関係の無い事だ」
「はい。そうしておいてください」
その元就の言葉には、里香は深く頷いておいた。
気にされたくもない。
恋をしているのに、なんだか薄々気がつかれているような気もするが
知らぬふりをしてくれているのなら、そちらの方が良い。
里香は、里香だ。
心を揺り動かされるのが、嫌なままの里香だ。
だから、要らぬちょっかいを出されるよりも無干渉の方が幾らも良いとツンとすると
既に歩き出しかけていた元就は、ちらりとこちらを向いて呆れの声を出す。
「貴様も。良く良くおかしな女ぞ」
「はぁ。そうですか?元就さんほどじゃあ無いと思いますけどね」
「減らず口は叩けるようだな」
「だから、良く寝たと言ったじゃありませんか」
もう少し人の話を聞いたら良いのにと思いつつ、眉根を寄せ横に並ぶと
べふっと持っていた本で叩かれる。
さりげなく暴力をふるってくるよな…この人。
痛む頭を押さえつつ、里香が言っても無駄な文句の代わりに
「後二十分ぐらい待って下さいね」とお願いすると
彼女の夫は冷たい表情のまま、静かに一つ頷きを返した。


そしてその様子を見ながら、里香はふと気がつくのだ。

………あれ?そういえば、なんでこの人寝室に居たんだろう、と。
しかも目が悪くなると嫌いそうな、ランプの微かな明かりを頼りにして、本を読みながら。
…なんで?