「ただいま帰りました、ちょっとだけ」
スーパーから出て一分。
家の玄関に到着した里香は、静かに家の中に体を滑り込ませ
出来るだけ音を立てないように、中に入った。
音を立てて元就が寝ている所を起こした場合、どんな嫌味が飛んでくる事やら。
いや、案外怒られないのかもしれないけど。
でも、用心に越したことはない。
自分が正しい、理屈が通っていると思ったことには寛容な夫だが
里香にはまだもうちょっと、彼のボーダーラインは見えていない。
だから、今回はお静かにと警戒をして入って、買ってきたものをまず冷蔵庫に入れる。
「…んっと、スポーツドリンクとお茶は一本ずつ向こうに持っていこうか」
買ってきたペットボトル飲料は全部で四本。そのうちの二本は枕元に置いておいてあげようと
横にどけて、その他の二本と桃缶・プリンを里香は冷蔵庫の中にしまった。
そうして次に彼女は冷蔵庫の中にしまっていた冷や飯を取り出して
鍋に水を入れ火にかける。
朝方おかゆを一度作ったのだから、そのまま作り置いておけばよかったのかもしれないなとも一瞬思ったが
すっかりそんなことは思いつかなかったのだから、仕方がない。
自分の使え無さに少しだけため息をついて、それから里香はちらりと腕時計に視線をやった。
時刻は十二時二十分。
おかゆを五分で作って、それから元就の所にペットボトルを置いて、駅にとって返せば会社に着くのは四十分ぐらいだろうか。
パーフェクトだ。問題ない。
元就がとにもかくにも便の良いマンションで暮らしてくれていたことに、深く感謝をしつつ
里香は湯が沸いた鍋の中に、冷や飯をどばっと放り込んだ。
そうして、ほぐれない冷や飯を菜箸でつついて解して
塩とちょっとの醤油と、隠しているインスタント出汁粉末で味を調える。
すると、ちょちょいのちょいで、病人がゆの完成だ。
里香は、ラップをしてそれをやはり冷蔵庫にしまい、また腕時計を確認すると、十二時二十六分。
予定時刻を一分オーバーだが、許容範囲内だ。
「これで、飲み物を置いてくれば終わりね」
予定通りの進捗に、口の端をなんとなく上げて、里香はペットボトルを両手に持ち
寝室へと静かに入る。
もしかして起きていたら、私がなぜ居るのか説明しなくっちゃいけないから手間だなと思っていた里香だが
その心配は無用に終わったようで、夫・毛利元就はすやすやとベッドで就寝中だった。
微かな呼吸音が、それを確かに示している。
その事に面倒くさい事をせずに済んだと胸をなでおろしながら、里香はベッド横に置いてあるナイトテーブルに
ペットボトルを置いて、それから元就の顔を覗き込む。
「…ん、ちょっと熱は下がってる…かな」
きちんと彼は病院に行ったらしく、ナイトテーブルには処方されたと思しき薬が転がっていた。
ただ、昼ご飯を食べていないだろうから、朝しか薬は飲んでいないこととなり
その辺りはすこーしだけ、心配だけれども、起こすのもまたどうかという話で。
…それに、なにより、やっぱり説明している時間が惜しい。
昼ごはんと置いたお茶については、元就がサイドにおかれた薬に目をやり
気がついてくれるのを願いつつ、里香はもう一度彼の顔へと目をやった。
朝よりもほんの少しだけ顔色の良くなった、冷たい印象の綺麗な顔。
…あぁ、汗かいてる。
少しだけ乱れた前髪の隙間から覗く額に、浮かぶ大粒の汗が見え
里香はなんとなく手を伸ばして彼の額を拭う。
いつも乱れた印象の無いものが乱れていると、非常に気になるものだ。
指先に、ひやりと冷えた汗が触れるのを感じながら、元就の額を拭い終わる一瞬前
あっと思う隙もなく、夫の目が薄く開いて素早く里香の手が捕らえられた。
「あ」
そうし、掴まれた後から漏らした声は、酷く間抜けに部屋に響いた。
起こしてしまったのかと、心配になった里香だが
どうやら元就は半覚醒状態のようで、常らしからぬぼんやりとした顔をして
彼は、己の額を拭っていた里香の手を見て。
それから順に視線を移し、手の主、里香の顔を認めた瞬間に

「……里香か」

ほっとした表情を、見せた。
あの、毛利元就が。
里香の手を掴んで。ほっと。
誰一人も要らないような顔をして、孤高に立つ人が、自分の名を呼び力の抜けた穏やかな表情をした。
その事に里香は言葉を失って、けれど、そのまま元就は、目を閉じてすぅっとまた寝息を立て始める。
里香の手を、掴んだまま。

そして元就の方はそうしてまた眠りの世界に誘われたから良いけれども
残された里香の方は、とても穏やかな気持ちではいられなかった。
だって、元就が。あの毛利元就が里香の名前を呼んで、ほっとした表情を見せるなど
どう反応していいのか、分からない。
完全に、虚をつかれた。
どうしてこの人は、人が警戒もしていない時にこういう事をしてくるのだろう。
知らずに詰めていた息を吐いて、里香はゆるゆると口元を捕えられていない方の手で押さえた。
びっくり、したぁ…。
驚いた、本当に。
まさか名前を呼んでほっとした顔をされるとは、夢にも思わなかった。
だって、元就さん、なのに。
そんなの、思わないじゃない。
あんな、ほっとした。
まるで心に立ち入らせることを許した何かを見るような目で、彼はこちらを見た。
それが信じ難く、また同時にどこか胸の内が引き攣れるように、締め付けられ
無意識に赤くなる顔色も自覚できないまま、里香は呆然としながら
再度眠りについた元就の顔をまじまじと見る。
そうして、見ると、寝ているせいで、警戒心も何も解かれてためか、童子のような寝顔をした
普段は怜悧な男の見知らぬ顔に、どくんと、里香の胸が高鳴った。
防御は、先の一瞬で既に崩されている。
故に、彼女はその高鳴りを咎めることすらできず
おまけに、力無く引き抜こうとした里香の手を、元就がやはり無意識に
力を込めて引き止めるものだから、もう、駄目だった。

あれ、なんだろう、可愛い、なぁ。

ぎゅうっと手を握って、安心したような顔をする男に、胸が震えて、里香は自然とそう思う。
なんだろう、たまらなく、可愛い。
一秒、二秒。そのまま妻は夫の顔を見下ろして。
「っっっっぁぎ!!????!!?」
はっと正気づいた彼女は、自分が思ったことに声にならない悲鳴を上げる。
可愛い?!毛利さんが?!可愛い!?
自分が無意識のうちに自然とそう思った感想に、里香は愕然とする。
え、やだ、なにそれ。やだよ。
反射的に、理性はそれに拒否をする。
だけれども。
胸の鼓動が速い。
顔が熱い。
その現象が示すものは一つしか無くて、でも里香はそれを認めるのが心底気にいらなかった。
だって、毛利元就なのに。
 をするのに、これほど向かない男もあるまい。
大体里香は、穏やかに暮らしたくて、人と干渉し合いたくなくて
それを曲げたくなくて、でも親はその里香のスタンスに干渉してくるから、だから彼と結婚したようなものなのに。
なのに、その相手に れているなど。
本末転倒もいい所だ。
あぁ、いやだいやだ。
いやだ、なのに。でも、ドキドキする。
相も変わらず力を抜いた表情をした男を見れば、胸が高鳴る。
自分でなくてもこの表情をするのかもしれないとも思うのに、多分、そうじゃないとも思ってしまうのは、何故か。
そうじゃない方であって欲しいと、願ってしまうのは何故なのか。
ぐらつく頭で、認めたくないと必死に抵抗するのに、絡まる指を解こうとすれば、元就がまたも指先を捕まえて。
三度、それを繰り返した所で里香はぽつりと、馬鹿みたいと呟いた。
「…私、馬鹿みたい」
ことんと動いてしまった心を認めるのがいやでいやで、でも、動いてしまった心は止められない。
熱があるせいで普段より生暖かい元就の体温を不快に思わず、それどころか里香は三度捕まえられてどこか嬉しかった。
心が、動く。
あぁ、もう認めるより他あるまい。
微かに立つ呼吸音から判ずるに、確かに眠っているのに、三度もこちらの指先を捕まえてくる
毛利元就が悪い。
全てを相手方のせいにしつつ、里香はぽすりとベットの縁に顔を沈めた。
「……………スルースキル…」
あのほっとした表情を、スル―出来るぐらい、己のスルースキルが磨かれていればよかったのに。
近頃ぐらついていた心の天秤が、完全に傾いてしまったのは、あそこだ。
だからあそこさえスル―出来ていればと、里香は往生際悪く思うのだけれども、でも駄目だったのだ。
スル―出来なくて、ほっとした表情を可愛いと思ってしまって
だから、その、ことんと、天秤は傾いて………あぁうん。
だから、だから、ね。自分の名前を呼んで、ほっとした顔を夫が見せた、その一瞬で。
いやなことに、本末転倒無ことに、拒否したいことに、びっくりすることに、阿呆なことに、馬鹿なことに
里香は、里香は…結婚してから、間違えた順番で毛利元就に、恋を。
だって、あの毛利元就なのに、里香の名前を呼んで、穏やかな表情をするから。
まるで、里香が居て嬉しかったような、顔をするから。
だから………もうやだ。
人と交わらぬ、干渉せぬ生活を送ってきたせいで、里香は久しぶりすぎる恋におたついて
らしくもない泣き言を胸中で漏らす。
相手がいて、どきどきするとか、切なくなるとか、そう言うのはまったくもって望んでないのに。
でもだからと言って、一旦認めてしまったのだから、今更認めないこともできない。
一度手を捕まえられただけなら、まだ、拒否することもできたのだろう。
だが、三度手を離す度捕まえられて、里香は拒否の姿勢を諦めてしまったのだから、仕方ない。
…そうだ、仕方ないのだ。
「………はぁ…」
順番を間違えた恋をした女は、まるで恋をした直後の人間とも思えぬような大きなため息を零し
それから、恋した男の顔を見ながら、今度こそ男の手を引きはがした。
腕時計の時刻は、良い時間を示している。
そろそろ、会社に戻らなくてはならない。
「元就さん、お昼作りましたから、ご飯食べてくださいね」
顔を近づけて言おうかとも思ったが、躊躇って、ベッドの縁に顔を寄せたまま里香はそう言うと
帰社するために立ち上がる。
一瞬まどろみまで引きあがったものの、すぐにまた深い眠りに落ちた様子の元就に
今の言葉が聞こえたとも思わないが、メモを残していくのも、気恥かしい。
ベッドサイドのナイトテーブルに置いた、ペットボトル二本に視線をやって
それから里香はそぅっと寝室から、そして家から出て行った。






…。
……。
………。
…………。





「………ただ今帰りました」
昼の焼き直しのような事を云いながら、里香は重々しい気分で帰宅する。
いや、気分が重々しいのは別に、昼に家に帰ったせいで浅井長政に生暖かい目で見られたとか
昼休み終了ぎりぎりに滑り込んだとか、そんなことが原因じゃない。
うん。
ただ、里香としては恋をして初めて帰宅するわけで、どう元就に対応したものかと思っての
重々しい気分である。
あぁー…正直な所面倒くさい。
恋する乙女のような反応はしたくないし、だけれども、己の心の脆さを考えればおたつくのは必至。
それが、里香には堪らなくいやで面倒くさいのだ。
………恋したことを(いやいや)認めたからと言って
この干渉したくありません・されたくありません性質が、そう易々と変わると思うなよ。ということよね。
直した方が明らかに良い事を頑なに固辞しようとする里香は、確実に大馬鹿の部類に入るのだけれども
だが、それに関して言えば里香の夫も負けてはいなかった。
「……ナイトテーブルにペットボトルを置き、知らぬ間に冷蔵庫の中身を増やしていったのは貴様か」
リビングに入るなり凍てつく凍土のような声がかかる。
その主は無論、里香の夫・毛利元就その人であった。
その余りにも冷たい声に、どう反応したものかと思っていた里香はその考えさえ忘れて
ことんと、そう、いつものように首を傾げどうでも良さそうに元就を見る。
「そうですけど。どうかしましたか、元就さん」
「どうしたもこうしたもないわ。したならしたように、メモでも残していかぬか。
目が覚めたならば、いつの間にか無かったはずの物が、あるようになっていた者のことを考えるが良い。
しかもそれが、貴様が帰ってくる夜ならばいざ知らず、帰ってくるはずの無い日中のこととあっては
我が、薄気味悪く思わぬわけが無かろう。
おまけに冷蔵庫には朝は確かに無かったかゆまで置いてある。気色が悪くて捨てようかとも思うたわ」
「あぁ、すいません」
吐き捨てるように言われる言葉の数々を、持ち前のスルースキルで流し
里香はおざなりな謝罪の言葉を一つ押しだす。
…明らかにいつも通りである。
毛利元就相手に、甘い空気だの恋だのは、やはり無意味だなぁとなんとなく安心しながら
里香はちらりと台所に目をやった。
「ということは、おかゆは食べてないんですね。冷蔵庫にプリンと桃缶があった」
「そんなものを、我が食すと思うか」
「…………まぁ、そりゃそうです」
一刀両断。
分かっていたこととはいえ、プリンと桃缶はお気に召さなかったらしい。
じゃあこの人お昼食べてないのかぁ。
そりゃ、メモを残していくべきだったなと、頭をかきながら、やはりおざなりな反省を里香がしていると
「こふっ」
元就が咳きこんだ。
それに近寄って、彼の顔色を見てみると、未だ若干赤い。
ついでに額に手を当てれば、やはりこちらも若干暖かいような気が、する。
「昼に薬飲まないから」
プリンも桃缶ももかゆも食べてないということは、薬も飲めていないということと同義だ。
だから風邪が治ってないのだと、思わず里香が顔をしかめれば
元就は咳きこみながら眉間にしわを寄せ里香を睨みつける。
「…薬なら、昼にも飲んだわ。飲まぬ我だと思うか、貴様。
これは夜になって薬が切れたにすぎん」
「え、でもプリンと桃缶食べてないって」
「かゆを食した。………気色が悪くて捨てようかとも思うたが
よくよく見てみれば貴様が朝作った物と匂いが似ていた故、一口含んでみれば、貴様の味がした。
故に我は、この気色の悪い一連の事を行ったのが貴様だと感づいたわけだが」
感づいたわけだが、そこまでがちょっとしたホラーだったらしい。
しつこく気色悪い気色悪いと繰り返す元就に、里香はそっと目をそらし
夕食作りますねと、そそくさと台所へと逃げ込んだ。
…なんだか微妙にご立腹なさっているのだもの、仕方ない。
いや、そりゃ起きてみたらなんだか色々な物が増えていて
おまけに家人が帰ってくるはずの無い時間なのだから、そりゃあ、里香だとてやられたら薄気味悪く思うだろうが。
でもだって、あの状況でメモなんて残したくなかったのだし、仕方ない。
懸命に自己弁護を重ねながら、エプロンの紐を締めた里香
台所のシンクに昼作ったかゆの皿が置かれているのに目を留めて。
そこで、ふと気がつく。

『………気色が悪くて捨てようかとも思うたが、よくよく見てみれば貴様が朝作った物と匂いが似ていた故
一口含んでみれば、貴様の味がした』

……………。
と、いうことは里香の味が分かるのか、そうか。
なんだか何とも言いようのない気分になって、里香が笑うのを堪えるような、苦しいのを堪えるような
そんな表情をしていると。
「こふっ」
里香のくちから軽い咳が出る。
「………こふっこんっ」
続けて二度。
そしてこふんと、更にもう一度。
どうやら元就の風邪が感染ったらしい。
喉にいがらっぽさは感じないが、咳きこんだということはそう言うことなのだろう。
熱が出ないと良いんだけど。
喉を撫でつつそう里香が思っていると
「…里香、風邪薬を飲んでおけ」
リビングの方から夫の声がかかった。
到底気遣っているとは思いにくい声音だが、その内容は確かにそうで。
里香は彼のその反応に、折角普通どおりに振るまえていたのにと
シンクに映った己の赤い顔を睨みつけた。