「元就さん、熱があります。今日は会社お休みしてください」
「………っ…ごほっ…」
「さすがに三十七度六分で会社に行かれても困ります。携帯、枕元に置いておきますよ。
目覚ましセットしておきましょうか?」
「……………いらぬ」
「はい。とりあえずは、ちゃんと病院には行ってくださいね」
「行くに決まっておる」
「じゃあ私は行ってきますからね」
「あぁ。さっさと行け」

結論。風邪薬を飲んで初期対応をしても、熱出す時には出す。

ということで、夫が熱を出しました。
しかも三十七度六分の割と高熱。
一瞬午前半休をとって、病院に連れて行こうかとも思ったが、この夫ならそれも不要だと思い、止めた。
なにせ、毛利元就だ。
そのような親切はもっと熱が上がらねば要るまいて。
その代わり、携帯電話と薬を枕元に置くサービスを行ったのは
病人を置いて仕事に行くことに、良心の呵責を覚えたからだ。
目の前で体調を悪くされれば、いくら里香だとて心配になる。
けれども、それで仕事を休むわけにもいかないから、彼女はもう一度「病院に行ってくださいね」と
夫へと声をかけ、自分は慌ただしく出勤していった。
こういう時、愛のある夫婦なら、専業主婦になれば良かったとか思うのかなぁと
詮無い事を考えつつ。
でも、そんなことを考えた所で、元就のために仕事を辞める気など里香にはさらさらないから
本当に、詮無いのだけれども。




だけれども、そうした二人の関係性。
愛の無さというのはわざわざ公言することではなく、そのため会社の人間は
元就と里香の間には、恋愛感情が確かにあるものと考えている。
当たり前だ。
適齢期の男女が結婚をして、その結婚を契約結婚だと勘繰る人間がどこに居ようか。
明治・大正ならともかくとして、時代は平成の御代だぞ。
そんなものをする人間がいるなど、普通の人間は思いもつかないに決まっている。
「毛利元就は今日は休みらしいな」
それだから、いずこからか、元就の体調不良による休暇を耳に挟んできたらしい
里香の上司、浅井長政は、彼女に対して気遣わしげな視線を向けてくる。
「はい。数日前から体調を悪くしておりまして。とうとう今朝方熱を出しました」
「そうか。今日は早めに上がったらどうだ。家族の心配をするのは正義だぞ」
気遣わしげな視線に、気遣わしげな声。
浅井長政という男は、鬱陶しい正義正義悪悪という特徴的な部分だけがクローズアップされがちだが
意外に部下思いで、気遣いもしてくる。
まぁ、ようするに優しいのだ。
それだから先んじて里香が帰りやすいように、手を打ってくれるのだけれども
その気遣いに対して彼女は曖昧に微笑むに止めた。
だって、別にそこまでしなくたって。
あの、毛利元就だ。
自分で何とか出来るに決まっている。
そんなにしなくたって、ねぇ。
普段よりもなお冷たく、里香はどうにもしない結論をきっぱりと固めていて
長政の言葉に心を動かされたりはしない。
その原因は、近頃元就と関わると動いてしまう己の心にあるのだけれども
そこからは目をそらして、里香は元就が元就である限りそれは不要だと内心で首を横に振る。
今朝方だとて、しっかりした受け答えをしていた元就の様子を思い出しつつ
だから不要なのだと言葉を濁す里香に、長政は不満そうな表情をちらりと覗かせ
「病気の時には心が弱るものだぞ」と、ぽつり、実に実感のこもった言葉を零した。
その長政の反応に、実体験かと一瞬思った里香だが、彼女の記憶が確かならば
浅井長政が会社を欠勤したことはない。
それならば。
里香は、ちらりと向かいの席にいる長政の妻を見た。
その視線に釣られるように、長政もまた妻を見る。
今日は『まだ』鬱陶しく薄暗くもならず、黙々と仕事をこなしている彼女だが
その彼女が風邪をひいたらなら、確かに心が普段よりも更に弱弱しくなりそうだ。
どの位って、すぐに『市なんて死んじゃえば、消えちゃえばいいんだわ』などと鬱々と垂れ流し続けそうな位。
里香は無言で暫く、長政の妻・市の綺麗な黒髪と俯き見える旋毛を見つめていたが
やがて長政の席に、やはり無言で常備している飴を一つ置いた。
「………その気遣いは、同情は、正義か?それとも悪か?」
「どっちでも良いですよ。憐れみに正義も悪もないと思います」
それに対して長政は、非常に複雑そうな顔をしながら飴を机にしまうのだった。
………それにしても、病気の時には心が弱る、か。
そんな繊細なこととは無関係そうな夫の顔を思い浮かべ
里香は、無いな。と断定をする。
かような繊細さが彼にあるのなら、ああいう生き方は出来ないだろう。
どこまでも自分を曲げない彼の人生に、それは無いと断じて
それから里香は、病気になって弱るのはまず、心で無く体だしと続けてから、ふと、気がつく。
「………あれ、私………」
そういえば、朝、起きて。
なんだか元就の顔が熱っぽかったから、体温計を渡して。
予想通り熱が出てて。
そこから後は、アイスノンを出して、布団を整えて、朝食に自分と元就の分おかゆを作って
携帯を渡して、出勤して。
……………。
里香は、無いと知りつつ、鞄の中を覗き込んだ。
そこには、財布と、携帯電話と、あとハンカチとティッシュが入っていて
ただ、いつも入っているお弁当の袋は無い。
「………うん」
あれだ。
人はいつもと違う行動をすると、何かを忘れがちだ。
そして里香はその法則に則って、お弁当を作るのを、忘れた。
ついでに元就に昼食を作ってくるのも、忘れた。
「あぁ、うん」
もっと言うと、元就が嫌うため、自宅には全くインスタント食品というものは置かれていない。
あるのは災害が起こった時用の乾パンだけである。
更に追加するならば、二人とも食べないから菓子もないし果物もないし
そういや、お茶を作るのも忘れているから、冷蔵庫の中には
昨日の残りの冷や飯と漬物だけがあり、他には飲み物すらないような。
「………………うん」
さすがに、状況がまずいな、と一筋冷や汗をたらして里香はもう一度、あぁうんと呟くのだった。
これは、さすがにいかん。



ガタンガタンと電車が揺れて、次に聞こえるのはブレーキの音だ。
駅の構内に入り、電車は乗客を降ろす為にその巨体をゆっくりと止めた。
そうしてドアが開いた瞬間、里香は急ぎ足で降車する。
昼休みは一時間しかないから、のんびりしていたのでは時間が無くなってしまう。
経理課が忙しい月末月初時期ではないから、遅刻しても何も言われないだろうが
それは里香がしたくない。
仕事に遅刻するなど言語道断。
お給料は何で貰っているのですか?仕事をきちんとこなしてその対価としてもらっているのです。
故に里香は小走り気味に駅の構内を抜け、急いで自宅へと向かう。
元就が元から暮らしていたマンションは、異様に立地が良く駅まで三分なのが
こういう時にはありがたい。
おまけにドラッグストアの入ったスーパーが自宅の傍にあるのも有難いったら。
里香は急ぎ足のままスーパーに駆けこむと、ドラッグストアーで
冷却ジェルシートとペットボトルのお茶を買い、ついでにスポーツドリンク、桃缶、プリンも買い込んだ。
完璧な風邪引き用布陣である。
ただ、まぁ、大半は無駄になってしまうのだろうけれども。
特に桃缶とプリンは無駄になるような気がしてならないが、病人と言ったらこれが思い浮かんだのだから、仕方ない。
勢いで買った品物達を、レジで精算しながら微妙に里香は後悔したが、買ったものは、先も思った通り仕方ないだろう。
それより早く帰って早くご飯を作って早く帰らないと。
急く気持ちを抑えながら、里香はスーパーの出口へ向かう。
その道すがら、生理用品が大安売りされているのを見かけ
買っておくべきだったかなとちらりと思ったが、減りが無く、まだ大量にあるのを思い出し、まぁいいかと通り過ぎた。