こふっと元就が咳きこんだ。
こふ、こふっと、二度、三度。
「…風邪、ですか?」
「恐らくな。ぬかったわ」
軽い咳に、あまり心配もせずに聞けば、元就の方は気に食わぬ様子で頷いた。
おそらくとして、風邪を引くなど、体調管理を己が怠ったようで嫌なのだろう。
この様子だと、多分熱でも出したら怒るのだろうな、自分自身に。
他人にも厳しいが、元就は自分にも厳しい。
仕事をするために、体調を万全にしておくのは社会人の基本。
それならば、怪我をするのも風邪を引くのもたるんでいる証拠で
それを己がするのは何よりも許せなさそうな、そんな夫が熱を出した光景を想像して
里香は後ろ頭をかいた。
「家には無かったはずなので、帰りに薬局寄って風邪薬買って帰りましょうか」
風邪には初期対策が有用だ。
風邪薬を飲んで、温かいものを食べ、ゆっくり寝れば熱が出る前に治るだろう。
それだから、風邪薬を買いに行こうと夫を誘うと
彼は気に食わぬ顔をして喉をさすり、否定の言葉を吐こうとする。
「いや、良い。常備薬は用意して」
ある。と言おうとしたのだろう。
だが、言葉は続かず。
さすが毛利元就抜かりがないと、常備薬と聞いた瞬間に思った里香を置き去りに
彼は言葉を切って、ほんの僅か、考え込む様子を見せた。
そうして二拍程置いてから、元就は顔をこちらに向けると
里香の方をじっと見ながら
「……いいや。やはり薬局に行く」
「え、常備薬って」
良く良く思い出せば、切れていたのだろうか。
常備薬という単語を聞いて、じゃあ薬局は良いかと思った里香
困惑を露わにそう言うと、元就はふっと息を吐いて里香の目を見る。
その視線が、馬鹿がと明らかに言っていることに里香はますます困惑の度合いを強め
元就の説明をじっと待った。
相変わらず、この人の考えていることは読めない。
恐らく一生先んじて読むことは出来ないのだろうけれどもと思いつつ
夫の言葉を待つ里香に、彼は眉を寄せたまま口を開いて。
「薬が無いといううことは、貴様、自分が元使用していた薬を持ってきておらぬのだろう」
「はぁ、全く」
「であろうが。我の使用している風邪薬は粉薬ぞ。
効きは良いが、明らかに貴様が普段使用していた物ではあるまい」
「はぁ、そうですね。普通は錠剤ですから」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
説明はしきったという顔をしている元就と、何が言いたいのか分からない里香
普段なら、二人のスタンスというのは何だかんだで似ているから
言いたいことの理解も容易いのだけれど、今回は違う。
薬は薬。効能が一緒であるならばどれを飲んでも構うまい。という考えの里香
元就の言いたいことは、遠すぎて予測できない。
故に、若い夫婦はそのまま暫く沈黙をしていたが
ふいに元就のほうがしびれを切らしてため息をついた。
「愚か者が。普段飲んでいるもので無くば、効かぬかもしれぬであろう。
自分の薬を買えと我は言っておる」
そして、元就が言うた言葉に
「は」
里香は、ぱちりと目を瞬かせる。
瞬かせるしか出来なかった。
「市販薬は、人によって効く効かぬがあるのだ。
自分が元使用しておった薬を持っておいた方が良い。
我の風邪が感染ったときに、貴様がどうする、と我は申しておる。
故に、薬局に行き、貴様の元使用していた薬を買う。…理解できぬか」
「いえ、全く。理解してます。理解しました。薬局に行きましょう」
ぎこちなく里香は首を振った。
目を瞬かせたのと同じように、振るしか出来なかったからだ。
あぁ、だって。
予測もできなかった方向から殴られれば、その衝撃は大きい。
里香は、薬は薬、効能が同じならば何を飲んでも一緒というスタンスで
元就の効く効かないがあるのだから、それぞれが効く薬を持っておくべきというスタンスは
予測もできず、言うことに対して身構えもできなかった。これが一点。
次に、毛利元就という男が、他者に対してそのようなことを言い出すとは思わなかったこれが一点。
しかも、そういうことだから買って来いならいざ知らず、この口ぶりではついてきてくれるのだろう。
これも、一点。
どれも予測が不可能で、だから無防備に身構えていなかった里香の心を
思うさま殴ってそれらが通り過ぎていく。
そうして、殴られれば心は揺さぶられて。
だから、元就がこちらに対して見せた、気遣いとか優しさとか、そういって差し支えない行動に対して
里香はぱくっと口を開かせようとしたのに、言葉を詰まらせ何も言えない。
「っと、あの」
何を、言えばいいのかが分からない。
分からなかった。
心配をありがとうございますとか、そういう感じのことだろうか。
普段ならばするりと出てくるそういう如才ない言葉が、肝心な今、言えないというのはどういうことだろう。
最近こういうことが多くて困る。
眉をはの字に思わず歪めて、里香は視線を床に落とした。
本当に、最近ペースが乱れて、困るのだ。
こんなの私じゃない。
ぐらりぐらりと揺れる心も、乱される感情も、そんなの要らないのに。
思えば、食せぬこともないと言われたあたりからだろう。
このように心が乱れ始めたのは。
あそこで防御がどこか歪んでしまって、脆くなったのに違いない。
元就はとうに気がついていた事を、本人は今更気がついて
それから彼女は大変に気を重たくした。
これだから、気が進まないと思うのだ。
先ほど二階に上がるのが気鬱だった原因は、近頃こうやって己のペースが乱されることに起因している。

嫌なのだ。
里香が、里香らしく居られないのは。
少し離れた所から、他人に干渉されず、干渉もせず、ただぼんやりとしているぐらいが良いのに。
なのに、あの時から、上手くそれが出来ない。
元就の言葉にこうやって、いともたやすく乱される。
それが、嫌で。
なのに、言葉が詰まるその感覚自体は嫌じゃないのだから、もっと困る。
胸の奥の深い所を触られて、その事で溢れて詰まるような
乾いた所に水滴が一滴落とされるような、そんなのが嫌じゃないのが、本当に嫌で、困る。
困ってしまう。

だから里香は、心の動きを抑えようと、すり替えて目をそらせようとする。
この元就の行動は、気遣いとか優しさとかそう言って差し支えないものだけれども
同時に、いつも通り自分の感覚で物を言っているだけだ、と。
そう。今回に限っては里香に良いようになるから、優しさ、気遣いに見えるだけ。
元就は、いつも通りでしかない。
自分の物差し・ルールで物を言っている。
それだけ。
そのはずだ。
だから、心を動かされなどしなくて良い。
里香用の薬は、勝手に里香に買いに行かせればよいのに、わざわざ着いてきてくれるという点から
目をそらして、里香が無理やりにいつも通りだと思いこもうとしていると
ふと、元就がこちらを見ている事に気がついた。
視線に顔を向け、元就の目をまっすぐにみると、その瞳の中に顔を赤くしている自分の姿を見つけ
里香は思わず顔をしかめる。
…気に食わない。
自分のあからさまな顔色に、思わず頬に手をやると、元就が嫌そうにため息をついた。
「何を考えておるのか、当てて欲しいか」
「いえ、良いです」
そうして、感情の読めない声色で言われた言葉に里香は、迷わず頭を振って申し出を断る。
「知らないふりをしてもらった方が良いです」
きっぱりと、更に言葉を重ね、里香は言い切った。
見るな。見てくれるな。見なかったことにしてくれ。
出来れば変化など気がつかないふりをして欲しい。
無い事にするから。
硬い里香の声から彼女が込めたその意図を、頭のよい元就は敏感に察し
ややも呆れた視線をこちらに向けた。
おそらくは、それだけ分かりやすいのに、強情を張って如何にするつもりかとでも言いたいのだろう。
でも、嫌だ。
認めたくない。
一緒に暮らして、一度心を揺らす出来事があって。
ただそれだけで、心が容易く動くようになったなど、そんな阿呆なことは断固として拒否したい。
眉間に縦皺を二本寄せ、里香はもう一度、強く嫌だと思った。
そして元就は、その心底嫌そうな里香の表情を、無表情で見下ろして
「貴様も大概な女ぞ」
どう思えば良いのか、良く分からない一言を発っす。
その言葉に毒気を抜かれて、里香が眉間の皺を消し元就の方に向かって二度瞬いて見せると
今度は彼が面倒くさそうに眉間にしわを寄せる。
「褒めておる」
「…はぁ、それはどうも」
そして、補足するように吐かれた言葉に、どう反応すれば良いのか分からなくなって
里香が曖昧に言葉を濁すと、元就はどうでも良いように頷いた。
なんだろう、この反応。
言葉通りに受け取れば良いのか、それとも何か皮肉なのか。
どちらにせよ、全て見通されているのだろうとは思うのだけれども
こちらは元就の事が今一分からないから、どう対応して良いのか分からない。
全てが終わった後から、ヒントを出されて意図を読み取る程度の頭しかない人間を
少しは気遣って欲しいと、里香は元就に対して思ったが
まぁ、ただ、そのように思っても、彼には無駄なのだろう。
今までの経験則からそう判断して、里香はもうこの事は考えないことにしようと思考を中断し
こほりともう一度せき込んだ元就に向かい、大丈夫ですか?と普段通りに声を掛けるのだった。