さて。
毛利元就と、毛利里香の歪な夫婦の形であるが、これについては
前回の通り、夫婦喧嘩の末、奇妙な所への着地を見せた。
で、あるならば、それはどこにも足をつけていなかったふわふわとした形が
地に足付けた、と言うことでもある。
ならば、変化は無論あるのだ。
本人たちが、それを望んでいるか、意識しているかは別にして、だけれども。




例えば、ある夜の話である。
毛利元就は、食事を終えて、風呂に入り、そろそろ寝ようかという段にさしかかっていた。
彼の就寝は早い。
無論日輪が顔を覗かせる時間に合わせるためである。
早起きをするなら、明日の仕事に差しさわりが出ないように、就寝時間を早くする。
ごく当たり前のことを、ごく普通にやれる。
夜更かししようとは夢にも思わない。
それが、毛利元就という男だ。
彼の構成要素は仕事と日輪が九割を占めているに違い無い。
そうしてその彼は、座っていたダイニングテーブルの向かいで本を読んでいる妻に
声を掛けることも無く、無言で席を立ち。
寝室に向かおうと歩みを進めていた所で、不愉快そうに目を細めた。
妻のちょうど背後にさしかかった所、彼女の首筋に抜け毛がついているのを見つけたからである。
元就は、だらしなく見えるものが嫌いだ。
彼女が気がついていないだけだと知りながらも、それでも抜け毛をつけて平然と本を読んでいる
それ自体が許せず、彼はすぐさま里香の背後につかつかと近づいて
彼女の首筋についた髪の毛を乱暴に
「ふにゃぁ?!」
取った所、指の背が彼女のうなじをすぅっと撫で上げるように触れてしまった。
そのせいだろう、里香は普段は絶対に出さないような、異様に可愛らしい声で異様に可愛い悲鳴を上げる。
それに対して、元就が出来た反応は、ただひたすらに沈黙であった。
どう反応しろと。
彼からしてみれば、毛利里香という女は、恋愛感情を抱いてではなく、ただ契約の元結ばれた婚姻相手にすぎない。
だから、このような反応をすることがあっても、子作りをすると定めている金曜で無くば、どうでも良いのだ。
そのはずだ。
故に、彼は鼻を鳴らして里香を睥睨して、下らんと言い捨て、寝室に行けば良かった。
だけれども、長く暮していれば、どうしてもその人間用の隙間ができる。
その隙間にすっぽりと入った里香の存在が、元就が寝室に行くことを許さない。
ただ、どう反応していいのか分からないという硬直だけを、許す。
そしてそれは里香も同じようで、彼女は自分の上げた悲鳴に、羞恥に身を震わせながら
死にそうな顔をして固まっている。
ぱくっと、座っている彼女の口が何か言いたげに開かれたのを、立って見下ろしている元就は見た。
おそらくとして、言いたかったのは『何をするんですか』とかその辺りだろう。
だが、里香の口から、そのような声が漏れることはなかった。
その代わり、ずるずると頭を下げ、テーブルにがんっと頭をぶつけた所で
「死にたい…」という小さく呟いたのが聞こえる。
それを耳にした元就は、相変わらず馬鹿な女よと、素直な感想を抱いた。

今、毛利元就が、毛利里香を一言で評するならば、愚かという言葉になる。
吉野里香、という女を元就は娶った。
人に深く関わらぬ性質の女が、非常に都合が良かったからだ。
そうして婚姻を結んだ後、起こった出来事を鑑みて、再度妻について考えてみると
おそらく、彼女が人の言うことに関心を持たない、人間自体にも関心を持たないのは、
毛利里香が自分を崩されるのを極端に嫌うからである。
人と、関わればどうしても自分のペースが乱れることが多くなるだろう。
自分らしく無い行動も多くなるだろう。
それが、里香は嫌なのだ。
だから、人に関心を持たない。スル―する。自分が崩されないようにする。
そうして、人に関心を持たず、元就の暴言をもスル―し、日々ふんやりと暮らしている里香
そういう生き方をしているからこそ、自分のペースを乱されるのに極端に弱い。
当然だ。
打たれ慣れていない柔らかい所に、速球が飛び込んできたら、そりゃあ痛いだろう。
反応も大きくなる。
であるから、彼女は元就がこの間弁当を食せぬ程度ではない。と言ったその時に異様に深く傷ついたし
今だとて、そこまでのことで無いのに、自分が崩され無様な悲鳴を上げたことに
阿呆のように恥ずかしがっている。

それであるから、寝屋の中で貴様はいつまでたっても慣れぬのだ。

反射的に、つらつらと考えた思考の中で呆れ交じりにふっと浮かびあがったのは、
里香がその性質を一番顕著に見せる寝屋の中でのことだった。
初期段階の頃は、そうでもなかった。
自分と、里香の組み合わせらしく、ただ淡々と情事が行われていくだけの
無機質な代物であったにすぎない。
だが、やはり、そう。
食せぬと言ったことが解決した下りの後から、徐々にその内容は変質し始めた。
両者の心情的な変化も、その変質に関係はしているが
一番大きかったのは、元就が里香のイイ所をうっかり探り当てたのが大きいだろう。
うっかり。
考えなくても分かるが、毛利元就という男は、別段情事に手を尽くすタイプではない。
ましてや相手も自分も、子作りのためだけにそれを行うのだから、快楽を求める意味はないのだ。
それだというに、上述の通り元就は意図もせず、里香のイイ所を探り当ててしまい
それに対して彼女はこれに似通った反応を見せ、…よせばいいのに、元就のことを物凄い勢いで罵った。
いや、何も彼女も最初から罵りを飛ばしたわけではなく、一連の流れとしては
『嫌です今日はもう嫌です、抜いてください→そういった契約であろうが→
嫌なんです→理由を簡潔に述べてみよ。我を納得させられなければ無意味ぞ→
ふざけんなこの馬鹿、流れを見てたら分かるでしょ?!
こんな時にこんなこと言うから友達出来ない上に敵ばっかりなのよ!!』
で、あった。
冷静な余人が見れば、恥ずかしかったんだろうなぁこんなに動転して。と遠い目をするだけであるけれども
情事に余人はもちろんいるわけがなく。
その里香の罵りに腹を立たせた元就は、彼女をめっためたに虐め抜いて
翌朝には、ゆで卵しか乗らない食卓、というのが発生したのである。
うん、また怒らせたのだ、つまり。
まぁ、快楽の声を上げたのに恥ずかしがって、抜けまで言った女を
ぐずぐずと泣き言を漏らすまで虐めたならば、そりゃあそうなるだろう、さもありなんの結果ではあったけれど。
ともかくとしてそういう具合であったのが、喧嘩後の初週で。
その後は、それを思い出して微妙に情事を嫌がる里香を、
毛利家のための跡取りが必要な元就がイイ所で黙らせて、翌朝はゆでたまご。が、いい加減週末パターン化しつつある。
し、恐らくとしてこのまま子供ができるまでは、それが確実完全にパターンになることは予想に難くなかった。
里香は、そういう声が出た以上情事を嫌がり続けるだろうが、しかし元就には、毛利家の跡取りが必要だからだ。
それを考えていけば、パターン化以外の道はない。
そして元就としては、それについて思う所は特になかった。
結局、子供が出来るステップの一つとして情事はあるのであり、結果が伴えばこれに関しての過程は全くどうでも良い。
相手が嫌がろうが、どうしようが、我に何の関係がある。
そのように思う元就だが、ただこの下らない週末パターンの中で
今後里香と生活していくにあたって重要だと思う所が一点ある。
里香が、情事を嫌がったり怒ったりする点だ。
そしてそれが何故かと言えば、上述の通り『崩れるのが嫌だ』にかかってくるわけで
けれども、その崩れる結果が出やすくなった、という点で彼女は変質をしている。
前は、そこまで深くかかわることが無かったからだろう。
崩れることなど一つもなかった。
だけれども、今はどうだ。
情事で恥じらい、怒り。今もまたこうして恥じらっている。
ある意味で、面倒な女ぞ。これも。
一度、食せぬもないで崩れてしまって以来、どこかが上手く防御できなくなっているのだろう。
崩れやすくなってしまった女を改めて見下ろし、元就はふっと息を吐いた。
「…元就さん?」
その吐息の音に、妻が夫を見上げてくる。
顔色の戻った、不思議そうな眼差しに、元就は眉をしかめ
「我は寝る。だらしのない格好をするな」
とってやった抜け毛を机の上に置いて、寝室へと向かいなおす。
何故、己が里香のこと風情を、こうして考えなければならないのかと、彼女の不思議そうな視線に心底思ったからだ。
選んだ時の本質が変わらなければそれで良い。
面倒ではあっても、鬱陶しくはないなら、十分だ。
寝室の扉を開けながらそう考えた元就は
「おやすみなさい、元就さん」
自らの背にかかる挨拶が、平坦なものであることに奇妙に安堵を覚え。
そして自分が里香に対しての許容範囲を広げていることを改めて自覚して
無意識に舌打ちをした。