帰ってくるなり離婚届突きつける。とかいう展開になってたらどうするつもりだったんです?
その問いかけに、
里香の夫は物凄い勢いで顔をしかめ
こちらをごみくずを見るような目で見た。
…そこまで…。
「斯様な冷静さを欠いた判断をするほど、貴様は頭が悪かったのか?」
「いや、あぁ、うん…いや、あの、元就さん。人間は、完全に自分の思い通りにはならないもので、すよ?」
そして、そのまま社会の屑に対して言うような口調で言い捨てた元就に対して
里香は戸惑いを覚えた。
確かに、毛利元就という人は素晴らしい頭脳を持っていて
大抵のことは自らの思い通りに運べるのだろうけれども、不確定性のある事柄を
完全に自分の思いのままにするのは不可能だ。
それなのに、まるで自らは、
里香の行動を全て予測できていたとでも言いたげに
自信ありげな元就の様子を見て、ざらっと
里香を反感が撫でていく。
人は、そんなに万能じゃない。
「まぁ良い。下らないながらに答えるならば
そのような行動を先走って行う阿呆など我には必要ない。離縁する。
が、貴様はその行動をとらなかったではないか。
九割方、そうなると思うておった。なにもかも我の計算通りよ」
だのに、自信満々な顔をして毛利元就は計算通りと言い切った。
まるで人は、
里香は、彼の立てた策通りの動きをするのが当然とでも言いたげな冷笑を浮かべ。
その顔を見ていると、自然と眉間にしわがより、思わず
里香は反射的に、馬鹿じゃないの?と思った。
九割方、そうなると思うておった?
我の計算通りよ?
なんだその台詞。
馬鹿じゃないの。
いや。毛利元就と言う人は常人よりも頭が良く、遥か高みに居るから
何でも操れるような気分になっていて分からないかもしれないが
人はそこまで思い通りになるような存在でもないだろう。
感情なんて少しつつけば揺れる天秤にすぎず、機械と違って確実性はない。
その不確定なものを要素に取り入れているのに、この自信満々さは、何なんだろう。
多分、いや絶対に。
どのようなことになろうとも、結果を導き出せるよう策は蜘蛛の糸のように張り巡らせてあるのだろうが
所詮は人の作るもの。
穴が無いわけがないというに。
だけど、運良く『結果が穴から零れおちた』という事態に陥ったことが無いのか
それとも陥った経験があって、なお『これ』なのかは知らないが
この人は今、これだけ自信満々に、
里香の前でえばりちらしている。
いや、毛利元就に謀り事の才があるのは、
里香も良く理解している。
だから、今日の出来事がどこまでも彼の差し向けたものだと言われても
信じる、信じるとも。
だけど、こういう所を目の前で見せられると………。
帰り際に見た政宗と元就のやり取りに入っていって
『夫は悪い人じゃないんです、こういう言い方しかできないけど
本当は優しい人なんです、誤解しないで!!』とでも叫べば良かったと
里香は深い後悔を覚えた。
こいつ一回ぎゃふんと言わせてやりてぇ…という衝動の賜物である。
お前、そんなだから、人に足引っ張られたり、嫌われたりするのに…。
頭が良いのだから原因も分かっているのだろうに
直すこともせず改めることも考えず、日々自分のまま生きている元就の顔を見て
その表情が未だ冷徹な笑みであることに、頭痛がしてきた
里香は額に手を当てて
「あんた、馬鹿じゃないんですか?」
「…貴様」
「いやもう、なんか、いっそ恋に落ちたくなってきた。盲目になりたい。
馬っっっ鹿じゃないの?
やだなにこれ。うちの夫が馬鹿だ…可愛いと思えばいいの?これ。
むしろ可愛い何これと思って恋に落ちて盲目になるべきなの?私」
あんまり、男が人生生きていくのが、へっっっっっっっったくそなので
えーもう馬っ鹿じゃないの?しか思いつきもせずに、
里香は椅子から床にずるずると滑り落ちて、崩れた。
あぁもう馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿がいる。
もっと上手いやり方すればいいのに。
そりゃあ結果から鑑みれば、今回の出来事は
『毛利元就への周囲の意識を、結婚前の状態まで引き戻す』
という目的が達成できているので、上手く行ったのだろう。
だけれども、その過程でこの男、敵を作り過ぎだ。
そう、過程がいかんのだ、この毛利元就という男の策は。
とりあえず今回の騒動での
里香への対応だけ考えても
先に、
里香に事情を話しておくとか、終業後にメールで詫びを入れてくるとか
主筋は変わらなくても、端々で、もっと良いやり方は、あっただろう絶対。
なのにそれを踏みつけてにじって、やらなかった夫を
里香は見上げる。
…伊達政宗営業二課長じゃないけれども、あんたはもうちょっと
人の反感とか感情とかそういうものを考慮するべきだ。
あぁ、くそ、なんでそんな生きにくそうな生き方してんのさ。
無駄に頭いいからそんなんなんだろ。
そうして夫の決定的な欠点に頭痛を覚える
里香をよそに、夫は
多分恋に落ちたくなってきたの辺りが嫌だったのだろう。
酷い顔をしつつ、テーブルの下の床に崩れ落ちている
里香を見てため息を零した。
…それだけならまだしも、
里香の腹を足で踏みつけてくる所はさすがだけれども。
「…貴様、意味のわからぬうわごとを言いつつ床に沈み込むな。不衛生ぞ」
「踏まないでください、踏まれる趣味は無いんです」
「我が踏みつける趣味を持っているように言うでない。良いからさっさと起きろ」
言うが否や、毛利元就は
里香の服の袖をつかんで強引に引き摺り起す。
その力の強さに、背が低くても男なのだと
里香は思いながら
引き摺り起された反動のままに、元就の膝に頭を乗せた。
「…
里香。何をやっておる」
「いえ、ちょっと。………なんかなぁ…と。
私怒ってたのに、元就さんがあんまりにもあれなので、怒りが吹き飛んでどうしようかなぁとか
明日からお弁当どうしようかなぁとか、色々考えることがあるのでここで考えてます。
…どうしよっかなぁ…」
「弁当は作れば良かろう。問題は片付いた。明日も会議室に持ってくるが良い」
その言葉に、
里香は夫の顔をまじまじと見つめた。
が、彼は何一つ恥じいっている風もなく、ごく当たり前のことを
ごく当たり前に言うように言って、ごく当たり前の顔をしている。
そこの辺りにまた呆れと、それからちょっとの何とも言えない感情が募って
里香は思わず、嫌みたらしくため息をついてしまう。
何だこの人。
「…あぁほら、そう言う所があれなんですよ、元就さんは」
「先ほどから言っておるあれとは何だ。そういう曖昧な言い方は好かぬ。直せ」
「はいはい、そのうちに。直します直します。
………まぁとりあえずご飯、作り直しましょうか」
「意趣返しは良いのか」
ゆで卵を視線で指しながら言う元就に、
里香は肩をすくめる。
「まぁ、うん…もうなんか、あなた相手にこれやっても意味無い気がしてきたんでいいです。
私、普通のご飯食べたいし」
「何が出来る」
「ご飯が無いんで、粉もの系とか。んーお好み焼きとか明石焼きとかその辺ですかね」
まぁ、暫く時間は貰わないといけないが。と思いつつ、
里香がそうやって言うと
元就は
里香の顔をじっと見た後
「明石焼きにせよ」
言いながら、
里香の唇に口づけを一つ、落した。
「!?あっいった…!」
それに
里香が眉間にしわを寄せ、夫の膝から頭を起して
机に思い切り頭をぶつけたのに、元就は溜飲を下げたような表情を見せる。
…この野郎。
多分よほど『恋に落ちそう』が嫌だったらしい。
思い当たる原因はそこしかなく、しかし仮にも妻にしている人間からそう言うことを言われて
それだけ嫌がるというのもどうなの、と思う。
が、まぁ、毛利元就だ、仕方ない。
諦めの気持ちで立ち上がりつつ、
里香は椅子に座ったままの彼に仕返しとして
キスをし返そうかどうしようか迷った。
やられっぱなしは趣味じゃない。
けれど、それでは芸がないと思い直し、代わりに
里香は彼の耳元にそっと顔を寄せて
「…愛してますよー元就さん」
「気色が悪い!怖気が走る!!」
こっちの方が良かろうと思って行った嫌がらせに、過敏に夫が反応したのに
里香は声も立てられないぐらい爆笑して、床に崩れ落ちた。
…まぁ、その一瞬後には思い切り腹を踏みつけられたのだが。
兎にも角にも、そう言う感じで、結婚後、初の夫婦喧嘩は一日で終局を迎えたのであった。
そうして、この騒動で毛利夫妻の夫婦の形、がなんとなく定められたのであるけれども
それはまだ二人は気が付いていないことだ。
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