いくら里香が家に帰りたくないと思った所で、時間は容赦なく流れていくものだ。
そして、いくら家に帰りたくないと思っても、帰らないわけにはいかない。
いや、本当に帰りたくないのなら、ホテルに泊まるだとか
友人の家に泊めてもらうだとか、手段は山のようにあるのだけれども
そのいずれかを使うほど、里香は子供ではなかった。

だから、気が進まないながら帰ろうとしていると
会社の一階のロビーにさしかかった所で、人だかりができているのが見える。
なんだ?
里香は疑問に思ったが、人だかりを作っている同僚たちの表情が
なんとなくはらはらとしたものであるのに、あぁ、誰かが揉めているのだなと察する。
他部署の人間がロビーでかち合って
いざこざを起こしてしまうということがたまにあるのだ。
そんなに頻繁で無く、半年に一回あるかないかぐらいなのだけれども
そうか、今日はかちあってしまったか。
だが、幸いにもその人だかりは玄関を避けて右の方に寄っていて
なんとか避けて通ることができそうだった。
「………………どうしよう、かな」
一旦は無視して帰ろうかとも思ったが、帰るのが気鬱なのだから
覗いて帰っても支障あるまい。
嫌なことを避ける子供の心理で、里香は寄り道をすることにして
なんとはなしに人だかりの中心を覗いてみると、そこには営業の伊達政宗と
…それから嫌なことに里香の夫がいた。


爪先立ってようやく覗けた中心は、実に険悪な雰囲気であった。
いや、毛利元就が関わっている場合、大抵険悪なのだけれども。
人だかりの向こうで、里香の夫、毛利元就は伊達政宗に肩を掴まれ
無理やりに引き留められているようだった。
さもどこかに行きたそうな元就は気もそぞろだが
それに対して政宗はと言えば、彼は怒りを隠そうともせず
凄まじい形相で元就を睨みつけている。
「毛利元就、自分がなんで呼びとめられて、なんで俺が怒ってんのか見当はついてるんだろう?」
「知らぬな。貴様が怒るようなことをした記憶が無い」
明らかに怒っている政宗に対し、元就はしらっとした表情で言葉を返す。
肩を掴まれ、無理やりに呼びとめられているのにも拘らず
この余裕はなんだろうか。
政宗と比べて、いくらも背が低い元就であるから、掴みあいになれば彼の方があからさまに不利なのに。
ギャラリーが一様にやはりと思いつつも、はらはらとしたものに表情に変じさせた所で
政宗が怒りの形相で、元就へと詰め寄る。
「しらばっくれんじゃねぇよ。この間から二課が出してた企画予算案のことだ。
あれは九割方通って、内々にGOが出てたのは、あんたも知ってたんだろうが。
俺らがそのGOで動き始めてたってことも」
「知っておったが?だからどうした。判が押されていない以上覆る可能性はある。
それも分からずして営業二課の課長職を務めておるのか、貴様は。
部下が哀れなものよ」
「やっぱりか!あんたが知らねぇはずがないと思ってはいたが
そうもしれっと言われると、余計腹が立つってもんだ!
あの案のどこが不満だった。何が駄目だった。
あれが通りゃあ新規開拓に繋がるはずだったことぐらい、その切れるおつむなら分かんだろうが」
「リスクが高い。許可など出来ぬ。何度もそう説明したはずだが?
不確定要素が多すぎるわ。我に予算を通して欲しいと願うのであればもう少し煮詰めてくることぞ」
…どうやら、政宗が詰め寄っている原因は『いつもの』らしい。
毛利元就が所属している部署は、経営企画室と名を冠しているだけあり
経営に関することに対して口出しをすることがある。
今回のこれも、そうだろう。
多いのだ。役員に話が通って内々にGOが出たことでも、経営企画によってひっくり返されるというのは。
そしてその裏には毛利元就がいて、必ず彼がNOを突きつけることによって
決定が引っくり返る。
ただし、長い目で見れば往々にしてその否定は正しいので
大抵は皆渋々そのNOを受け入れるのだけれども、たまにはこういうこともある。
だって、収まりがつかないだろう。
一生懸命企画して、一生懸命プレゼンして、役員に認めさせて
予算が内々に通って、さてこれから一生懸命動きましょうか、となった所で
『やっぱり駄目です』って言われるなんて。
現場の人間からしてみれば、酷い話だ。
だから、役員サイドからはともかく、現場サイドからは毛利元就は蛇蝎のごとく嫌われている。
努力をひっくり返して、行き成りNOを突きつけてくる人間が好かれようはずもない。
ただ皆大人だから、それを表面上は出さないようにして
静かに付き合っている。
だけれども、こういう事態があると、押さえているものに穴が開いて
感情が噴き出してくるのだ。
今、明らかな嫌悪を顔に出し、舌打ちをした、営業二課課長伊達政宗のように。
「Shit!あんたな、営業に『絶対』も『確実』もありゃしねえ。
『堅い』はあるが、そればっかりやってたんじゃ、会社が硬直しちまう」
「その程度我とて分かっておるわ。
故に、要所要所、必要であるならば多少の不確定性には目をつぶって予算を通している。
ただ、貴様らの出してきた予算でやろうとしていたことが、その目をつぶることにすら値しなかった。
それだけの話ぞ」
取りつく島もないほどに、きっぱりと、元就が政宗を一蹴する。
その表情は冷徹で凍りついており、一切の付け入る隙というものを感じさせない。
…………驚くほど、いつも通りのやり取りだな。
入社してそれなりの年数にはなっているため、腐るほど毛利元就と切られた誰かのやり取りを見てきた里香
そろそろ終わりが近いことを予見して、腕組みをしながら体重をかける足を変える。
夫を心配しないのか?と言いたげな顔をしてこちらを窺う者がいるが、するものかよ。
喧嘩をしたしないで心配していないのではなく、する必要が、無いのだ。
それが分かっているから、里香は余裕をかましてこのやり取りを見ている。
ふんぞり返って耳掃除しながら見てようが、どうでも良いよ。
営業二課長が経営企画室の毛利元就をどうこうすることは、有り得ない。
断言しよう。
そんなものは、一切合財、ない。
そんな阿呆は、このBSR株式会社には入れないからだ。
人事課による厳しい試験を潜り抜けてきた精鋭は
一定以上の頭脳を、最低限持っている。
だから、毛利元就の立場では、立場に見合った意見があり
伊達政宗も、伊達政宗の立場に見合った意見を言っているということを
真に理解できない者はいないのだ。
であるから、経営サイドから言わせると、自分たちが立てた予算案はNOなのだと
頭では理解をしている政宗の方が、退く。
「………なるほどな。一旦は納得してやるよ」
ただ、今回いつもと違ったのは、政宗の方が怒りの表情を打ち消した後で
元就に向かって言葉を続けたことだ。
いつもならば、ここで元就へと文句を言いに来た人間は踵を返すのだけれども、今回は続く。
「だが、紙切れ一枚で内々のGOを取り消された、俺たち二課はどうなる。
一回は手前が口頭で俺なり小十郎なりに予算取り消しの説明をしに来るべきだったんじゃねぇのか?
followが足りねぇんだ、あんたは」
あぁ、それは確かに。
話をギャラリーに混じって聞いている里香はうんうんとこっそりと頷く。
人は理屈だけにて生きるにあらず。
感情面でのフォローは大事で基本だ。
その辺りがやる気とかメンタル面に大きくかかわってくるのだけど、言う相手が悪い。
「無駄だ。通達は済ませた。我の時間を割くほどのようでもない」
毛利元就は、親切な伊達政宗の苦言を一蹴して切り捨てる。
その一蹴され具合に、政宗は最初目を見張ったが、やがて苦々しげに顔を歪ませると
元就を掴んでいた手を話し頭をかく。
「…………手前は本当に人の気持ちを理解しやがらねぇな。
俺らがどんだけ苦労してあの予算案を練って、提出して、役員連中をねじ伏せたのか考えもしねえのか」
「考えてどうする。情に考慮せよと?もしくは流されよとでも言いたいか。下らぬことを。
我も貴様も、所詮駒よ。駒は駒らしく最善を選べば良い」
「分かってねぇぜ、手前は。最善だけじゃ人は生きていけねぇってよ」
「会社はそれで存続して行けるが。愚かなことを」
どこまでも平行線なやり取りだった。
言葉を尽くす政宗に対し、元就はその言葉を聞き入れる気すらない。
表面上、頷いておけば良いのにと里香辺りは思うのだけれども
それを良しとしないのが毛利元就なのだろう。
だから、敵が多い。
今だとて、ひょっとすると上手く話を運べば、伊達政宗を親毛利元就勢力に出来たかもしれないのに
それをせず突っぱねて、元就は一人孤高に立っている。
つくづく、チームプレイには向かない人間だわぁと
自らの夫を、怒りも忘れていつかのバレンタインのときのような観察をする目で眺めていると
政宗が深く深く息を吐いた。
その心底疲れ切った表情に、そろそろ終わりかなと里香は幕引きを感じる。
「…あんた、まるで変わってねぇな。conference room(会議室)に押し掛けた時には
ちったぁ変わったもんだと思ったが」
…その言葉に、里香は、ぴくりと元就の表情が動いたような気がした。
ただ、それは一瞬でうち消えて、彼は代わりに更に鋭く冷たい光を瞳に宿し
嘲るような表情で対峙する政宗を見る。
「変わったと思ったのに…?おかしなことを言う。
脳みその中を一度分解して見てみたいものだな」
「なっ」
そして表情に相応しい嘲りの声に、政宗が息を詰まらせ声を上げる。
が、元就はそこで止まることはなかった。
更に口を開いて
「我が、いつ変わったというのだ。何も変わっておらぬわ。
自分が見たい幻影を我の中に求めるな。我は変わらぬ。何が起ころうともだ。
その我が、高々婚姻を結んだ如きで変わったと噂する、貴様らの低脳ぶりには
怒りよりも呆れが先に立つわ。嘆かわしい」
どこまでも高飛車に、どこまでも上から、どこまでも交わる気がないことを前面に押し出して
喋る毛利元就に対して、無意識にだろう。伊達政宗の拳が固く握られた。
「手前…」
怒りの表情を露わにする政宗に、しかし元就は怯んだ様子もなく
逆に軽蔑の嘲笑を漏らして鼻を鳴らす。
「勝手に期待して、勝手に怒るか。貴様らは誠、理不尽なことをするものよ」
睥睨する元就に、政宗は拳を更に握りしめたが、やがて般若のような形相で
元就を睨んだ後、踵を返した。
「もう我への文句は尽きたか」
「…あんたにゃ何言っても無駄だってことが良く分かった。
俺は時間の無駄は好かねぇ。帰って今後の計画の練り直しをさせてもらう」
「最初からそうしておればよかったものを」
「…………俺は会社だけだから良いがな。
あんたの奥さんは、本当に可哀そうだな。長曾我部から話は聞いたぜ。
……早くdivorce(離婚)でもしてやったらどうだ」
ちらりと、政宗の目がこちらを捕えた。
見つけられていたことに、里香はびくりと反応するが
政宗はそのまま里香から視線を外し、エレベーターの方へと立ち去って行った。
………自分で可哀そうと思うのは良いけれども、人に可哀そうと憐れまれると
途端に腹が立つのはなぜか。
若干の憐れみの視線を受けて、眉間にしわを寄せた里香
離婚するもしないも私と元就さんの問題だろうにと、微妙な不愉快を感じていると
政宗が立ち去ったことによって、周囲のギャラリーがさざめきだす。
「…おいおい、経営企画の毛利が変わったって言ったの誰だよ」
「しらねーよ。あいつ全然変わってねーじゃん…。
つか、切れ味アップしてんじゃねぇの?何あの伊達課長の一蹴されっぷり…ひっでぇよなぁ…。
営業二課の予算申請なんて、九割決まってたみたいなもんじゃん。いや、いっつもだけどさ」
「だよなー。で、ひっくり返したの経営だろ。…いっつもだけど。そら伊達課長も怒るって。
俺はあんまり関わんねーから良いけどよ。営業とかまじ大変だよな」
「傍観者してんじゃねーよ、秘書課。営業一課の俺の目を見てそれ言ってみろ」
「いや、マジでマジで。秘書課以外は全員可哀そうな。丸くなったってはしゃいでたのによ」
「…どうするの?次の経営会議…役員達、毛利さんが丸くなったって聞いて小躍りしてたけど」
「……そりゃ、いっつも通りなんじゃないの?…誰よ本当、噂流したの」
さざめきが広がってゆく。
誰もかれもが毛利元就の健在っぷりを、恐れ慄き嫌がっている。
良くもまぁこんだけ嫌がられるもんだなぁと、自らの夫の嫌がられぶりを面白く見ていた里香
一人の女性社員がちらりと目をやって
「ちょっと、止しなさいよ」
制止の声をあけたのを合図に、一斉に周囲の職員の目がこちらを向いた。
そして、その隙をつくように毛利元就が、ギャラリーの輪を抜けていく。
他者に興味が無い故、ギャラリーの視線を気にすることも無く
元就の方へ視線を投げた里香は、彼がこちらに視線をやることも無いのに
怒りを再燃させかけた。
…だから、怒らせてる人間がいるのに無視を普通はしないでしょうに。
呆れと怒りの入り混じった感情がふつふつと湧き上がるその寸前
元就がこちらに視線を寄こす。
視線が交差して、そして一瞬で戻して夫はすぐさま去ってゆく。
だが、一瞬で十分だった。
里香が、元就の意図を理解するには、一瞬で。
去り際の夫がこちらを見て、冷たい微笑を少しだけ浮かべたのに
里香は落雷を受けた気分になって、その場にしゃがみたくなった。
思い返すと、確かにおかしい。
里香が来るかもしれないのに、会議室で堂々と里香の手料理をけなした元就』
『市から聞いた噂』
『文句をつけてきた政宗を、殊更挑発的に扱った元就』
そして『こちらに向かって意味ありげな冷笑を浮かべる理由』
その全てを繋げて考えれば、答えは一つしかない。
そういうことか!!
「ば、馬鹿じゃねぇの…?」
思わず言葉遣いが乱れる。
だって、馬鹿じゃないのしか言いようがないよ。
もっとやり方、あるでしょ、あんた。
考えれば考えるほど、脱力して座り込みたくなるが
代わりに鞄の持ち手をぎゅうっと握って里香は堪える。
ここでしゃがんでは、みすみす周囲にヒントを与えるようなものだ。
…いや、別にヒントとかそこら辺は里香個人の都合としてはどうでもいいような気がするが
夫的には良いことはあるまい。
家に帰って罵られるのも、第二弾を起こされるのもごめんだ。
お願いだから、私を巻き込まないで欲しい。
どこまでも他人に興味が無くスルーして流されて、浮草のように生きていきたい里香
心底頭を抱えたい気持ちで、夫を思って。
それからここに居たんじゃ、しゃがみこめも、頭を抱えられもしないと
ギャラリーの視線を背に、足早に帰路につきなおすのだった。