「ん、気持ち悪い…」
「…大丈夫?…ごめんなさい…市、お薬持ってない…」
「いや、食べすぎだからそのうち治ります」
里香は、自分の呟きを拾って、心配げに袖をつかんでくる市に掌を向けて制する。
弁当二つを食べて、気持ち悪くなった馬鹿なんて放っておけば良い。
珍しくも鬱々とした思考で、市のようなことを思いつつ
里香は彼女に心配をかけないように、軽く微笑みを浮かべた。
ただそれは失敗に終わったようで、市が泣きそうに顔をゆがめるのに
あぁーと思いつつ、里香はびくりと肩を震わせる。
女の子に泣かれるのは苦手だ。
他人に興味がいくらなくても、泣かれて視覚的に感情を訴えられると
嫌でも目に入るから、なけなしの罪悪感が、疼く。
勘弁して欲しいと思いながら、慰めの言葉を吐こうとした里香だが
いつものようにするりと言葉が出てこない。
あれ?
いつもと違う己に一瞬固まった隙をつくように、里香の目の前で市の涙が零れかけた。
それにあっと思う間もなく、ぽろりと市の眦から涙が落ちる―その間際。
それを阻止するかのごときタイミングで
里香の机の上に伝票をまとめたファイルがどんっと音を立てておかれた。
「適量を考えられないというのは悪だ。今後は注意しろ」
「あぁ、すいません浅井部長」
そちらの方を見ると、立っていたのは市の夫であり、里香の上司の浅井長政で
彼の助け船に手を上げて感謝と謝罪を現すと、長政はふんっと鼻を鳴らして市の顔面を
スーツの袖で乱暴に拭う。
「ん…」
それを甘んじて受ける市は明らかにペットか何かのようだが
幸せそうなので、まぁ放っておくことにしよう。
それよりも、怖い顔をしている長政の方を、里香は警戒するべきだ。
一難去ってまた一難。
市の涙の次は、長政のわけのわからない説教か。
いつもなら、スルーして流していけるそれが、堪らなく気鬱に思えて里香は僅かに視線を落とした。
なんか、今日はもう駄目。
…駄目だって言っても、多分もうすぐ浅井部長怒鳴るんだけど。
そうして、里香の予想通り、一瞬もたたぬ間に長政が厳しい表情、鋭い声で口を開く。
「毛利里香。貴様、弁当に切り替えたはずなのに、何故食べ過ぎるということができるのだ」
「ちょっとつまみ食いしすぎました」
「馬鹿者。食事は三度にしろ、三度に。それで普段の食事に支障をきたすのは、悪だ!
今後は無いようにしろ。でなければ即刻削除だ」
「すいません」
言葉を返すが、気持ちは鉛のように重かった。
相手にする気力も、いつものようにスル―する気力もない。
それが態度にも表れていたのか、長政は里香の様子に眉をひそめた後
胃薬でも飲んでおけ、とだけ言って置き薬を机の上に置き自席へと戻って行った。
…案外意外と、部下に気を使う人なのだよな、あの人も。
気持ち悪いせいでか細くなる声で、長政へと礼を言い
里香は粉薬の胃腸薬を開封して、ざらっと口の中に放り込んだ。

苦い。

薬特有の何とも言えない苦みと、それからつんとくる刺激臭を
彼女は慌ててお茶を飲むことで誤魔化そうとしたが、茶と薬が混ざりあうことで胃液の味に変化して
ますますのダメージを食うこととなった。
それに更に気分を沈みこませながら、里香はごくごくと音を鳴らして更に茶を飲んで
口内の薬の味を流していく。
そうしていると、半分ほど茶が無くなった所で
口の中はすっかりと綺麗になったが、流しこんだお茶分中身が詰まることになった
胃やら何やらは限界を訴えて、更に気持ち悪さを倍加させたから、何とも言えない。
胃もたれを何とかしようとして、さらに気持ち悪くなるとはどういうことだろう。
陰鬱な気分で考えて、そうして里香は今更ながらに陰鬱な気分になっている
自分に気がつき、はぁとため息を吐いた。
吐いてしまった、思わず。
あぁ、意外とショックだったのだ、と認めないわけにはいかないから、はぁっと。
自分の腹と胸の間をさすりつつ、里香はぼんやりと考える。
…上手くやれていて、何にも問題はないと思っていたからこそ
問題が勃発して、ショックを受けている。
しかも思いもしなかった死角から、アッパー食らったような感じ?
自らが思いついたことに、まさにそんな感じだなと思いつつ
里香はため息を零した。
普段問題が起こらない生き方をしている分、いざこういう事態に陥ると
自分は本当に打たれ弱い。
…問題が起こらない生き方をしていれば、問題は発生しない。
発生しないということは、他者から与えられる横からぶん殴られるような衝撃に慣れていないということで
―あぁとにかく、滅多にない問題が勃発して、その中心にあるのが心を砕いてきたことだから
嫌だなぁと思って、ちょっとだけ、自分は泣きそうだ。
酷いと思って、ぐずぐずぐずりたくなっている。
いつのまにか、ショックを受けていたことを自然に認めつつ
(虚勢を張れないぐらい、打たれ弱い。とにかく打たれ弱い)
里香はずるずるとしゃがみこみたい気分で項垂れた。
…ショックとか…。
あの、毛利元就相手にショックとか、自分馬鹿じゃないだろうか。
胸と腹の間をさする手を止めて、里香は自分の頭の悪さにいっそ愕然とする。
なんというのだろう、毛利元就に何を求めているのだ?
だって、毛利元就だぞ。
社内に親しい人もおらず、逆に恐れられて嫌われていて
他者を駒としか見ておらず、里香と婚姻を結んだのだって利のためだけなのに。
そんな人間相手に問題が起きても、ショックを受ける方が馬鹿だ。
分かっている。
分かっているのに止められない。
酷いと思うのが、止められない。
先に言ってくれていれば、こんなバカみたいなこと思わなくて済んだのにとか
恨み事ばかりが頭の中で回った。
自分だって、相手とちゃんと向き合わずに流すばかりしているのだから
相手がどうだろうと、批難する権利は里香には無いのに。
「まぁ、自業自得ということよね」
自分への呆れ交じりの声は、思ったよりの苦々しく響いて
里香は目を伏せて、嫌だなぁと思った。
何が嫌って、家に帰るのが嫌。
家に帰ると、元就と二人だろう。
普段通りに出来る自信が無い。

家、帰りたくない。

思春期に親と喧嘩した子供のようなことを思いつつ
里香は気を重たくして、家の方向を眺めた後がっくり肩を落とすのであった。