風が吹かぬ海は凪ぐ。
当然のことだ。
風が吹かねば波は立たず、波が立たねば凪ぐに決まっている。
原因が無ければ結果は起こり得ない。
当然のこと。
さて、毛利夫妻の様子というのはこの状態にきわめて近い。
相手方に関心を持たぬが故に感情を動かさない妻と
特別感情を動かす必要性を感じていない夫。
感情が動かぬわけであるから、風は吹かない。
喧嘩も何も起こらぬ凪。
それが、毛利夫婦の日常である。
だがしかし。
それはお互いに関して感情が動かぬが故のことであり、他者が混じった場合にはこの限りではないのだ。


「…いつまでここに居る気だ、さっさと帰れ」
「んだよ。そんな邪険にするこたあないだろ。それとも、夫婦のやり取りに邪魔者は不要だっていう事か?」
「…下らぬ」
「下らないことはないだろ。あんたが結婚なんて思いもしなかったが、上手いことやってるみたいだしよ。
仲が良いのは良いことだと思うぜ」
「……………………………………………」
「この調子で夫婦仲が良けりゃ、そのうち周りのあんたへの見方も変わるんじゃねぇか。
良いことじゃねぇかよ。もう噂になってるしな、夫婦円満でやってるから経営企画の毛利は最近機嫌が良いってよ」
「……………………………………………………………………………」
「それにしても、あんたは良いよなぁ。
可愛い奥さんに手作り弁当作ってもらえてよぅ」
「……………………………………………………………………………………………………………………」
「羨ましいよなぁ」
「……………………………………………下らぬ。
食せなくもない程度に過ぎぬものを羨ましがるとは、浅ましいことだ。
さっさと去ね」
ほら、このように。


お昼休み。
いつものようにお弁当を夫の分も持って、いつも食事をしている会議室に行って
いつものように会議室の前に立った里香は、いつもとは違って居る元親と会話する毛利の言葉を
思いっきり聞いて、無言でその場に立ち尽くした。
「食せなくも、ない、程度…?」
声は自然と漏れた。
食せなくもない程度、だと?
ざりっとひっかかる物言いに、里香の眉がつりあがる。
…別に褒め言葉が欲しくてご飯をつくってるわけじゃない。
それは本当だ。
あくまでも、元就が生活費を全て出しているから、せめてもと家事を全てやっている。
その気持ちに偽りはない。
だが、だが、だ。
これが普段から元就が文句を垂れていたのであれば
里香の方もいつも言っているからなぁといつも通りに出来たのだろうが
元就は、普段綺麗に里香の作る食事を平らげて、米粒一つ茶碗には残っていない上
最初に食材に関して注文をつけられた以外には、文句など綺麗さっぱり聞いたこともないのである。
おまけに先の飲み会の件では、さも食事は作ってくれていた方が良いというような様子を見せた。
だから。
だから、里香の方も元就は自分の作る食事を気にいってくれているのだろうと思っていたのに。
食材を指定してこれで作れという口うるさい男を相手に、栄養バランスを考えて三食作り
毎日綺麗に平らげてくれて、この間は、作ってくれていて良かったというような態度を見せられて
…ちょっとだけ、里香だって嬉しかった、のに。
それを、食せなくもない程度と言われれば、いくら興味が無い
スルースキルが異様に高い里香だって、傷つく。
裏切られたような気分になる。
嘘をつかれたような気持ちになる。
自分の努力が全て無駄だったと、言われたような感覚に陥りもするとも。
働きながら、二人分の食事を三食作って、彩り、栄養バランスもしっかり考えて
努力してきたのに、なのに。


…与えられる真の評価は、食せなくもない程度、か。


なんだか虚しくなって、つい弁当を握る手が緩む。
そのせいで、危く床に落としそうになったのを、里香は落す間際に握り直して
弁当を床に落下させるのを何とか防いだ。
落さなくても、口に入っても、食せなくもない程度と考えると虚しいけれど。
手に持った弁当を見つめ、里香は目をつむってため息をついた。
…折角、作ったのに。

例えば、何か別の話題であれば彼女の方も、状況から考えて、売り言葉に買い言葉やもしれぬとか
あーそうなんだーへー。で済ませることもできただろうけれども。
それなりに努力して、心を注いできたことに対して
全くの平常心を抱くというのは難しい。
それと、嘘だと思うには元就の口調が余りにも鋭すぎた。
であるから、彼女は
『毛利元就が妻がそろそろ来る時間で、聞かれる可能性が大いにある状態だというに、このような失言をするわけがない』
という絶対の前提にも気がつかず、弁当を見つめて
―やがて眉を吊り上げる。
むかついた。
考えて見れば、何故自分が裏切られたような気持にならなければならないのだろう。
先に、そう。夫の方がとっとと『貴様の料理は所詮食せなくもない程度、思い上がるでない』とでも
言ってくれていれば良かっただけの話なのに。
毛利元就と言う人の人間性を考えれば、妻を慮ってなどと言う理由はあり得ない。
なら、素直にそう言えば良かった。
そしたら三食も食せなくもない程度の食事を私は一生懸命作ることもなかったし
そっちだって食べなくて済んだのに!
傷ついたのは絶対認めないけど、むかつくのだけは素直に認めて
里香はぎりっと歯を食いしばる。
考えれば考えるほどむかむかしてきて、里香は彼女らしくもなく
怒りをあらわにした表情で、勢い良く会議室のドアノブをつかみ、ばったーんと音を立ててドアを開いた。
すると、中に居た長曾我部は目を丸くしてこちらを見る。
…いや、お前は驚かなくて良い。
驚かせたかった里香の夫の方は、眉を僅かに動かしただけで
常通りの冷たい表情を保っている。
…むかつく。
その元就の態度に普段のスルースキルはどこへやら。
僅か足りとも感情を逃すこともできずに、里香は眉間に縦皺をきつく寄せて
「…………食せなくもない程度と、言いましたね…?」
「…っ」
地獄の釜からはい出てきた亡者のような声で彼女が言うと
…元就でなくて元親が息をのんだ。
いや、お前じゃあない、お前じゃあ。
首を横に振りたい気分で、しかし視線は元就へと注ぎ続けたまま
里香は彼を一心に見続けたが元就は表情一つ、変えることもない。
…そうか、それが答えか。
ちょっとでも夫が慌てたそぶりを見せれば、他人に関心の無い里香
それで溜飲を下げただろうに、あくまでも動揺しない元就に
里香の怒りは収まらない。
ゆらり、と据わった目で元就を見て、アルカイックスマイルに一見見えるような笑いを浮かべる。
無論、据わった目はそのままに、だ。
その里香の表情に、僅かに元就の瞳の色が変わったが、今更知るものか。
自分の努力を否定され、勝手に裏切られた気持ちになっている里香
怒りのままに振る舞うことにして、弁当をわざと掲げた。
「お弁当は、忘れました。今日のご飯は自分で調達して下さい」
その上でしれっとした表情で言うのだから、里香も大した強心の持ち主である。
もっとも、その里香の行動にも、微妙に表情を変えるだけの元就はもっと強心であるが。
見つめあうこと数十秒。
恐らくとして、原因なのに巻き込まれた感のある元親には永遠にも等しかっただろう。
だが、何事にも終わりは訪れる。
変わらぬ元就の表情に、里香はため息を一つ零して呆れを表した。
明らかに自分が言ったことで怒っている人間が居るのだから、謝罪したらどうなのだ、謝罪したら。
我ながら何故この人を夫にすることを是としたのだろうかと
初めて後悔を覚えながら、里香は、吉野はくるりと会議室に背を向けた。
「では、戻ります」
「………あ、ちょ」
何故か追いすがってこようとする元親の鼻先で、思いっきり会議室のドアを叩き閉めて
里香は弁当を二つ持ったまま、もう一度だけ深い深いため息を零す。
「…お弁当、どうしようかな…」