かつんっと一歩踏み出すと、床が硬質な音を立てた。
それを耳に入れながら、毛利元就は会社のビル内を歩いてゆく。
「…そういえば、今日は居らぬのだったか」
いつものように帰ったら温かい食事をまず食べ、と
帰宅してからのスケジュールを脳内で組もうとした元就は
妻が外出していたことを思い出し、予定を変更する。
妻の作った食事を冷蔵庫から出して温め、風呂を沸かした後
いくつか懸案への考えをまとめて就寝しよう。
毎日繰り返している行動に、少しの変更を加えたが
その少しの変更の原因、妻の不在を寂しいなどとは、彼は全く思わない。
出かけている妻の方もそうであろう。
で、あるから吉野里香を妻に選んだのだ。
丁度いい人材が見つかったものだ。
エレベーターのボタンを押して、到着を待ちながら
元就は里香のような女が居た幸運を改めて喜ぶ。
妻に選んでも勘違いをすることもなく、金に興味が無く、こちらに興味も無く
感情が薄く、ある一定以上の距離を持ってこちらと接してくる、やりやすく都合が良い女。
興味が無い故に、従順なのも良い。
普通は、そのために結婚したとて、愛の無い男との間に
子供を持つことをごく当たり前に受け入れる女はいない。
だが、彼女は違う。従順に、最初からそう言う話であったと受け入れる。
それだけでも元就としては、駒として十分なのだが、あとは、そう。
料理が上手なのは、思わぬ僥倖であった。
最初の内、食材を何処の物とも分からぬものを使用していたのには閉口したが
それ以外に文句は思いつかなかった。
その程度には、里香の腕は良い。
ついでに言えば、里香の料理の腕を気にいっている元就に気がついて
誇らしげな表情を(自分でも知らぬうちにだろうが)浮かべる程度の可愛げは持ち合わせている所も
扱いやすさに通じる所がある故に、好ましい。
我ながら、良いものを見つけたものよ。
僅かにくっと笑んだ元就のそれを、人は自画自賛と呼ぶ。
だが、里香に関して言えば彼がそう思うのも致し方あるまいて。
何せ里香はどうしようもなく元就にとって都合の良い存在で
彼の言葉で言うのなら、『非常に良い駒』である。
自分を含めた全ての者を駒扱いし、一挙一動注意深く見詰め
読みとれる感情全てを利用する彼にとっては、『非常に良い駒』は最上の評価に近い。
…その元就の評価が、里香の方に伝わっているのかと言われれば
それは否としか言いようがないのだけれど。
ただ、それについては伝える気が無い元就からすると、何も問題ない話である。
このまま、こういう具合に上手く日々が流れて行けば良いが。
二年後程度に赤子が誕生していれば、何一つ問題はない。
面倒な自分の実家の方も、二年程度は口を噤んでいるであろう。
毛利元就の実家、毛利家と言うのはそれなりに旧家であり地元では重きを置かれる存在だ。
そしてそういうものであるということは、面倒であることと等しい。
それを絡めてしまうと本当に嫁の着手が無くなると判断した元就によって
里香は、結納も婚姻もホテルで済ませ、実家との接触を皆無にさせているが…。
だが、跡取りが生まれなければ押さえ続けるのも難しくなる。
持って二年、長くて三年程度だろうか。
逆にいえば跡取りさえ生まれてしまえば、実家の方は、後はどうでも良いという話なのだが
その辺りは元就だとて同様の話なので、何も思う所はない。
家の存続を一番に考えれば、頷ける話だろう。
そして、元就の考えが、自分たちと沿うていると分かっているからこそ
毛利家の方も何一つ彼のやり方に口出しなどしないのだ。
しかし三年後、跡取りが出来ていなければ何かしら動きはある。
出来るなら、妻はこのまま吉野里香が良い以上、何とか早く孕まぬものか。
彼女の余りの都合の良さに、珍しくもそう思った元就の思考を遮るように
ぽーんっとエレベーターが軽やかに到着を知らせる。
「………」
「………」
…到着と同じくエレベーターの扉が軽やかに開くと先客がいた。
狭い機内に立っていたのは人事の竹中半兵衛だ。
特に仲が悪いわけでもないが、面倒臭い。
そういう風に位置付けている相手が先客であったことに
やや気を悪くしながら元就がエレベーターに乗り込むと、半兵衛が
「そう言えば元就君、君、随分と肌色が良くなったようだね」
「貴様に言われたくはない」
結婚してから里香の作った料理を食べ続けてきた元就の肌色は、確かに結婚前と比べれば良くなっている自覚はある。
たまの自炊と、それから忙しさに任せたサプリメントでの栄養補給
週に二度程度の外食で賄われていた以前と、三食全て栄養バランスに気を使われた食事をとっている今では
比べ物になるまい。
だが、竹中半兵衛からそれを指摘されてもだ、冗談か何かなのかとしか思えない。
年中病人である彼の肌は青白く、いかにも不健康そうだ。
まさに貴様が言うでないわ。という話である。
彼の肌色と結婚前の自分を比較しても、結婚前の自分の方に旗は当然上がる。
であるから、片眉をはね上げ元就は手厳しい言葉を半兵衛へと返した。
ただ、その手厳しい言葉にも、半兵衛は肩をすくめるのみだ。
「手厳しいな。もっともだけれどね。でも、評判だよ。君が知らぬわけはないと思うけれどね」
微かに半兵衛の目が細まった。
一見彼の言葉は元就の肌色が良くなったという事柄に対してのものに見えるが、そうではない。
半兵衛が言いたい内容を勿論知っている元就は、鼻を鳴らして不愉快そうな表情を出した。
「ふん。知らぬと思う方がおかしな話ぞ」
「まぁ、そうだろうね」
経営企画室の毛利元就が、結婚して丸くなった。
物理的な意味で言うなら、一キロ程度は増えているがそういう意味ではあるまい。
性格が丸くなった?
何の冗談だ。
元就は、自分が結婚前と結婚後、何一つとして変わっていないと断言できる。
妻とてそうだ。
夫婦関係が結ばれた所で、その間には何もないし、変わったものも何一つない。
お互いどうしようもないぐらいに、お互いの人格には興味が無く
ただ相手の立場だけが重要だというのに。
変わる要素が、無さ過ぎる。
『あの』毛利元就が結婚して、しかも相手とも仲良くやっているようであるから
多少は丸くなっているだろうという願望が先走りした結果にしても。
その噂、不愉快だ。
明らかに機嫌を急降下させる元就に対して
知っているなら良いんだよと、平然とした顔をする半兵衛の面の皮は、厚い。
…果たしてこの話題を行き成り振ってきたのは、嫌がらせなのかそれとも事実確認なのか。
恐らくは両方兼ねているのだろう。
不愉快なことよ。
話題にするならば、この男にしておけば良いものを。
性格の悪さで言うならば、自分と張るであろう男が話題になっていないことに
理不尽さを感じつつ元就が口を噤もうとすると
半兵衛が再度口を開く。
「だけど、吉野さんが料理が上手だったとは知らなかった。
昼に外食をしていたから、料理はあまりしないものだと思っていたのだけれどね。
一度聞いておけば良かったかな」
「下らぬ。聞こうが聞くまいがどうともならぬ話よ」
「彼女が独身時代に聞いておけばよかったという話だよ。聞けば、一度作ってもらっていたという話でもあるけどね」
「ますますもって下らぬな」
呆れた声が出た。
己の所有物にちょっかいをかけたかったと告白した半兵衛に大した感情は湧かないが
それでも、吉野里香は既に元就のものだ。
ifは無い。
あれの薬指には元就がはめた指輪が輝いている。
そして妻の性格上不倫の可能性は欠片もないと断言も出来る。
あれは、面倒事からは走って逃げるタイプの人間だ。
自分が表面上は誰の所有物なのかも良く理解している。
芯は、誰の物にもならないだろうが。
そこを思えば、自然と何故か目が冷えた。
だがそれも一瞬のことで何一つ消して半兵衛を見ると
彼は元就の表情が一つも変わらぬのを見て、楽しそうに目を細める。
「即答とは恐れ入るよ。表情一つも崩さないのもね」
ふふっと笑う彼からは、先ほどの言葉が本心かどうかは見て取れない。
それに内心不快さを募らせながら元就が階数表示を見上げると
半兵衛の方は、元就の顔へと視線を滑らせる。
「ところで、元就君」
「下らぬ用で話しかけるな」
「先ほどの話だけどね、全社的に評判になっているのを君が何とかしないわけはないけどね。
その手段に彼女は使わないでくれたまえよ。
彼女のことは秀吉が気にいっている。
引き抜きたいとすら思っているのだから、傷つけられると彼が心苦しい思いをする。
それは僕の望む所ではないんだよ」
「……………」
さしもの元就も今度は表情が出た。
やはりそこに帰結してくるのかこの男。
鬱陶しい、という表情をあからさまに浮かべた自分に、けれども半兵衛は微笑みを浮かべて首を傾ける。
「まぁ、君も彼女を気にいっているようではあるから、余り手酷い事はしないだろうけどね」
柔らかい表情で言われた言葉に、思わず元就がきつく眉根を寄せた瞬間
エレベーターが一階についた。
するりと開いた扉の隙間から、身を滑らせて出て行った男の後ろ姿を
忌々しげに見送り、元就もまた、エレベーターから出る。
すると
「よう!」
ぽんっと気安く肩が叩かれ、振り返るとにこにこと笑う…前田慶次がいつの間にか横に立っていた。
今までは無かったことだ。
経営企画室の毛利元就にこのように気安く接してくる者などいなかった。
まるで腫れ物にでも触るような扱いを、今までされてきたというのに。
そのことに、大変に気分を害しながら、元就は声をかけてきた慶次を無視して
かつかつと音を立て歩き出す。
「…何か手を打たねばならぬか」
え、ちょ!という小うるさい声を耳に入れるのも煩わしく
元就は顔を歪ませ、そうして、『彼女は使わないでくれたまえよ』と言った半兵衛の言葉を思い出し
くっと今度は別の意味で表情を歪ませ、笑った。