「今日は、ご飯は外で食べてきますので」
いつも通り、出勤前に夫婦で揃って朝食を食べながら里香が言うと
夫の毛利元就はその里香の言葉に軽く頷く。
「そうか。先ほど冷蔵庫にしまっておったのは我の夕食か」
「はい。温めるのはご自分でお願いします」
「ならば良い。献立は何ぞ」
「生姜焼きとインゲンとベーコンの炒め物、ポテトサラダとご飯です」
「生姜焼きに野菜は入っておるか」
「はい」
無言で、夫が再度頷く。
この態度からすると、定食屋さん風の野菜がたっぷり入った生姜焼きは
彼のお気に召しているらしかった。
野菜が好きよねぇ、この人。
揚げ物を好まず、肉類も好きではなく、野菜と魚を良く食べる元就を眺めつつ
それにしてもと、里香は思う。
ならば良い、と言うのなら。
「……………」
自分が食べもしない夕食を作っておいたのは、良かったのだろうと結論付けて
里香は自分が作った朝食を口に運んだ。
例え相手個人に興味が無かろうと、自分が作ったものを認められるのは
里香でも嬉しいことだ。
さてはて。何を頼もうか。
夜ご飯を家で食べないのも久しぶりだと思いながら、里香は広げたメニューを見る。
居酒屋と和食屋の中間のような店の、簾で仕切られた個室めいた空間。
二人用の机で里香の正面に座るのは、同僚の市だ。
この間、久しぶりに一緒にご飯食べに行こうよ、という話で盛り上がって…は無いが、淡々と話が進んで
今日の、最近の言葉でいえばいわゆる女子会が開かれたのである。
…女子会、ねぇ。
毛利元就という人と結婚してからというもの、その手の流行単語とは無縁の生活をしているので
どうにも違和感を感じて、里香は静かに微苦笑を浮かべた。
結婚してから暫く経つせいか、知らずの内に染まっている部分もあるようだ。
根本は、無論始終感じているように、変わってはいないのだけれども。
「どうか…した?」
「ううん。なんでも。市、注文決まりました?」
こっくんと市が首を縦に振ったのを視認してから、里香は呼び鈴を押して注文を済ませる。
そうして、まずは来た飲み物を掲げて、カチンとグラスをぶつけあわせ、甲高い音を鳴らした。
「お疲れさまです」
「お疲れ様」
「それにしても、市とこうやって飲みに行くのも久しぶり」
「そうね…前は一月に一度ぐらい行っていたけど」
話を振ると、頼んだウーロン茶に口をつけ、市は首を傾げた。
彼女のいう前、は里香の名字が毛利に変わる前を指す。
まさか新婚当初から市と飲みに行くわけにもいかず飲みを自粛してきたのだけれども。
でも、3か月以上たって、新婚と呼ばれる期間も過ぎてきたから
もう良いだろうと自粛解禁に至ったのである。
「ん。でも最近は落ち着いてきたから、また飲みに行けるようにはなりますよ」
それでも、その事実を素直に言うと、明らかに愛が無いことがばれるので
環境の変化で忙しかったのだ、と誤魔化せば
それに素直に騙されて、市はぱちっと目を瞬かせる。
「安定してるの…?」
「まぁまぁ」
安定しているのは嘘でないので、正直に答える。
まぁまぁ安定しているのは嘘じゃない。
それがお互いの無関心さからくる安定だろうが、安定は安定。
しかも、嘘をついたのに表情一つ変えずしれっとしている里香からは
それが嘘だなど、読み取れやしない。
だから市は騙されたまま、暫く黙りこんだ後、ほうっとため息を吐いた。
「…少し、羨ましい…。市、長政さまを怒らせてばかりだから…」
そうして、騙されたままの彼女が吐いた言葉に、今度は里香の方がぱちっと目を瞬かせる。
「いや、仲良くやってると思いますよ」
というか、会社でも安定して毎日いちゃいちゃラブコメしているくせに
羨ましいとは何の冗談だろうか。
大体が、目の前の市は浅井長政を怒らせてばかりと言うが
彼のあれは照れ隠しであって怒っているわけでもなく、また分かりやすくツンデレのツンだと思うのだけれど。
ただそれも、第三者の客観的な視点から見ればこその意見であり
長政さまが大好き、嫌われたくないのフィルターが掛かり
なおかつ当事者たる市は全くそうは思っていないらしく
沈痛なものに表情を変えて、ふるふると首を振った。
「そう……でもないと思うの…長政さまのこと、いらいらさせてると思う…。
市、駄目だから、長政さまの足を引っ張ってばかりで…」
しゅんっとしてしまった市。
彼女に慣れてない頃は、このどん暗さがいちいち鬱陶しいと思ったものだが
もはや慣れたものだ。
「傍から見れば、浅井部長は市のことが心底好きに見えますけどね」
いつも通りにフォローの言葉を入れて、いつも通り微笑んでやる。
そうすると、ゆっくりと市は顔を上げ
「…………そうだと、嬉しい」
「そうだと思います」
いつも通りに控えめに目を細めるので、いつも通りに再度の肯定をした。
…いつも通り、ちょろい。
配属された当初は、あまりの鬱陶しさから市に対して引き気味だった里香だが
沈ませるのも簡単だが、上げるのも簡単ということに気がついてしまえば
恐れるに足らずというか、手のひらで自由に転がせられる感が面白くて
市はかなり好感度が高くなっている。
それだから、一月に一度、一緒に飲みにも行くのだけれども。
…しかし、市に好感を抱く理由が、我ながら酷い。
性格の悪さを表しているようだ。
別に他者に優しさを求めるわけでもなく、ただ凪いだ空気があれば良いだけの里香なので
深い関係性の友達はほぼ居ない。
そしてそれを寂しいと思うことも辛いと思うこともないのは、里香の欠損だろう。
どうしようもない所ではあるのだけど。
どうも、昔から興味がいろんなものに持てないのだよな…別段、不都合もないのだけど。
思いながら、里香が持ったグラスを回して、氷でグラスを鳴らせば
ふと、市が飲み物に口をつけた後、会話を再開する。
「そういえば」
「うん」
「最近、経営企画室の評判が良いって、長政さまが」
「…………経営の?」
「そう。…丸くなったって…」
経営企画室に属する人間は何も里香の夫一人ではないが、丸くなったと評判になるような人間で
かつわざわざ里香に言うのなら、対象は一人しかおるまい。
言わずと知れた、毛利元就だ。
…だが、丸くなった?
さも原因が結婚したからだ、とでも言いたげな口ぶりだったが
いやいや、明らかにそんなの気のせいである。
夫婦関係が結ばれた所で、その間には何もないし、変わったものも何一つない。
お互いどうしようもないぐらいに、お互いの人格には興味が無く
ただ相手の立場だけが重要だというのに。
変わる要素が、無さ過ぎる。
おそらくとしてその噂、『あの』毛利元就が結婚して、しかも相手とも仲良くやっているようであるから
多少は丸くなっているだろうという願望が先走りした結果だろう。
…全く、迷惑千万なことだ。
噂が蔓延した結果、親しげに話しかけられたときに夫が機嫌を急降下させるのが
手に取るように分かるので、里香はこっそりとため息をつく。
おそらく、きっと、毛利元就は家での機嫌を会社に持ち込むこともないし
会社での機嫌を家に持ち込むこともないだろうけれども。
それでもまぁ、同居人の機嫌が良いことにこしたことは無いから
里香は静かな声で、それは無いと思いますけどねと、手近な人間の誤解を是正するところから始めるのだった。