長曾我部さんが居る、あそこに。
女の子にアドレスの交換を迫られている。
私に気がついて固まっている。
………………固まる、なぜ。
見られて気まずいから?
気まずいってなんだろう。
私と長曾我部さんの間に、気まずくなるようなそんな関係性は、無い。
なんだか妙に頭がふらふらとした。
そのふらふらする思考のまま、考えて、それで、私は立ち直る。
うん。
なにも、無い。
私と彼との間にある関係と言うのは、少し仲の良い隣人ぐらいなもので
衝撃を受ける関係では、全くない。
だから、それに応じた行動をとらなくてはならない。
あぁ、ふらふらする。
ぼうっとしながら私は、自然と右手を上げていた。
そうしてそのまま手を左右に振って、にっこりと笑う。
笑えた。
それに安心しながら私は踵を返して、家の方へと歩き出す。
うん。なんか、食欲無くなったからハンバーガーは良いや。
それよりも、カップ麺でも食べよう。
そうしよう。
考えながら胸を抑える。
どうしてだろう、もやもやする。
いやいや、どうしてもこうしてもないんだけどこう…なんていうか。
いやね、認めるにはこの歳になると、なんつーか、その勇気がいるというか。
おまけに年下ですし。
なんつーか、ねぇ。
雑踏の中を歩きながら、はぁと息を吐く。
と同時に、右腕の方がぐんッと引っ張られた。
その衝撃で歩みが止まる。
反射的に引っ張られた方を見ると、そこには長曾我部さんが焦った表情をして立っていた。
ちなみにこういう時にお約束の、息を切らせているような様子は無い。
元々、運動能力高い人だからね、そりゃそうだ。
こんな短い距離で、息が切れるわけがない。
こういう時には、自然と頭が冷静になるもので、いや、冷静なのかなぁこれ。
呆然としているの方が正しい気もするけれど、ともかく、そういうことを思って私は
「あ、長曾我部さん」
こういう、間の向けた発言を彼に向けた。
「…………追いついて第一声が、長曾我部さん、かよ、あんた」
「えぇと」
他に何を言えというのだろう。
頭が回らなくて(ということは、やはり冷静ではない)
ぼんやりと彼を見上げると、長曾我部さんはばりばりと頭をかいて、あのな、と言った。
「連れてかれたら、いきなり居たんだ。知ってたら行ってねぇ」
「えぇと、ああ、女の子」
なんのこっちゃと一瞬思って、それから二拍ほど遅れて
彼が言いたいことに思い至る。
あぁ、やはり頭が回ってない。
けれども、同じように頭が回っていなさそうな彼は
自分と同じように私が頭が回っていなさげなことに、まったく気がついた様子もなく
若干焦った調子で、こちらに向かって言葉を続ける。
「帰ろうかとも思ったんだが、居てくれるだけで良いからって拝み倒されて、そんだけだ。
大したことは話しちゃいねえし、興味もねえ」
「あぁ、うん」
「信じて、くれるか?」
そういう彼の表情は随分と真剣で、私はそれに、目を瞬かせた。
信じるって、何をだろう。
身の潔白をだろうか。
とりあえず、信じないわけがないのでこくんと頷くと
長曾我部さんは異様にほっとした表情をしたけれども。
でも、なんで。
「そんな言い訳しなくても、私たち、付き合ってるわけでもなんでも」
ぽろりと、つい言葉が口から零れた。
それに、私も長曾我部さんも目を見開いてお互いの顔を見る。
私は、言葉がつい零れてしまったから。
長曾我部さんは、……今それに気がついた、と言う表情をしていた。
でも彼は、すぐさまその表情を変えて、眉をしかめてこちらを見る。
どことなく責められているような気配に、私が身じろぎをすると
長曾我部さんはその表情も、またすぐに改めてしまったけど。
………ん?
どうにも言えないような空気が、私と長曾我部さんと、二人の間にはあった。
雑踏の中、ここだけ切り離されたように、周りが気にならない。
人が通り過ぎる中、ちらちらとこちらを見ていくけれど
それを気にせずに、私と長曾我部さんは見つめあう。
どういう、意味だろう、今のは。
いや、どういう意味も何もない。
分かっている。
けれども、それと同時に一歩を踏み出す勇気がないのもまた事実ではあった。
私も彼もいい年で(彼など前も含めれば、半世紀を優に超えている)
だからこそ、若い時のように、そういう一歩を軽く踏み出すことが出来ない。
だって、私も彼も、会いたいと思わなければ会えないような位置性なのだもの。
春以前に引っ越して以来二週間会わなかったのを覚えている。
どちらか片方でも会おうと思わなかったら、簡単に会わなくなる関係。
学校のように、強制的に会ってしまうような、そういうものは私たち二人の間には無い。
それだから、もう少しはこのままで、と思ってしまう。
今、焦って変わってしまうよりも、自然に、どうにかなるのなら、なりたい。
焦って何かを行ってしまっても、きっとそれは良いことにはならないと思うから。
そうして、長曾我部さんも機ではないと思ったのか
彼は物言いたげな顔を暫くしていたが
「…明日はサンマ食いてぇ」
唐突に、そういうことを言った。
…サンマ?
………えぇと、明日の夕食に?
ぱちくりと目を丸くしながら長曾我部さんを見ると、彼は微妙そうな表情で
それでも笑っていた。
だから、私も微妙な表情で、それでも笑いながら言葉を返す。
いつものように、いつも通りに。
「…え、まだ微妙に早い気が」
「初物サンマがスーパーには並んでたぜ」
「…………チェック済みなの…」
疲れたような表情を浮かべて見せたが、その実私は嬉しかった。
今しばらくは、この関係を彼も続けてくれる気らしい。
じゃあ、丸っこいのを買ってこようかなと了承すると
彼は嬉しげに笑って帰ろうぜと言った。
私はそれに、同僚はどうすんのよと思ったが、しかし、今更戻るのも無かろうて。
思い直して、じゃあと歩き始めようとすると、何気ない仕草で
手をとられ、握られる。
人の体温のぬくもりに、はっとして見上げると長曾我部さんはにっと笑った。
その表情に湧き上がる衝動を、口の中の肉をくっと噛むことで押さえて
私は手を振り払いもせずに、何気ない顔をして、歩き続けることにした。
…一応は、手を、軽く握り返したけれども。
「息、ちょっと白くなってきてんな」
何気ない声が降る。
けれど、私と彼との関係性が、何気ないこれを切っ掛けにして変わろうとしているのは明白で
私は少し困ったなと思いながら、彼の手を握り続けるのだった。