○月某日。
まだ戦は起こらず、主はここに留まっていらっしゃる。
穏やかな表情を取り繕ってらっしゃるが、
内心随分と苛々してらっしゃるようで、昨日は用向きを伝えにきた
部下の方の悲鳴が響いていた。
その後、ふふふ、と怪しげな笑いを浮かべながら
赤く染まった大鎌を見ていたことから、その部下の方が尊い犠牲になられたのだとわかる。
なーむー。
………『何か』が、運び出された様子はなかったから、おそらく死んではいまいが。
「デフォルト」
「はい、光秀様」
傍に控えながら、返事をすると主は私を手招いた。
近寄りたくない。
思考の読めない方ではあるが、苛立っているときには三割り増しで読めない。
どこに琴線があり、どこに逆鱗があるのか
常日頃から分からない人であるのだが
とかく、そのような人であるので、苛立った今の状態の光秀様に近寄りたくはない。
決してない。
しかし、近寄らなければ寄らないで機嫌が悪くなることは
必須なので、私は自己防衛として、彼に近寄る。
…近くに大鎌はない。
すぐに斬られることはない。
確認をしながらそろそろと拳五つ分ほどの距離まで近寄ったが、更に手招かれた。
…………。
一瞬躊躇い、その後仕方なしに至近距離まで近寄ると、
主はすぅっと手を上げ、私の横髪を分ける。
「…手入れぐらいしたらどうです」
艶やかとは程遠い、適当に手入れをしている毛の感触が気に入らないようで
彼は顔をしかめながら、小言めいたことを言う。
放っておいてほしい。
私は年頃の娘というやつだが、気になる人間もいないし
日々の生活に追われているので、そのような雑事に時間を割きたくないのだ。
表面上には出さず、しかし内心では舌を出していると
突然にぐらりと視界が揺れる。
遅れてどすんと、背中に軽い衝撃。
床に倒れこんだのだと気がついたのは、目に映る景色に天井が入ってきたからだ。
痛くはないが、何が起きたのかと思い目を白黒させていると
光秀様が、倒れた私の上に馬乗りになった。
あ、これやばい。
思うものの、体は反応せず、抵抗すらできずされるがままに、
主の、男にしては、細く白い指が首にかかる。
そのままぐっと力を込められると、喉の奥から空気が漏れでた。
何をするのかとは思わなかった。
こういうことになるような予感はしていた。
だって光秀様なのだし。
しかし、そのまま絞め殺されるのだと思っていた私の予想とは裏腹に、
喉が圧迫されたのは一瞬で、すぐに、首にかかった手から力が抜かれる。
「やはり」
ぽつんと、言葉が振ってくる。
「貴方はつまらない」
けほりと咳き込みながら、聞こえた言葉に、私は思わず眉間に皺を寄せる。
いや、殺して面白いと、言われたくは無いのだけど
ただ、首を絞めておいてそれかとは思うわけで。
首に指をかけたまま、ため息をついている主を見ながら、私もまたため息をついた。
けほりと、咳が出る。
締められたのは一瞬だったが、喉にはまだ圧迫感が残っている。
私はさりげなく主の指に手を添えて、首から手を外してくれる様促したが
彼はそれを無視して、私の目を覗き込んで、「つまらない目ですねぇ」と呟いた。
「そんなに、連呼されると、傷つきます」
「思ってもないことを」
戯言は一蹴される。
その通り、思ってもいないことなので、私は彼に乗られたまま
黙って前髪をかき上げる。
何故、首を絞められたのか。その意図は考えない。
光秀様の突発的な暴力は、道端を歩いていて人とぶつかるのと似たようなものだ。
ようするに事故だ事故。
事故で殺されたらたまったものじゃないが、そういうこともあるだろう。
何しろ人間は山のようにいるのだし。
「早く、戦になりませんかね」
「………本当に戦が好きですね」
光秀様が呟く。
それに感想を呟き返すと、光秀様はふっと笑い
「いいえ。違いますよ、デフォルト。私は人を傷つけ甚振り遊ぶのが好きなのです」
訂正内容が最悪だと思ったが、明智光秀はこういう人なので
私はそうですかと頷こうとした。
が、未だ首にかかった光秀様の手に阻害される。
もう一度手を添えてはずしてくれるように催促すると、
その手をつかまれ、細長い指でなぞられる。
「しかしデフォルト。貴方は甚振りがいが、本当に無い。
思わず殺すのをやめてしまいました」
「それはえぇと、どうも」
いつも斬るつもりは無いといっているくせに。
嘘つきと罵ることもできず(怖すぎる)
どういえば良いのか分からなかったので、そう言うと
光秀様は呆れた様に嘆息する。
「そういうところが、貴方はつまらない」
「はぁ…具体的に、どう」
「そういうことろがです。デフォルト、翅を磔られた蝶を見たことは?
甚振られるのに慣れきった鼠を見たことは?
それらと貴方は良く似ている。
絶望と抵抗ほど、彩を与えるものはないのですよ」
「…ようするに、私には生きる気力が不足していると」
「えぇ。その通りです。貴方よりはそのあたりの老人のほうがよほど生き汚い」
「…私は今、失礼だと、主に対して罵るべきなのでしょうか」
「それよりかは、私に対して殺そうとするなと抗議するべきですよ」
…光秀様に正論を言われると、理不尽な気持ちになるのはどうしてなのか。
快楽主義者の癖に。
人の命など、埃よりも軽い人に、そのような抗議をしてもと、
眉を寄せていると、光秀様が私のほうへと倒れこんでくる。
「っ」
頭の両脇に光秀様の手がつかれ、すぐ前に、お綺麗な顔が迫った。
馬乗り姿勢から、押し倒されたような形になって、私はさすがに動揺したが
光秀様はそれにかまうことなく、私の首から手を離し、代わりに頭を掴む。
「デフォルト」
「は」
「退屈です」
息がかかるような距離に顔があると、やはり動揺する。
彼は美しい。
私は外見だけだと動揺を押さえつけながら、そのようですねと返す。
随分と気の無い返答になったが、光秀様はどうでもよさそうに聞き流すと
近づけた顔を、私の頭の右横においた。
のしかかるような姿勢をとった上、力を抜いたのか、体にかかる重みが増す。
光秀様の体は、爬虫類のように冷たかった。
しかしその分だけ、他人の体温というものを嫌でも感じさせられて
思わず息を詰めてしまう。
「光秀様」
反射的に名を呼べば、デフォルト、と、光秀様もまた私の名を呼んだ。
この人が何をしたいのかさっぱり分からないが、その声が
耳元で響いて私は更に動揺する。
ほんのりと、顔が赤くなりかけるが、次の彼の呟きで一気に血が下がり青ざめた。
「デフォルト、一緒に町に下りてみましょうか」
舌なめずりをするような気配。
ただ町に下りるのではなく、遊ぶつもりだと想像するのは難くなく
その惨状を想像して、思わず光秀様の着物を掴むとふふふと、彼は笑い声を漏らした。