幸助は母の胎内に在りて、父親の怨望に晒されていた。
それは幸鷹も良く憶えている。
自分から花波を奪う者として、佐助の怨嗟の拠り所にされてしまっていた幸助と己。
酷く醜い感情の波にのまれ、あの頃の佐助はどうにもならぬ状態だった。
それを胎児であった幸助が本能的に感じていなかった訳がない。
大人が思うよりもずっと、胎児は様々な事を感じているという。
少なくとも、胎内での記憶を有する幸鷹にしてみれば、その事実を受け入れるに抵抗があるはずもなく、ただ……哀れに思った。
けれど同時に不思議なのは、父親はそうであれ、母や兄である己は違ったはずなのに、幸助の誕生を覚悟を持って待ち、深く愛していたと言うのに……何故に、その気持ちまで疑うのか。
幸鷹にはそこが解らないままだ。
彼は幸助の誕生を楽しみにしていた。
母もそうだが、幸村や秋月、お館様、伊達の政宗や成実、小十郎だって同様であり、挙げればキリがないほどだ。
そんな中で、彼の誕生を望まなかったのは、ただ一人、猿飛 佐助――幸助の父だけだったはずなのに。
この疑り深さと精神の脆弱さは、悲しいかな、そんな父にそっくりなのだけれど。
「幸助」
「ん?」
夕陽を背に、どこか常よりもゆっくりと並んで歩く兄弟を、道行く者の幾人かが振り返る。
一部はその容姿の見事な整いに。
髪や服飾、全てにおいて暗色を身に纏う兄と、明色を身に纏う弟は、実に対照的な美しさを有す。
全く似ていないように見えるが、母が同じだからなのだろうか、やはりどこか共通のものを持ってはいるからこそ、彼らは二人で一対にも見える。
闇色を好み、己自身をも闇に置こうとする兄は、内面においてはさほど冥を持ってはいないのに対し、表向き、明るく優しい幸助は、実の所は最も闇に近い場所にいる。
それだけをとってみても、彼らは表裏を逆さに持ち合う、異にして同の者なのだろう。
母を最愛の者とし、次いで兄弟を想い合う。
その形を目に見せてやれたのならば……、幸助がこのように苦しむ必要などないであろうに、と幸鷹は歯痒い想いを胸の内に潜めている。
「心」は、いつとて目には見えぬもの。
「想い」とは、どれほど連ねても触れられぬもの。
だからこそ、すぐに疑い、時に手に入らぬと嘆いたりもする。
なれば「信じる」とは、目に見えぬものを前に、怯まずにいる事を指すのだろうか。
懐疑心を抱く弱さに打ち克って、初めてそれを手にする事が出来るのだろうか。
それはあまりに遠い道程だ。
人はそれほどまでには強くないだろう。
光よりは闇へ。
信よりは疑へ。
願うほど、強く欲するほど、激しき急流に飲まれ、落ちて行くものではないのだろうか。
例えるならば―――永久(とわ)に戻れぬ岸辺まで。
そう。
弟は、幸助は落ちたのだ。
決して戻れぬ向こう岸へと、生まれながらに波に流されていた。
誰も救えない。
救える訳がない。
けれど、己は彼を想うから。
救えなくとも、汀(みぎわ)にて藻掻いているのならば、共に溺れてやりたいと思うから。
手を掴め。
腕を引き千切るほどに強くても良い。
決して、その願いを、想いを、爪の食い込む痛みを。
―――俺は、捨てはしないから。
「幸助」
「ふふ、幸兄ってば、さっきから何だよ」
己の名を呼ぶ兄の声が好き。
いつもよりも、そう、どこか少しだけ、優しくて柔らかな感じがする。
意味などなくても良い。
『ここに俺がいる』
その証明みたいで、酷く嬉しいから、何度でも名を呼んで欲しい。
幸せになれ、と母がくれた名前だから。
言祝ぎの禊(みそぎ)なれと、祈りの篭った最初の贈り物。
母が、兄が、名を呼んでくれるたびに、小さな喜びが闇を払うから。
「幸助、見ろ。アンズが季節のようだ」
「あー、夏の果物だからね」
兄が指差したのは、駅前通にある小さな青果店だった。
店先に並ぶのは夏の果物の代表格であるスイカやメロンだが、その隙間にひっそりと小さな明るい橙色が覗いている。
先月には青梅が置いてあり、母と幸助とで「梅シロップ」を作るべく、大量に購入したのが記憶に新しい。
すっかり皆に飲まれ、加工されて食われ、既に跡形もなく消えてしまったけれど。
母が祖母より習った、真田家に伝わるそんな各種シロップは、水やソーダで割っても良し、カキ氷に掛けても美味、ゼリーにしても美味しであり、季節ごとに様々なものが漬け込まれている。
酒にはせずにシロップにするのが、真田家最大の特徴だろう。
「アンズのシロップも美味そうだよなぁ……」
「シロップよりも、俺は幸助の作るタルトの方が好きだがな」
歩を止め、店を遠巻きに眺める弟に、素っ気無く言った幸鷹は、ツカツカと店に近寄ると顔馴染みの店主に声を掛け、ありったけのアンズを購入する。
「え!?ちょ、買い過ぎじゃねぇの?」
「シロップも作るのであろう?」
俺はタルトも食うのだ、と幸鷹は勝手に決め込み、さっさと会計を済ませると、ビニール袋に詰められた何キロあるのか不明なほどのアンズを、呆気にとられている幸助へと押し付ける。
「俺が1ホール、花凛が1ホール、母とお前と父とで1ホール。その概算なれば、この量でも足りぬやも知れぬわ」
「いやいや、足りまくり」
キッチンには立たない兄の概算はあまりにいい加減であり、思わず苦笑を漏らすけれど、これは兄なりの優しさなのだ。
幸助の、と名指しする。
母の方が上手に作れるだろうに。
失敗しても大丈夫なように、これだけの量を購入してくれたのだろう。
解るから、伝わっているから。
「ほんっと、俺、幸兄が大好きだ」
「気色悪いわ」
「あは〜」
「……ふふ」
くしゃり、と破顔した弟の穏やかさに、幸鷹は思わず彼の頭に手を遣った。
もう高校生にもなった弟の頭を、大学生の兄が撫でるなど、違和感を生むだろうに、それでも撫でずにおれないのは、
「幸助は、いつまでも愛いままよ」
心の底から、そう沸きいずる思いを隠せないからに他ならぬのだ。
照れるでもなく、反抗するでもなく、ただ、ふにゃりと嬉しそうに笑う弟に笑みを返し、幸鷹は再び歩き出す。
こうして幾つも、幾度も、安堵の欠片を彼の道行きに落とし、不安な時に振り返れるように。
柔らかなもので、いつでも包んでやれるように。
孤独もまた、幸助を形成するものの一つ。
複雑に色成す、心という名の万華鏡。
その煌きに潜む、小さな影だから。
不安なだけ、孤独が苛むだけ。
振り返る己の過去の道程に、キラキラ落ちている、ガラスの欠片のような愛情を。
零してやろう。
涙の粒のように、輝き失せぬ、澄明なる小さな小さな気にも止まらぬほどの欠片を、雨のように降り注ごう。
弱きを責めはすまい。
誰しも、どこかに必ず柔く、鎧を纏えぬ心の一部を持つのだから。
ただ、愛しめば良い。
赦し、認め、あるがままを受け止めれば良い。
それが酷く、困難な事だと知るからこそ、振り返りし道に落つる、小さな輝きが救う時がある。
その時だけの為で良い。
気付かぬならば、そのままでも構うまい。
愛している、と声にするのは簡単だけれど、それを証明は出来ないからこそ。
脆弱なる、孤独な傀儡の身の内へと、いつか光を反射し輝く想いを落とし続ける真摯さを、愛という名の見えざるものの変わりに置き去るだけなのだ。