赤いランドセルを背負って、静子は教室を見渡した。
ほの赤く染まった教室は、誰ひとりいることは無く、静寂だけを留まらせている。
横井静子は、小学五年生だ。
身長百四十七センチ、体重三十キロ。
ごく平均的な身長と体重、顔はクラスで五番目ぐらいに可愛い程度。
頭が良くて、運動神経も高くて、そうして、他の子供よりも大分大人びている。
何も無くとも大人びている子供というのはいるものだが
静子のそれにはきちんと理由があって、それは彼女の家庭環境に起因している。
「横井さん」
「高山先生」
帰ろうと、教室を出た所で担任の高山に捕まった静子は、微かに表情を動かす。
彼女がこちらを呼びとめた目的を察知しているからだ。
こういう部分が、静子が子供らしくないといわれる所以なのであるけれども。
だが、さらさら直す気もないので
「なんでしょう」
と、分かっていないふりをして首をかしげて見せた。
そうすると、高山は躊躇いがちに近づいてきて、静子の前に、一枚の紙を差し出す。
「あの、横井さん。三者面談の紙は…お母様に見せてくれたのよね?」
「はい、見せましたけど。忙しくて来れないそうです」
「………横井さんのお家は、お父様いらっしゃらないから
忙しいのは分かるんだけど…」
それでは困ると言いたげに高山が表情をゆがめる、が。
知るものか。
静子は平坦な感情でそう思った。
三者面談をした所で、優等生をやっている静子を相手に文句もあるまい。
それならば、一枚こういうことをやっていてこうです、という紙でも渡してもらえれば
それを母親に見せて終わりだ。
去年も一昨年も、その前の年も。
何も問題ありませんという内容だけが繰り返されて、面談は終わったのだから。
つまらないことにこだわる、と思いながら、それでもやはり静子は
それを表情にも口にも出さない。
可愛く、ない。
そうして、そういう子供らしからぬ静子が、どうにも苦手そうな高山は
じっと静子が自らの顔を見ているのに気がついて、気まずそうに身じろぎをした。
「………あの、横井さん。私がお母様の方に連絡をしてみるから。
いつごろお暇かしら」
「………夜なら…大体九時ぐらいなら、大丈夫です。あんまり夜遅くというのも……寝ていますが」
昼と夕方はいけない。
夜の早い時間も。
決して学校の先生には言えないことを思い浮かべながら静子が答えると
高山は心得たとばかりに二度三度頷く。
「あぁうん、分かったわ。ありがとう」
にっこりと、最後だけは取り繕うように笑って、高山が片手を上げて立ち去る。
それにさようなら、と声をかけると、気をつけて帰るのよという声が返された。
…三者面談、ねぇ。
ランドセルの肩ひもの位置を直しながら、静子は帰路を歩きつつ考える。
そういう、なんというのか、意味もないものについては
問題がある生徒や、言いたいことがある生徒にだけ行ってはくれないだろうか。
いや、面談自体は静子も別段嫌ではない。
あれはただ黙って偉そうにこちらがどうだのこうだの言う教師の話を
こくんこくんと頷きながら聞いていればよい行事だ。
二者面談ならば、いくらでもやってくれてよい。
けれども。
三者ということは、親が居るということだろう。
静子は、あまり自分の親については直視したくない。
目を細め、静かな息を漏らした静子は、いつのまにか目の前にある自宅の敷地に足を踏み入れ
玄関に向かうことなく、裏手に回ると裏口にぴったりと耳をつけた。
『あ…』
「…駄目か」
聞こえてくるのは、女の猫のような声。
盛りのついた春まっしぐらの雌猫でもここまで媚びた声は出すまいて
という印象の声が、大きく中から聞こえてくるのに、静子は今度ははっきりとしたため息をつく。
うちは、防音しっかりしていないのに。もうちょっと声を落としてはくれないか、母よ。
静子が一歳のころに父親が死に。
母が大黒柱を担っている横井家であるから、彼女の稼ぎで住める所など、限られている。
さすがに敷地外には聞こえやしないが、敷地内で扉に耳をつければはっきりと聞こえる卑猥な言葉に
傷つくことはもはやない。
大黒柱で、曲がりなりにも静子を母は育ててくれているのだ。
そのことを思えば、愛人とも呼べないような通りすがりの男を家に引っ張り込んでは
快楽に耽る母を責めることなど出来やしない。
例え、彼女が自分に興味が無くたって。
例え、彼女が自分を見ていなくたって。
例え、彼女が自分に割く時間は一分もないとはっきり言うような人間だって。
……………………あぁ。
大の大人でも耳を塞ぎたくなるような内容に移行した女の艶声に
横髪を耳にかけ直して、静子は裏口からそっと離れる。
八割がた帰ると享楽に耽っている母だが、二割の確率で家に入れる。
その二割だと良いなと思いながらいつも小学校から帰るのだけど
やはり今日もだめらしい。
この間は公園にいたら、警察の人にお母さんかお父さんは?と厳しい表情で聞かれてしまったし
…何処に行こうかな。
育児放棄を半分されているけれども、現状維持を望んでいる静子に、世間様は厳しい。
母に肉親の情があるかと聞かれれば首を傾げるが
しかし彼女と離れて施設に入りたいかと言われれば、迷わず首を振る。
施設は嫌だと思う、なんとなく。
あくまで施設が嫌なのであって、離れるのが嫌なわけじゃあないのだけれども。
だから、静子は何処に行って暇をつぶそう。
いっそ、家の裏のこのあたりでうとうととしてしまえばと思いながら、一歩踏み出して。
―そうすると、行き成り目の前でビルが壊れていた。
「え?」
呆然とした声を上げるしか静子は出来なかった。
意味が、分からない。
ぐるりと辺りを見渡す。
今まで居た静子の自宅は無く、その代わりに超高層のビルや、壊れた学校らしき建物が目に入る。
「え?」
意味が、分からない。
もう一度見る。
景色は変わらない。
いや違う。
景色は変わっている。
壊れたビルの隙間から、巨大なロボットのようなものが見えた。
空飛ぶ円盤のようなものも。
日曜の朝からやっている、子供向けのヒーロー番組の中で出てくるような代物が
静子の視界には、はっきりと映っていた。
「え」
混乱が静子の頭を突き抜ける。
あぁ、意味が分からない。
けれども。
意味が分からないと混乱をする静子の背中で、壊れた日常の残滓の赤いランドセルが
振動を伝えるようにびりびりと鳴った。
その音に静子がはっとすると、地面が揺れていることに彼女は気がつく。
あぁ、あのロボットとかが、動いているから。
だから、地面が振動しているのか。
そして続いてビルの隙間から見えるロボットや円盤が町を破壊しているのも見えた。
ビルから人が悲鳴を上げながら逃げだすのも、それを容赦なく踏みつぶして赤い残骸にしてしまうのも。
…あぁ、敵役、悪役、そうなのか、あれは。
では、あれに近づくと、危ないのだな…。
動転もできないほどの展開に、白くなった頭で考えていると
きぃんっとした痛みが突如として静子を襲う。
「っ!?」
それに額を押さえて、本当に、何故か。
自分でも理由を分からずに、静子は空を見上げた。
空には、飛行機があった。
ふらりふらりと揺れながら、ゆっくりとこちらに向かって墜落してくる。
それに、あ、落ちる。
そう思った瞬間、その通りに飛行機は静子の前方、五十メートルほど離れた場所に急激に墜落をした。
「あ!」
その衝撃によって爆風が起こり、思わず声を上げながら手で顔面をかばった静子だが
声を上げたせいで開けた口に、爆風で舞いあげられた砂利が容赦なく飛び込んだ。
「っぺっぺっ…うえ…」
上唇に舌をなすりつけて砂利を落として、そうして飛行機が墜落したほうを見ようとした静子。
しかし、再度の頭痛が彼女を襲う。
しかもそれだけにとどまらず、飛行機の中からは、頭痛と呼応するように
かん高い機械音が響いた。
ピーピーピーという、機械特有の無機質な警告音。
それを聞いているうちに、静子は何故か、呼ばれているような感覚を強く覚える。
何に?
分からない。
けれども、呼ばれていると。
強く強くそう思って、彼女はふらりと一歩、操られるように足を墜落した飛行機の方へと踏み出したのだった。