これは、いつかのお話。


………。
暖かな陽光が空から降る日のことであった。
真田は、縁側でほぅと息を吐く。
その横に座っているのはいつものように夫、真田幸村………ではなく
その上司の武田信玄公だ。
彼の横に並びながら、出された茶菓子をつまみつつ談笑する。
躑躅ヶ崎館では、真田幸村が妻を伴い長期滞在する時には、頻繁に見られる光景だ。
特には珍しい光景ではない。
彼女の夫である真田幸村が朝の鍛錬にいそしんでいる間
信玄が空いている時には、彼女とのんびりとした時間を過ごす。
もう日常の中に組み込まれつつある「いつも通り」。
その時間にまったりとしながらが出された茶を飲んでいると
信玄がをちらりと見た。
その視線に、こちら側も信玄の方を見ると、彼はのう、とに向かって口を開く。
「幸村とはうまくやっておるか」
「はい。良くしていただいてます」
「そうか、それは良かった。…にしても、あの幸村がな…」
「………」
は遠い目をし始めた信玄に、ただ微笑んで言葉は返さない。
なぜならこのやりとりはがこちら側に来てからずぅっと繰り返されているものであり
おそらく通算すれば、三桁は優に超えているものだからだ。
…幸村さん…!!
そりゃあ、あの人はとんでもなく女が苦手な人であったけれども…。
上司がここまで繰り返すほどというのも。
なんとなく夫への周囲の評価に目頭を押さえて、無意味に夫に優しくしたい気持ちになっていると
上司はを上から下まで見て、よう捕まえたものよ…と
感慨深げに呟く。
その呟きにこめられた万感の感情に、は幸村さん…!ともう一度幸村の名前を脳内で呼んだ。
どれだけ女性関係で、心配を周囲にかけていたのだろう、あの人は。
がいたたまれないような気持で信玄から目をそらすと
彼は鋭くの感情を理解したようで
「あやつの城に若いおなごが居らぬのは、あやつが女を苦手だからよ。
上田城の採用基準には、あやつのせいで暗黙の年齢制限があった」
「……そうですか…」
思わず遠い目をしてしまう。
そういえば、若い女性をあの城では見かけないなぁと思ったのだ。
そういう理由なのか。
妙齢足すことの二十、三十があたりまえの、しかも恰幅の良い女性ばかりがいる
上田の城の女中たちを思い出し、これまたどうしようもない気分になる
けれども。
殿!」
鍛錬を終えてきたらしい幸村が、まずの名を呼んでいつものように駆けてくる。
立ちあがってがそれを迎えれば、彼は、はにかんだ表情で笑う。
その表情に信玄が微笑ましげな顔をして、は少し気恥ずかしさを覚えるが
これも、いつものことだ。
そして幸村はの手をとり、の相手をしてた信玄へと頭を下げた。
「お館様!殿の相手をしていただきありがとうございます!」
その、幸村の言葉、態度、行動。
あの、女が苦手で苦手で苦手で苦手で苦手で苦手で仕方なかった幸村が。
戦場で一緒に出陣していた前田夫婦を見ただけで破廉恥呼ばわりしていた幸村が。
女の手を自らとり、その女のために頭を下げる。
彼を自らの子のように思う武田信玄は、その光景にぐっと胸を突かれて目頭を押さえる。
……一応言っておくが、この光景もいつも通りだ。
信玄は幸村が、こうしてのことを妻だと認め、愛していると分かる行動をとるたび
感動しては瞳を潤ませているのだ。
それは今までの幸村の行動のせいと言ってしまえばそうかもしれないが
武田の暑苦しい気質も大いに関係しているといえる。
ともかくとして、幸村の行動にいつも通りに感動を覚えた信玄は
その感動のまま幸村へと声をかけた。
「………成長したのう、幸村」
「…………は、お館様?」
「あのようであったおぬしがこうなるとは。
……いや、子とは、一瞬で成長するものであったな。
わしも耄碌したものよ」
「お、お館様!何のことだかは分かりませぬが
お館様がそのような物言い、らしくありませぬ!
お館様がお館様であるかぎり、耄碌などと言うことはあり得な」
ふっと、成長した我が子を見守る親の様な、温かな眼差しで
幸村を見ていた信玄だったが、幸村のいつも通りの絶対的お館様信仰めいた言葉に
カッと目を見開き拳を飛ばす。
「馬鹿を言うでないわあああ幸村ああああ!!
人とは老いて死んでゆくもの!わしを例外に捉えるでないっ!!」
「ぐはっ」
怒号と共に幸村が空を舞った。
の躾けなおしで、大分ましになっているとはいえ
真田幸村は真田幸村。
お館様は凄い!強い!の精神で発言をして、こうして信玄に殴り倒されるのは
頻度は減ったが変わってはいない。
そうして、殴り飛ばされてしまうと始まるのが、武田名物殴り愛で
幸村は起き上がりこぼしのようにすぐに立ち上がると
お館さまああああ!と叫びながら信玄に向かって突っ込む。
その様子に、は後退をしようとして、
「じゃ、いつも通りちゃんは俺様と屋根の上ってことで」
「…本当に、いつも通り、ですねぇ」
移動は一瞬だった。
本当にいつも通り、佐助に抱きかかえ上げられ
屋根の上に移動させられたは、微笑みながら眼下の光景を見下ろす。
そこには、殴り合いを始めた夫と、その上司の姿があって。
は隣に立つ人が、あぁ…修理代…という世知辛い呟きを洩らすのも
いつも通りだと思いながら、彼女は屋根の上に座る。
運動神経の鈍い自分では、屋根の上に立っていたのでは
いつ転げ落ちるか分からないからだ。
「今日は、良い天気ですねぇ、佐助さん」
「…うん、良い天気だけど。けど」
快晴の空を見ながらのんびりと言葉を紡ぐに、佐助は言葉を濁して止める。
だけど。けど。
その後に続くのは、ちゃん馴染み過ぎじゃない?だろうか。
それとも受け入れすぎじゃない?、か。
どちらにしろ、いちいち反応をしてしまう佐助が
慣れなさすぎなのだと、は思う。
さすがにも目の前のこれが最初に始まった時には、びっくりして動転してしまったけれども
二度三度、四度目あたりになってくると、もはや驚く気にもなれなかった。
だって、日常なのでしょう、これは。
これが、武田にとって当たり前ならば、はただそれを受け止めて、日常にするだけだ。
それに幸村さんも楽しそうだし。
敬愛する師に構ってもらえて、散歩前の犬ばりに喜んでいることが分かる
幸村を見ては幸せそうに目を細めると
佐助に視線を移し、自分の横をぽんぽんと、叩く。
座りませんか?
そういう誘いをかけて佐助を誘えば、彼はちらっと眼下を見て
それから大人しくの横に体操座りをした。
そうして気が重たそうに、がっしゃんがっしゃん
何かが壊れる音を聞きため息をつく彼は気が重たそうで。
その表情がいつものように冴えないのを横目で見ながら
は微苦笑を浮かべて、彼にいつも通り言うのだ。
「諦めて終わるのを待ちましょう、佐助さん。私も一緒に片づけますから。ね?」
「…………あはー…俺様ちゃん大好きー…」
小さな子供が、お母さん大好きーというノリでいう彼は
今まで一人でこの騒ぎの後始末をしていたのだという。
それが、と言う手伝いを得たことが、本当に嬉しいのだろう。
滅多と好き嫌いを口にしない青年が、ここまで言うのが可哀そうで
同情しながらその背をぽんぽんと叩いてやって
はそれでも夫が嬉しげなのは良いなぁと
殴りあいの隙間にこちらを見て笑った幸村の顔にそう思うのだった。


…まぁ、その直後に夫は「何を余所見をしておる幸村ああああ」と
天高く跳ねあげられてしまったのだけれども。