空が暁に染まる。
戦場の地面も、暁に。
それと呼応するかのように、相手方が撤退を始めた。
「どうする、旦那」
「退く。追ううちに完全に夜になるのは分かり切っておる。
追って、殲滅できる保証もない。
それならば、追うことは出来ぬ。
故に、退く。退いて朝襲撃をかける。
佐助、忍びを何人かつけておけ」
「了解」
尋ねた主の答えは実に理知的だった。
武田信玄のおらぬ戦場では、真田幸村という男はこうだ。
佐助はこういうものだと思っているが、周りの者は不思議でならないらしい。
武田信玄の前では熱血、暴走。
そして日常では甘味が好きな、抜けた男。
しかし、武田信玄の居らぬ戦では、理性的でかつ知将と呼ばれて差し支えない働きを見せる。
一体真田幸村とはどういう人間なのか。
歳を重ねておらぬ将兵の間では、真田幸村は二人も三人もいると言う
噂さえ立っているらしい。
弁丸時代から知っている佐助から言わせてもらえば
武田信玄の前のあれは、ただの甘えだ。
あの器の大きな男に、幸村はただ依存し、甘えているだけにすぎない。
そして、日常生活の抜けっぷりは、ただ螺子が抜けているだけ。
普通は、螺子は戦場でこそ抜けるものだが、
真田幸村という男はどこまでも武人で、戦場での彼こそが
真の幸村なのだと、猿飛佐助は知っていた。
言われた通り、忍びを退いてゆく集団に付け後を追わすと
佐助は幸村が休む本陣へと戻る。
すると、佐助を視認した幸村が息を吐いた。
いつもならば気を緩めた証拠のため息なのだが、今回は少し様子が違っている。
「どうしたのさ、旦那。何か気にかかることでも?」
「いいや。気にかかるということでもなく、佐助。
先の戦場での動き、どういうことだ?」
問われて、佐助ははてと思う。
このように、問いだされるような真似をしただろうか。
首を傾げかけた佐助だったが、ふと思い当ることがあった。
先の戦が一旦お開きになる前、佐助は幸村を狙った刀を素手でつかみ取った。
幸いにして勢いがさほどなかったのと、
佐助の手には鉄で編んだ手甲がはまっていて
大した傷は負いはしなかったが。
その時に傷がいくらか佐助の手についたのを、この主はお怒りなのだろう。
「いやさ、旦那。
あれのことだろうけど、何怒ってんの。
俺様は平気だよ?」
傷がついたほうの手を握って開いてをわざと目の前でしてやると
幸村は眉間にしわを寄せる。
「平気平気でないの問題ではない。俺は、あれしきのものは避けれた」
「えぇと、矜持が傷ついたって話?そりゃごめん」
「違う。俺が言いたいのはお前はもう少し自分を大事にせよ、ということだ」
不機嫌のわけを察したと思ったら、全然違う方向で主は怒っていた。
まぁ、予想は付いていたけど。
どうにも忍びを必要以上に無駄に、愚かに大事にしたがる主に
佐助はへらりと道化のように笑いを浮かべる。
「えー。俺様忍びなのに、何言っちゃってんの旦那」
すると、佐助がせっかく軽く明るく言ったにもかかわらず
主は余計に眉間にしわを一本増やした。
…こういう時、佐助と幸村の相性はよろしくない。
佐助が何かすればするほど、言えば言うほど幸村は怒るのだ。
今とて例にもれず、彼は怒気を強めて佐助を鋭く見据える。
「その忍びという意識がいかんのだ、佐助。
明らかにあれは避けれたであろう。
それをつかみ取ってお前が傷を負ってどうする。
そのような働きをせよとは、俺もお館様もお前に言ってはおらぬぞ」
「いやいやいやいや、旦那や大将が言わなくてもね。
俺は忍びだからさぁ。ねぇ」
「佐助」
短く、名を呼ばれる。
鋭いそれに口を閉じると、幸村は大仰にため息をついた。
「聡いお前ならば分かっていよう、お館様が
他国では道具同然に扱われる忍びを厚遇する訳、意味。
まさか分からぬとは言わせぬぞ」
「そりゃさ、分かってるけど」
分かっている。
武田が忍びを普通よりも遥かに、まるで人のように厚遇するそのわけを。
人は石垣、人は城。
勝敗を決するのは生垣、城でなく人。
そう公言する武田信玄は、忍びにも同様を求めた。
戦場を駆ける武士と同じように、忍びもまた道具であっては困る。
人が戦う究極は、死にたくないという意識からだ。
故に、自らを道具としていつでも死する忍びであってもらっては
武田信玄の意に沿わぬ。
生きよ、生きて生きて、生き汚くあれ。
その死に物狂いさが、勝利を呼び込むのだ。
確かに、武田に仕える忍びは、武田信玄の意図通り他国の忍びよりもよほど強い。
けれども、その強い忍びの筆頭である佐助には
武田信玄の求めるそれは難しいのだ。
道具であれ、人であるな、と
身に染みついた、忍びの教えが体から全く抜けない。
魂に染みついたように、全く抜けないのだ。
だから、主が避けられると分かっていながらも
己が手で刀をつかみ取る暴挙に佐助を走らせる。
武田信玄の意図通りに生きられない己の悲しさに
思いを馳せている佐助に、幸村はもう一度ため息をついて
「大体が大体、お前には長生きをしてもらわねば困る。
俺の子を俺と同じように面倒を見てもらわねば」
「えっ………」
その言葉に佐助は固まる。
子供?
幸村の?
子供って一人じゃ出来ないんだよ、旦那。分かってる?
いや、幸村ももう元服を済ませているのだし
それ位は分かっているだろう。
ということは、あれだ。
「…旦那結婚する気、あったんだ?」
「上田の城主が結婚せずしてどうする」
あ、お勤めなわけね。
あっさりと返ってきた言葉はある意味予想通りだった。
駄目だこの人。
ある意味、佐助以上に駄目なのかもしれない。
近頃めっきり男らしくなって
…そして言い寄られてはますます女嫌いの進行している主相手に
こんどは佐助がため息をつく番だった。
絶対この人、誰でもいいって思ってるよ。
「いやでもさ、俺が子供の面倒見るって、旦那だけで決めてどうすんのさ。
子供ってことは奥さん居るんだよ?
武田からならまだ拒絶反応少ないだろうけどさぁ。
他国から嫁いできたら、そりゃもう言い終わんないうちからお断りされるよ」
と、言うよりは武田の女でも拒絶するだろう。
忍びに子供を預けたい人間などいない。
幼い弁丸に佐助を付けた真田の家の者たちも、最初は預けるつもりなど微塵もなく
ただ、佐助以外の人間を、元気極まりなかった弁丸が潰してしまった。
その結果ゆえだ。
佐助がさすがにそれはちょっと無理でしょ、と主を窘めると
主は更にもう一本、眉間にしわを追加する。
「そのような奥などいらぬ」
…佐助が発言してから、間は二秒も無かった。
「…え、考える間もなしかよ」
その躊躇いのなさに呆然とする佐助。
無いにも等しかった奥さんの選考基準が追加。
選考基準、俺様ってどうよ。
と、その呆然とする頭で考えてみる。
…無い。
嫁の来手が無くなること請け合いだ。
何とか止めないと、と思う佐助だが、彼がその旨を発言する前に
幸村が再び口を開く。
「佐助、お前は俺の兄代わりで母代りのようなものだろう」
「…母代りは辞退させてもらっていーい?」
「断る。ともかく佐助」
確かに誰しもに言われているけれどと、辞退しようとする佐助を
無情にも断った幸村に、佐助はとんっと、指で胸を付かれる。
「許す。お前はもう少し生き汚くて良い。
俺も、お館様も、お前にはそれを望もう」
夕陽の最後の残照が、幸村の背後に差した。
彼の茶色い髪の外側が燃えるように赤く染まり、最初から赤い鎧は炎のように照る。
「主である某が許すのだ。まさか断りはすまいな」
口の端を上げた笑みは、戦場でしかお目にかかれぬもので
佐助はまさにその時、あぁ、この幸村こそが自分のただ一人の主なのだと、強くそう思った。