さぁ、終わりはやってくる。
さぁ、終わりがやってくる、
何もかもを飛び越して、始まりが唐突に来た様に
終わりもまた、何もかもを飛び越して、予感をさせながらやってくる。
………その日は、何もかもが違っていた。
朝起きた時の空気から、鋭く冷たい。
おまけに体にまとわりつくような視線があって、あぁ終わるのだと
目覚めた直後には思い知る。
「今日で終わりだ」
和室の隅にもたれて、腕組みをした佐助が、それを裏付けるように言った。
やはりと思いながら、はそれに頷く。
終わりが来る。化け物が、来る。
「帰る準備は、万端ですね」
「うん、まぁね。お世話になりました」
「いいえ。こちらこそ」
いつもの洋服でなくて、最初に着ていた迷彩柄の忍び装束を着る彼と
頭を下げあって、は布団から立ち上がる。
「…今日は、私は会社休んだほうが良いですね」
「うん。ちゃんは起こして休ませた。
ちゃんは、まだ電話入れれる時間じゃないでしょ」
「えぇ、また、そういう時間になったら入れます。朝ごはんは?」
「今日は朝食はなし。昼もなし。飲み物も飲まないで」
…トイレにできるだけ行かないためか。
瞬時に言われた内容の意図を理解する。
化け物が来るということは、無防備になる瞬間が危ないということ。
用を足す瞬間、気を抜かない人間がいるだろうか。
それよりもさらに前に、とは、トイレという密室で
人が駆け付けるまで、化け物と対峙して無事で居られるか。
答えは考えなくても分かる。
佐助のもっともな言葉相手に、飲み食いできない不満などありはしなかった。
「えぇ、はい。…じゃあ、私着替えますから。
………どうやって着替えようかな」
「すぱっと?」
「嫌ですよ。どうにかして着れる服を見つけます」
「ちなみにあたしはもう着替えたけどね」
首を傾げる佐助の提案を却下すると、ふすまが開いて、妹が現れる。
その言葉の通り、彼女はパジャマからきちんと着替えていて
いつのまにと、は思ってしまう。
というか。
「………どうやって着替えたの、ちゃん」
「え、小十郎さんに見てもらって、普通に」
参考になるかと思って聞いたら、さらっと答えられたけれど、それは無理だ。
いくらなんでも恥ずかしすぎる。
「…………お姉ちゃんは、それは、無理かな」
「まぁ、幸村じゃ無理だろうけど」
「いや、お姉ちゃん自体が無理なんだけど、ちゃん」
「…殿、破廉恥でござる」
「男の前で着替えるのが?」
「堂々とそれを言うのが、でござる」
がやんわりと拒否するのと、の後ろから
頬を僅かに染めた幸村と政宗が、現れると同時に突っ込みを入れる。
「……………」
その後ろからは、気まずそうにする小十郎。
「…お姉ちゃんだけかと思ったのに…」
ぼやくは、聞かれる可能性を全く考慮していなかったらしく
現れた男三人を迷惑そうな顔で睨みつけ―そして皆、ふと緩く笑う。
そうして、和やかに最後の日は始まった。
まず、最初に行なったのは脱出の準備だった。
との車に半分ずつ、貯金通帳と着替え一式を詰め込む。
半分ずつなのは、どちらの車ででも逃げられるように、だ。
それが終わったら、食卓のある手狭ないつもの居間でなく
寝室にと使っていた和室に固まる。
無論、布団は既に上げている。
縁側に続く硝子戸の鍵は開け、いつでも逃げられるように、準備は整った。
飲まない、食べない、トイレには極力行かない。
出来るだけ、動かない。気を抜かない。周囲に気を配り続ける。
これが、今日のとのやるべきことだ。
けれど、そんなものがごく普通の生活を営んできたとに続くわけがない。
幸村や政宗たちもそれは十分に理解していて
姉妹においては、三時間に一度、五分仮眠をとることが
上記に続いて課せられたのだった。
―変化は、四度眠りに落ちた後に訪れた。
四度目の短い眠りの後目覚めると、それ以前よりか
もっと、空気が重苦しくなっていた。
顔をしかめ、眉を寄せ、口を開こうとするが
長らく水分を口にしていないためか、貼りついて上手いように開けない。
「…起きた?」
佐助の短い問いかけに、頷きで答える。
空が明らみ始め、うっすらと外の景色が赤くなる、逢魔が時より少し前。
現れるには、丁度良い時間か、少し、早いか。
武器をそれぞれに握り締めた同居人達に囲まれながら
はそのときをじっと待つ。
「………」
妹の様子を伺うと、彼女は疲弊しているようではあったが
まだ自分よりかは元気に見えた。
…は、体力の限界に近い。
十二時間だ。
ただの女が何も起こらないのに緊張し続けるには、いささか長すぎる時間。
早く、現れてくれないか。
焦れて思うのその願いに答えるように、時は、来た。
まず最初に異変に気がついたのは佐助だった。
彼は表情を鋭くして天井を見上げる。
それに習ってが天井を見ると、そこにあったのは人間の腕だ。
あちこちが 喰われたように むしられている腕が 天井から生えていた。
けれど、悲鳴を上げる人間は誰一人としていない。
も息を呑んだだけでこらえた。
とうとう、始まったのだ。
そして、始まったからには化け物の思うようにしてやるつもりなど、微塵も、ない。
腕は、しばらく天井に生えていたが
こちら側が何一つ動かないのを見ると、つまらなそうに、ぽとりと、落ちた。
その様子にたちは、遊んでいるのだと確信を覚える。
あの化け物は、散々恐怖を味合わせた上で、たちを嬲り殺すつもりなのだ。
あぁ、気分が悪い。
けれども、相手は未だ世界に出現してすらおらず
こちらから仕掛けることも出来ない。
そのため、防御を固めるべく、幸村が、の前に立つ。
同時に、政宗が、の前に。
前衛に立ったのは、従者二人だ。
一瞬が永遠にも思えるような時間が過ぎ、そして、次の遊びが始まる。
じわりと腕から血が滲んだ。
それを合図にしてか、天井から雨漏りのようにほとほとと血が降る。
「くだらねぇ」
どうしても脅かしたいのか。
児戯のようなそれに、小十郎が呟いた瞬間に。
ざぁ!っと、滝のように血が降り注いだ。
視界が奪われるそれに、流石に動揺したその隙を突くように
の目の前に混沌が現れる。
ぶわりと膨らんだそれは、あっというまに人一人飲み込めるぐらいの
大きさになり、そこからすばやく化け物の腕が伸びる。
「っ!」
怖いと感じる暇もなかった。
怖いと、思えるのはその事象を認識して、それからのこと。
が「腕が迫っている」と、認識しきるその前に
佐助がの髪を引き、乱暴に後ろに抱え込む。
標的をなくした化け物の腕は虚しく空を切った。
一撃は、かわした。
けれどすぐに二撃目が来る。
次に現れたのは幸村の真下だった。
混沌色の穴が、少しだけ、広がって。
指先がそろりと幸村の靴先を掴む。
けれど。
「………馬鹿にしてくれるな」
幸村が、低く、声を出した。
さて、無駄な例え話をしよう。
のんびりとしていた獅子の群が居た。
そこに、訪れたのは一頭の虎だ。
虎は、のんびりとしていた獅子の隙をついて
脅かして逃げることに、一度は成功する。
そして、味を占めた虎は、もう一度脅かそうと来た。
群の中には子獅子もいたし、そいつらは美味しそうに見えたからだ。
叶うならば、獅子の目の前で嬲って殺して食らってやろうと、虎は考える。
さて。
この虎の企みはは成功するか。
―答えは否だ。
一度やったことが二度通じるなら、そいつらはよほどの阿呆なのだ。
まして、来るのが分かっていてどうにかしてやろうと
舌なめずりをしている獅子の群なら、なおさら。
ゆえに、化け物はあっけなく敗北する。
まず、幸村が化け物が靴を掴んでいることを利用して、思い切り足を振り上げる。
すると、化け物は勢いのままに、腕を少し地上に出して。
………その腕を佐助が竹を割るように縦割った。
耳をつんざくような声なき悲鳴が響き、硝子戸がびりびりと震える。
それにはびくりと体を震わせたが、声は出さずにただ耐えた。
化け物の腕は、ぐんにゃりと畳に落ちかけたが、落ちることすらも許さぬように
政宗と小十郎が、二つに割れた化け物の腕を持って、引き上げる。
すると化け物は、ぱっくりと口を開けた哀れな表情で、世界に引きずり出されてしまう。
…引きずり出された化け物は、実に、醜悪な表情をしていた。
まるで、手ひどい裏切りを受けたようなそんな表情に
は化け物は、自分が、自分は、負けるはずがないと高をくくっていたのだと改めて知る。
だからこそ、地面を丸ごと混沌にして、たちを逃げ場なく引きずりこむこともせず
一度目で仕留め切ることもせず、二度目を許し
ただ、頑張れば跳ねのけられるような、そんなちょっかいをかけて嬲っていた。
…おそらくは、化け物は自分がなぜ負けたのか、分かってもいないのだろう。
哀れにも僅かな抵抗に、以前と同じように政宗と小十郎の目の前に
繰り返し走行する伊達軍の様子を映し出したが
「fuck off!!」
「…ふざけろ」
その抵抗を、以前と違い、低い声で跳ねのけて、伊達主従は揃って
化け物を真田主従との間に放り投げる。
するとそれを分かっていたように、待ち構えていた幸村の槍には―炎が宿っていた。
…………………………………いや、待て。
一秒を千に割ったような隙間では思う。
それは明らかにオーバーキルだ。
幸村達は、きっぱりと、そうきっぱりと化け物は殺さずに、と言っていたが
明らか、それを化け物に食らわせてしまうと、化け物は死ぬ。
だというのに、佐助も、小十郎も、政宗も。
雷だの闇だの何だのをだして、化け物に一斉に向けようとしているのだから
は何をしているのかと慌ててしまう。
殺したら、帰れなくなるというのに!
待て待て待て、頭に血が上っている風でもないのに、何をやっているのあなた達と
が飛び出しかけて。
妹も同じようで、ちょ、ば!という声を、先に彼女が発した。
それを、合図にするように、武将たちは武器を振りかぶり。
かっと、その瞬間に閃光が走った。
室内を満たす真白いそれに、とが目を瞑る。
「ちゃん」
「お姉ちゃん!」
とても目を開けていられない光がどこから出たのかは分からない。
けれど、お互いの無事だけは声で確認し合って
姉妹が次に目をあけたその時には、きれいさっぱりに、何も、無かった。
何もない、ただの和室。
畳は血にまみれていないし、化け物も居ない。
四人の同居人たちも。
「…お姉ちゃん、あれ!」
帰ったのか、帰れないのか。
どういう風に、なったのか。
状況がさっぱり分からず立ちすくむの肩をが叩く。
彼女が示す指先にあったのは、小さな穴だった。
消え去りそうな、小さな穴からうかがい知れる風景は、二つ。
一つは赤い鎧と迷彩柄の二人が、大きな赤い男に駆けよっていく風景。
もう一つは、何事もなかったかのように行軍する馬と、それに乗る侍たち。
「帰れ、たんだ…」
小さく、が声を漏らす。
その声に泣きそうな感情が混じっているのに気がついたが、
感傷に浸っている暇は、ない。
「車に行くよ、ちゃん!」
「あ、あ…」
妹の腕を掴んで車へと、は駆ける。
防御も攻撃も出来ない以上、とがこれ以上ここに留まっているのは危険だ。
引っ張られたは、名残惜しそうに、行軍する方の風景をちらりと見たが
それもただの一瞬で、彼女もと同じように走り出し始める。
そうして、その判断が正しいとでも示すかのように、うつされていた風景は
姉妹が和室から出たのに呼応して、ぷつりと、切れた。
さようならも言えなかったな、と、とが思うのは
家を遠く離れたホテルにチェックインしてからのことだった。