空気が変わったな、とは感じている。
何の空気かと言えば、小十郎との間の空気だ。
きっかけは分かっている。
あの化け物が現れた時に、自分がみっともなく取り乱して泣いたせいだ。
ぼろぼろと年甲斐もなく涙をこぼして、小十郎の胸にすがりついて
顔を押し付け、しかも彼がそれを許して背を撫でた時に
二人の空気は、決定的に変わってしまったのだと。
心の動きに聡いは気が付いていた。
本当は、本当に。
あの日植物園で思った通りに、帰る人間になんて心を移すつもりなかったのだけど。
それでも、は思う。
なったもんは、しかたないな、と。
………あんまりにもあれな思考だが、それがと言う人間だった。
恋はインフルエンザかなにかだろうかと
姉である辺りは頭が痛そうにしてくれるだろうが
彼女は妹のこういう思考を知らずに済んでいる。
…幸いにして。
と、いうことで、至極あっさりと小十郎が好きになったのだなという
己の心の動きを受け入れただが、基本的には
やっていることは変わり無い。
普段通り仕事に行って、帰ってきて、政宗か小十郎と遊んでご飯を食べて、寝る。
実に健全な暮らしだ。
これが相手がを何にも思っていないとかなら、変わるのかもしれないが
小十郎のほうも、を憎からず思っているのが空気から分かるので
まぁ、まぁまぁ、こういうのはタイミングでしょうと、は事を静観しているのだった。
近頃、のシフトは九時五時で安定している。というよりも安定させている。
家の状況が状況だ。
前よりもさらに警戒を厳しくしている来訪者たちは
とが家に居る間は、常に警護をすることに決めたらしい。
それに異論はもちろんないが、それならば、変動シフトで時間を動かされるよりかは
決まった時間にしてしまったほうが、彼らも楽になるに違いない。
そう思っての行動で、そして、そのの要望は勤務態度が良好のためか
いともあっさりと会社に通された。
今は会社が忙しくない、というより不況のせいで暇らしく
姉が帰るのは、大体六時半前後だからのほうが帰ってくるのは少しだけ早い。
姉の車のない駐車場に車を止めて、家の中に入ろうとすると
向こうのほうから気配を感じて、はそちらに顔を向けた。
そうすると、件の小十郎がこちらに向かって歩いてきている。
「おかえりなさい。小十郎さん、どっかいってたの?」
「見回りだ。手前も今帰りか」
「うん、そう。ただいま」
言って、にこっと笑ってみせると、近くまで寄った小十郎の表情が緩む。
「あぁ、おかえり」
言った小十郎の顔は柔らかく、はそれがひどく嬉しいのを感じる。
あぁ、やっぱりそうなんだな。
自分の好き、を確認してがますますにこりとすると
小十郎は気味が悪そうな表情になった。
それにいらっとしてが小十郎の手をぴしりと叩く。
「冷た?!」
が、その温度に、は反射的に悲鳴を上げる。
小十郎の手は、氷のように冷たかった。
見れば、小十郎の手には防寒用のてぶくろなどはまっていない。
まだ寒いというのに、手袋もせずにふらふらと歩いていれば
そりゃあ冷たいだろう。
が責め立てるような顔で小十郎を見ると
彼は一瞬ひるんだ表情を浮かべたが、結局は奥州ほどじゃねぇ。
という言い訳にもなっていないことを言うだけだ。
「奥州ほどじゃないって、そりゃあ、あんな北ほどじゃないだろうけどさ。
でも手袋ぐらいはめなよ。手、青白いじゃんか」
「そう怒るほどでもないだろう」
「いや、ほらもう、だってさあ」
小十郎の指先は青くて、は眉を寄せる。
なんでそんなに強がるのか。
には理解が出来ない。
「とりあえず、お湯で手を洗ったらどうなの」
「向こうにねぇものは使わないようにしている」
「うわ………」
即答された答えは、を絶句させるのに十分なものだった。
そりゃあ、自動でお湯が出てくる温水器なんて
帰ってもないに決まっているけれど。
使っても良いじゃない。
そう、は思うのだけど、小十郎にとってはそうでないらしい。
便利なものになれるのを良しとしない、その固い生き方は
は嫌いではないので、無理に否定するのもなんだかなぁとは、そりゃあ思うが。
小十郎の手が冷たそうなのもまた事実で、カイロを使えと言っても絶対に嫌がるのだろうし
ホットカーペットも拒否だろうし、残るとしたら、これしかないか。
に残されたたった一つの方法を採用することに決めて、
は小十郎の手を取って、ぎゅうっと握る。
「おい?」
それに慌てた声が降ってくるが、無視だ無視。
手を引こうとする小十郎を抑えて、ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう手を温めていると
小十郎の手の冷たさがに伝わってきて、思わず冷たーと声を漏らした。
「…おい、」
「だってさ、拒否するんならこれぐらいしかないじゃないのよ」
「手前がそうする必要もないだろう」
「あるないじゃないと思うの」
じゃあ何かと言われれば、答えられるわけでもないが。
が尚も手を離さずにいると、やがて小十郎は諦めたようで
大人しくされるがままになる。
こういう譲り方をするからこの人はと、は思うが
それを口に出す前に、「は、破廉恥…!」
という、声が二人を割いた。
声のほうを見ると、幸村が目をまぁるくしてこちらを見ている。
赤らんだ顔と、ぱくぱく開く口は彼の動揺の表れだろう。
まさしく青少年、といった幸村の純情さに、破廉恥っていう奴が破廉恥なんだよーだ。
という、心の声を口に出すことは憚られて、が口をつぐみ。
玄関先でやることではないと思っていた小十郎が反論せずにいると
幸村の後ろにいきなり佐助が出現する。
「はいはい旦那邪魔しないの」
「しかし、さす…!」
現れた佐助にこちらを指さし、明らかに向こうが悪いだろうと
言いたげな様子で口を開こうとした幸村相手に
そりゃあ俺様も玄関でやるこっちゃないと思うけどさあと
独り言のように言いながら、佐助は彼の口を手のひらで覆い、引きずってゆく。
幸村は佐助に口を手で覆われながらも、何事か叫ぼうとしていた様子だったが
ずるずると己が引きずられてゆくのに、やがて身を任せ
二人はと小十郎の視界から去って行った。
そして、困るのは後に残された二人である。
この空気、どうやって片をつけろというのだ。
どうにもならないような奇妙な沈黙に、がまず咳払いをして。
「…とりあえず、中に入ろっか」
「あぁ」
短く肯定して、小十郎が玄関を開ける。
そして、小十郎の手の感触が残るままの手のひらを握りしめ
はその開かれた玄関をくぐるのだった。