週末。
「今日は、ここまでにしましょうか」
目標が定まれば、自然と熱心になるもの。
今までになく勉学に励む幸村に、丁寧に教えていると、もう夜の十九時を回っていた。
そろそろご飯を作らなければならない。
が立ち上がると、幸村もまた立ち上がった。
「護衛いたそう」
「ありがとうございます」
流れのままに二階へと上がって、台所に立ったは今日の献立を考える。
ご飯はタイマーで炊いているから、あとはおかずだけなのだけど。
「幸村さん、何か食べたいものはありますか?」
「………あの、豚の揚げたのがおいしかったでござる」
「あぁ、豚の天ぷら」
たまには聞いてみるかと、希望を聞くと、ありあわせで出来そうなものがあがった。
ちょうど豚こまが冷蔵庫にあったはずと、冷蔵庫の扉を開いて
は今日は大根と人参の味噌汁、それから豚の天ぷら
きゅうりの酢の物ぐらいにしようと冷蔵庫の中身から献立を決めた。
いい加減、純和食すぎるのもが怒るだろうか。
献立を決めてからふと思って、は明日は洋食にしておこうと回避策をとる。
そうだな、洋食らしく、ハンバーグ、スパゲティ、海老フライのお子様セットあたりで。
ついでに決まった明日の献立に、明日は帰りにスーパーによってこようと
頭の中の予定に書きこみを入れて、冷蔵庫から材料をとりだす。
そして、シンクの下から包丁を取り出して、いざ料理を始めようかとしたところで
「痛っ」
誤って包丁の刃を触るという、初歩的なミスをは起こした。
カランっと高い音を立てて包丁が床を転がる。
「殿!」
「だいじょうぶです」
ぱっくりと切れ、赤い血の流れる指先を抑えながら
大丈夫も無いものだが、反射的にはそう答えた。
だが、それで大丈夫だと思える人間がどこにいるか。
のもとに慌てた様子で幸村が駆け寄ってきて傷口を覗き込む。
「かなり深いではないか…。どこが大丈夫なのだ、殿」
「…すいません」
きつい口調で怒られて、は身を縮こまらせる。
そんなを見て、幸村は眉を寄せると、無言での手をとった。
何をするのかと、が黙ってされるがままにしていると
そのまま、ぱくりとの傷ついた指を己の口の中に入れる。
驚きに固まるの指を、ざらりと、なにかが舐める感触がした。
「………ゆっ」
舐めている。
幸村が。
の指を。
あまりのことに声も出ないにかまわず、幸村は患部を舐め回すと
ちゅっと音を立てて口の中から出した。
「殿、包帯はあるのだろうか」
「ほ、ほう、たい…?…あの、いえ、あの………
あぁ…家財を持ち出した時にたぶんいっしょに?」
「………仕方ない…」
頭の中が白くなってしまっているが、拙い口調で答えると
幸村は眉間にしわを寄せて、自分の着ていた服の裾をびりりと破り
の指にぐるぐると巻く。
あぁ、手当のつもりだったのか。
先ほどの指を舐める行為の意味がようやく分かって
は………欠片も納得できなかった。
消毒薬があるか聞けばいいのに。
いや、無いんだけれども。
包帯と一緒に外なんだけれども。
いやでも、だ。タオルで押さえておくとか。
………血が乾燥すると、繊維がブチブチ傷に貼りついてものすごいことになるけど。
一人で考えて、一人でその考えを否定する。
なまじっか頭が良い弊害をもろに食らいながら
それでもは顔を上げた。
するとそこには心底心配そうな顔をした幸村が居て
しなしなと、上げた顔がうつむく。
………舐められたのだと思うと、顔が見れない。
まるで十代の乙女のようではないかと、心の中で嘲笑う自分がいるが
それでも、見れないものは見れない。
だからは顔を上げずに、まず幸村に礼を言う。
「幸村さん、手当、ありがとうございます」
「いや、それよりも殿、大丈夫でござるか?」
「はい」
うつむいたまま頷くと、上でほっとする気配がした。
それに、やはり純粋に彼は心配してくれただけなのだ。という気持ちが生じてきたが
それでもと、気持ちを奮い立たせては躊躇いながら
「でも、幸村さん指、舐めるのは、良くないです、よ?」
「………破廉恥で、あったのだろうか」
殿は先からずっとうつむいておられると、沈黙の後に言われてしまうと
はもう何も言えない。
「……………いえ、あの、あぁ………」
ただ、意味のない言葉を連ねるだけだ。
懸命に手当てしてくれた少年相手に、いくらその通りとはいえ、破廉恥とは言いたくない。
しかし、指を舐めるのは、大変よろしく無いのだと彼に伝えたいし。
そんな気持ちの板挟みに置かれるの苦悩を見て、
幸村は一つため息をついた。
「優しくしたいというのに、上手くいかぬものでござるな」
「………えぇと?」
聞かせるつもりのなかった呟きだろうが、の耳はばっちりとそれを拾った。
思わず苦悩を止めて顔を上げると、彼は呟きを拾われたのに気がついてはっとした顔をする。
と、いうことは聞き間違えではないのか。
は先ほどまでの苦悩も忘れ、ことりと首を傾げた。
「優しく、したいんですか?」
「皆に平等にというわけではなく、殿に」
何を思ってそうなのか、と思うと自然に疑問が口から出ていた。
そしてそれに答える幸村の言葉は、の想像を超えてくる。
皆にじゃなくて、私に?
ますますきょとんとするだったが、ふと、ここ最近の幸村の言・動を思い出し
ふと、頭をよぎった考えがあった。
まさかと思う。
………まさか、まさか、そんなまさか。
一笑に伏したい馬鹿な考えだったが、まさかという思いは無視できないほど強く。
「えぇと、最近の態度は、優しく、したい態度の、現れ?」
「…どれを指しているのかは分からぬが
ここ最近某は殿に優しくしたいと
そればかり考えておりましたが」
まさかそんな、あははと思いながら聞いたというのに、大当たりだった。
そんなはずは無かろうと思って聞いたのに、是と言われてしまってはどうしていいものやら。
は額に手を当て頭痛をこらえる。
…あれが、優しく?
「………てっきり私は、アタックをかけられているのかと思いましたが…」
「あたっく?」
「攻勢に出られているのかと」
何についてか言わなかったのは、気恥かしさゆえだ。
それでも幸村は省略した言葉を理解したようで、困ったように眉を寄せる。
「そのようなこと、某はしておらぬ。
連れて帰らぬと決めたのに、心残りになろう」
そう言った彼の態度は、正々堂々。
嘘偽りない。
といった調子だった。
これは本当に本当なのかもしれないと、が思うほどに。
それでも、全部を信じられるわけではなく、は問いただすべく口を開く。
「……えぇとじゃあ、出迎えは」
「帰ってきたときに、出迎えられれば嬉しかろうと」
「寒いだろうって手を握ったのは」
「殿が片倉殿にしていたのを見たでござる。
冷たければつらかろうと」
「最近良く笑っていたのは」
「殿の顔を見ると嬉しいからでござる」
「…他意は」
「真田幸村の名に誓ってありませぬ」
誓約を立てるがごとくの勢いで言う幸村に、はただ、ぐったりと項垂れた。
あぁ、ようするに、全部本当。
嘘偽りなく他意無く、優しさのつもり、だったわけだ。
「………あぁ、うん、良くわかりました」
そう、良く分かった。
手を握った後、献立を聞くようなあれこれも、それならば納得がいく。
ようするに、破廉恥で隠れていただけで、幸村は天然たらしか。
一連のあれを意図せずやれるとは、逸材すぎる。
あまりの事実に逆に感心していただが、それにしても未だ根本は聞けていない。
どうして、いきなり優しくしようなどと思ったのか。
けど、その答えは既に聞いているような気がした。
どうしよう、この人。
なんだか、本当に困ってしまいながら、それでも抑えられなくて。
は幸村に聞いてみる。
「…あの、幸村さん。幸村さんが私に優しくしたいのは
私が、好きだからですか」
にとっては重要な、非常に重要な問いかけをすると
幸村はぼっと顔を赤くして、その後ぶんぶんと首を横に振る。
「言えぬでござる!!」
「………え、あの時あれだけ言っておいて?」
一層呆然としてしまう。
あの告白も同然のことを言っておきながら、否定出来ると思っているのだろうか。
厚顔も甚だしい。
そう思うの心中はさすがに分からなかっただろうが
幸村もまた同じ出来事を思い出したのか、更に顔を赤くして後ずさる。
「あ、あ、あれは、まだ自覚していなかったでござる。
あの時には大変なご迷惑を殿に、ではなく!
政宗殿に相談に乗ってもらい、某は、決めたのでござる」
「なにを」
「殿は、残ることを決めてしまったのでござろう」
言う幸村の声は段々と声が大きくなってきていて
もはや半ば叫ぶような音量になってしまっている。
内容よりも先に、は階下に居る人間たちが気になって、人差し指を口に当て、しっと言った。
すると、幸村は自らの口を両手でふさいで、そろそろとした声で続きを話し始める。
「残ることを、殿が決めたのならば、某はそれを尊重したく思う。
殿は、我らに返しきれぬほど優しくしてくださった方。
他者に対して優しくするということは、譲ることが多いということでござろう?
ならば、殿は譲りっぱなしではないか」
「そういうわけでも、ないのですけど」
「しかし、譲っておらぬ、ということは無かろう?」
反論の言葉を持たずに、が黙りこむと幸村は微かに笑う。
その笑みは随分と大人びたもので、あぁ、こんな笑い方もできるのかとはただ思った。
「だから、ゆえに、な。殿。
某は、殿の決めたことを尊重したい。
そして、そういうことを言ってしまえば、某が抑えが利かなくなることは目に見えておる。
もしかすると、尊重したいと思っておっても、そなたが決めたことを
蔑ろにするようなことを、無理やりにしてしまうかもしれぬ。
それだから、言えぬのだ。分かって下され」
そして、その続きの言葉も随分と。
少年だ少年だと思っていた幸村の思いやりに、はぽかんと口を開けた。
譲りたいから、好きだと言わない。
それは、随分とまた。
なんというか、まぁ、うん。
この人は。
衝撃に身を震わせながら、それでも重ねては
「じゃあ、言わなくても良いですから、答えて。
私が、私だから、そういう風にするんですか?」
逃がさないように幸村の服を掴むと、彼は困り果てた顔でを見た。
けれどの中の何かに気がついたのか、それとも直感的に答えるべきだと思ったのか
彼は、こくんと、の問いかけにただ頷く。
「譲りたい?」
こくん。
「傷つけたくない?」
こくん。
「…優しく、したい?」
「優しくしとう、ござる」
上手くいかぬがと付け加えられた声は、には届かなかった。
今、は衝撃にうち震えていたので。
やっていられないったら。
両親を思い出す。
何一つとして周囲に優しさを見せてはくれなかった彼ら。
彼らのそれを恋の形だと思っていたのに、どうしてこの人ときたら
それを完全否定するようなことを言ってしまうのだろう。
そう思うと、自然と笑いがこみあげてきて、はこらえもせずに、ぶっと吹き出した。
「く、く、は、あはははは」
「ひ、殿…?」
「あはははは、優しくしたい、譲りたい、傷つけたくないですか、ははは、あはははは」
「な、わ、笑うことは無いではないか!」
「い、いいや、おかしくて笑っているのでは、いや、おかしいんですけど!」
「お、おかしい…!」
の言に泣きそうになっている幸村が可愛くて、はますます体をくの字に曲げた。
まったく、まったくこれだから、直感的な人間は!
は笑うしかなかった。
は幸村に両親のことなど一欠けらも喋っていない。
佐助には喋ったけれど、彼経由で伝わっていることはまずないだろう。
と、なれば。
彼は何一つ情報を持たぬ身で、先の発言をしたことになる。
そしてそれが、優しくしたくて譲りたくて、傷つけたくなくて尊重したいだと?
何一つ、正解にたどり着くための道は示さなかったのに、
この目の前の少年が、唯、一つきりのの柔らかい部分をぶん殴ってきたのだ。
これが、笑わずにいられようか。
あぁ、もう。
笑いたいような泣きたいような気分で、は目じりに浮かんだ涙をぬぐった。
といい、幸村といい。
直感的な人間ときたら、これだから!!
あぁもうという気分で、は床に突っ伏した。
あぁ、もういいか。
そう思う。
否定し続けるには体力がいって、それをは今ので面倒くさいと思うようになってしまった。
というより、そんな必死にしなくても、もういいか、馬鹿らしい。
にそう思わしめるだけの力が、今の発言にはあった。
たとえ、幸村がそうは思っていなくても。
意識せずに、何も考えずに発言された一言だから
きっと重いのだなと思いながら、は体を起してはぁ、息を吐く。
「うん、もう、いいです」
「な、なにがでござろうか」
「いえ、うん。だから良いかなと思って。
それだけまっすぐなら、こちらが回りくどいことを考えている方が阿呆らしい。
…私が、私だから幸村さんは私に優しくしたくて
それを、私は嬉しく思うし、気分が良い。
そういうことで、それだけで良いですよね」
今のも、は大変に気分が良かった。
幸村に優しくしたいと言われれば、好意を向けられれば、は嬉しい。
認めれば、気が楽だった。
あなただと、嬉しい。
あなただから、嬉しい。
まだ、そうだと言うこともできないけれど
無理やり否定するのは、やめてしまおう。
は、幸村に関してだけはそうしようと決めて、幸村に微笑む。
幸村はの言葉をすぐには理解できぬ様子であったが
じわじわと表情が崩れて、やがて驚きに目を見開いた。
「殿は某が」
は言おうとした幸村の唇に、そっと人差し指を当てる。
肯定は出来ないから、閉じさせる。
その代わりに、
「気分が良いんです。
あと、だから、優しくできればな、とも思います」
「某だから?」
「あなただから」
あなただから。
あなたが、特別。
唇にあてていた人差し指を外して、幸村の手に絡めると
幸村は、確かにそれは気分が良いでござるな、と絡めた手を強く握った。