真実、そのようにお思いだろうか。
言った幸村の声は暗くて、夜の凝りのようだ。
明朗快活といった言葉が良く似合いの彼のそれに、は戸惑いを隠せない。
何が、彼の様子をここまでにしたのだろう。
やはり、得た知識を生かすという点だろうか。
でも、なぜ?
分からないながら、躊躇いつつも幸村の肩に手を添えると
幸村はをそろそろと見る。
「…なにが、そんなに気にかかっておいでですか…?」
が問いかけるが、幸村はきゅっと口を結んだ。
私には話せないことなのだろうか。
思いながらも、はただ幸村が話してくれるのをじっと待つ。
彼にこのような表情をさせていては、いけない気がしたからだ。
沈黙が二人の間に落ちた。
かちりかちりと時計が時を刻む音だけが響く。
随分と、二人は長いこと沈黙していたが
やがて幸村がが引く気配がないのに、一度、ゆっくりと目を閉じた。
そうして、またゆっくりと目をあけると、重々しく口を開く。
「………某は、戦しかできぬ男にござる」
の眼を見て話しだした幸村の眼は、彼の声と同じように暗くて
は胸が痛むのを感じた。
いつものとはまた違う、痛みだ。
それだから、そんなこと、と気安く否定してやりたかったが
今の幸村にはそれを許さない何かがあって、は黙って話を聞く。
「………某は、お館様の大きさと、語る日の本の未来に希望を感じ
武田に生涯をささげる覚悟を、昔からしているでござる」
「…はい」
「けれど、某は思う。今は動乱の世だから良い。
某は、真田幸村として武田の若虎として戦で役立つことが、出来る。
ただ、平穏が世に訪れた時、果たして己はどれほど
武田信玄という主君のために働くことができるのか、と」
そう言われて、は即座に言葉を返すことは出来なかった。
安々と言葉を返して、それで幸村を慰められるわけがない。
そのの沈黙の間に幸村は更に「某は、所詮戦働きしかできぬ男故」
と言葉を重ねる。
その口調はまるで、戦が終わるときに死んでしまいたい。そういうようなもので。
それにはそれが意外でならない。
真田幸村という男は、そういった鬱々した感情とは
あまり縁がない男だと思っていた。
けれど、目の前の幸村の様子を見る限り、その見解は改めなければならない。
この真田幸村という男の今の様相から考えると、『ここ』に来さされる
ずっと以前からこの悩みは抱えていたのだろう。
「幸村さんは、どうして、そのようなことをお思いなのでしょうか」
それを、どうにかしてやりたいと思うと、自然と言葉が出ていた。
利己的な考えを思いつく前に、するりと。
常とは違う己の思考に気がつかずに、がじっと、また幸村を見ていると
彼はどこか戸惑った様子でを見た。
こういう展開はあまり予想していなかったのだろうか。
けれど、今度も許さずにまたじっと黙っていると
幸村は渋々、理由を話し始める。
「………殿は、普段の某をいかがお思いだろうか」
「…えぇと、はきはきしていて、体育会系…?」
「体育会系?」
「元気で、行動的って、ことです」
説明してやると、幸村はそうでござるか、とぽつんと言った。
「…某は、殿。元気が良い、はきはきしている。行動が素早い。
そう言われることが多いが、それは裏を返せば、思慮深く無く考えが浅いということにござる。
それだから、行動が早くできるのだ。無論、そうでないものも居るやもしれぬ。
だが某は、そうだ。
事実、某は周りが見えておらぬことが多い。
と、なれば。
某は別段、勉強が苦手なわけでもないが、そういった、悪くない頭を持っていても意味がない。
使えねば、どのように優れた頭脳を持っていたところで無駄だ」
きっぱりと、幸村は言った。
その言葉の内容は、は否定することは出来ない。
彼は直情的な部分があって、破廉恥と叫ぶような子で、少年らしい部分がある。
それは、この世界では微笑ましく見える点だけれども
元の世界の彼の身分では、欠点となることも多いだろう。
がそんな、ともなにとも言えず黙りこむと、幸村は察していたように苦く笑う。
「その通りで、ござろう?」
「それは、でも幸村さんは、十七歳で」
「某が、年若いことは理由にはならぬ。
あちらは乱世。世は乱れ…お館様が突然に儚くなることもあるやもしれん。
その時、某がお館様の意思を継げるかといえばそうではないのだ。
お館様の居る場所に届くには、力も、知恵も、思慮深さも、知識も。
何もかもが、足りぬ。
そのような某が、戦働きも出来ぬ場所で、お館様の下でお役に立てようはずもない。
なにせ、あの方の考えに全く届かぬのだから」
そして、幸村は影を落とす。
未来が見えるように、予言者のような顔で、言葉を紡ぎながら。
確かに。
天下を平定した後、ということは、乱れていた世の中の何もかもを
己の望むようにしなければならないということだ。
例えば、施政。
例えば、軍備。
例えば、組織。
そして、はこの少年がどの程度出来るかなど知らないが
その作業は、今の真田幸村少年には、さほど向いていない気がした。
思慮深く、全てを考え、上司の望む何もかもを含んで、かつ足りない部分を補正して?
それは、全ての仕事に必要なことだけれど、実際に行うのは酷く難しい。
特に年が若いものにそれを望むのは、は酷だと思う。
そういったものは、経験からくるひらめきだとか、そういうものも必要になってくるから。
だけれど、真田幸村は全てを『お館様』とやらと成した暁には
それをやらなければならないのだ。
その時が遅ければ良いと、は他人だから思うのだけれど
きっとそうもいかないのだろう。
飢饉、戦乱。
文字の上でしか知らない世界と、それを憂う人の心を想像して
あくまで想像でしかない、とはそれを切り捨てる。
、幸村は幸村。
所詮別個の人間で、心の内を想像しても全く同じ感情を抱くことは出来ない。
だから、は目の前で悩む幸村を相手に、今出来ることだけを口に出す。
「幸村さん、じゃあ、お勉強しましょうか」
「………今、やっておるでござるが」
一瞬、幸村は理解できないと言った表情を見せたが
それでも律儀にの言葉に反応をする。
その素直さが、より一層彼に助言してやろうと言う気を、に高めさせた。
「今、やっているのは算数とか、理科とか基礎知識ですけど
そうじゃなくて、幸村さんが帰ってしたいことについてのお勉強です。
平和になった後の国造りについて、だとか」
「それは…」
考えてもみなかった顔で、幸村はぱちくりと目を瞬かす。
こういう所が、思慮が浅いのだろうなとは思うが、それは心の中に留めた。
国造りと言うと、国主である政宗が思い浮かぶが
政宗にこういうことについて勉強したいと言われたことは無い。
が、おそらく彼の中では既に構想はあるのだろう。
だから、に頼んでまで知らなくても別に良い。
彼についてはそういった感じがする。
だが、幸村はそうでなくて、国造りについて勉強しようだなんて
なにも考えていなかった。そういう顔だ。
両者の違いは、背負っているものの違いなのだろうけど
それではいけないと幸村は思っているのだから、
差は、埋めてもらわなければ。
「ねぇ、幸村さん。考えるためには、何が必要だと思いますか?」
「…………………………疑問と、知識でござろうか」
長く間が空いて言われた答えは、円周率の時と同じく、やはり理想的だった。
それにははい、と頷いて
「そうですよね、疑問と知識が必要ですとも、何事も。
幸村さん、私は実際に国をどのようにして運営するのか、作るのか。
それを実感を伴って考えることはできません。
でも、こうなのだろうな、とか、こうすればよいのではないかなと
普段から考えることは出来ますし、ニュースを見れば、します。
国会中継だって見ますし。
暮らす人にとって、よりよい国とは何かとか
経済発展をさせるためにはどのようにすれば良いのか、とか。
そうするためには、何が問題で、どうすればその根本原因をなくせるのか。
…だとか、ね。
そして、その原因を無くす解決法を思考するためには
知識が必要で、知識をつけるには勉強をしなければ、ならない。
簡単な論理で、それが今、幸村さんに出来る
幸村さんの悩みを解決するための唯一だと、私は考えます。
…ねぇ、だから幸村さん、勉強して、帰りませんか?
私もお手伝いしますから」
向こうで知識を役立てられるのか分からないなら、
ここで考えて持って帰ってしまえばよいではないか。
逆転の発想だが、幸村に欠けているのは
もしかすると思慮深さでなく、こういう小狡さの気もする。
は少し思ったが、幸村が目を見開いた後
見る見ると表情を変えるのにその思考を打ち消した。
どうやら甘言に乗せるのに成功したようだ。
「某が、帰ってから問題を解決するために。
ここで、向こう側の問題を考え、疑問を持ち
それを解決するための」
「勉強を、ここでする」
熱っぽく言う幸村の言葉を引き継いで、は言う。
勉強をするということは、幸村があちらの世を思い出して
見渡し、問題点を考えねばならないということだ。
即ちそれは、視界を広げて色々な角度から物事を見なければいけないということで。
幸村が言う、思慮の浅さについても
多角的な視線から物事を見るということを学ぶことで
いくらか解消してくれればと思うが、まぁそれは告げない。
そういうことは自分で気がついたほうが良い。
社会人も三年目になると、後輩を指導する機会もあるわけで
その経験に裏付けされたやり方で、は幸村を帰るまでの間
すこーしばかり教育することを、今決意したのだった。
だって仕方がない。
真田幸村が夜の凝りのような表情をして、戦働きしか能がないというのが
はひどく気に入らなかったのだから。
「では、お願いしてもよろしいだろうか」
「はい、喜んで」
だから、しばらく思い悩んだ後、幸村が頭を下げた時には
は思い切りよく頷いた。
受けてもらわなければ、むしろ困る。
それに、ほっとして幸村が笑うので
はやはり幸村は笑っているほうが良いと思った。
そうして。
そのバカみたいな感想を否定するのも、そして利己的な理由をつけるのも
彼女はその時だけは、忘れていたのだった。