さて、以前話に出た勉強であるが、これは中々順調だった。
最初のうちこそ、読めない字、理解できない単語があるかと思って
いちいちついていたとそれに付き合っていただが
そんなものはすぐにいらなくなった。
四人全員が、大変手のかからない飲み込みの良い生徒だったからだ。
やはり上に立つ人間は、頭が切れるものなのか。
あっという間に小学生高学年レベルの問題まで到達した四人の様子に
はそう思わされた。
…まぁ、そういうわけで、ここのところは生徒の自主性に任せ
分からない問題だけ答えてやる、という具合の授業方針になっていたわけだ。
そうして、今日もまた迷える生徒が一人
洗い物を終えたばかりののところへとやってきた。
「殿、少しお時間よろしいだろうか」
「あ、お勉強ですね?」
声をかけてきたのが幸村だということに、は些かどきりとしたが
彼が手に持っていた算数の教科書をみて、表情を緩める。
もう、六年生の領域に入ったのか。
あっという間に進んでいっていることに内心驚きながら
はそれでどうしたんですか?と幸村を促した。
すると幸村は、教科書をぱらぱらとめくると
とある頁を開いて差し出す。
「ここが、分からぬでござる」
開かれたのは円錐の体積を求める部分だった。
確かに、図形問題というのは苦手な子が出てくるところだ。
幸村が詰まるのも納得して、は教科書を受け取って眺める。
「どの辺りが分かりませんか?」
「公式が、納得できぬでござる」
「…公、式…ですか?」
「なぜ、円を求めるのに3.14なのでござろううか」
なんたる…!
算数、数学の泥沼に足を突っ込んだ答えに
はまじまじと幸村の顔を見る。
そのに、幸村は迷子の小鹿のような表情で言うのだ。
「なぜ、3.14なのでござろう…」
「ゆ、幸村さん」
心せよ、深淵をのぞきこむとき、あちらもまたこちらを覗いているのだ。
多くのものがはまりゆき、そして出れなくなる底なし沼。
ただ教科書に書かれるだけの、数学の方程式への根本に対する疑問。
こういうものは、解決できれば大いなる飛躍につながるのだが
大抵は分からず、そして数学の底なし沼に飲み込まれ
やがて数学というものに拒否感を示すようになるのだ。
おぉ、なんたる。
しかし、幸いにして先達であるはその答えを知っている。
そして、はその根本への疑問を大変素晴らしいと考える人間なので
機嫌良く幸村の肩を叩く。
「幸村さん、大変良い、ご質問です。
説明しますから、ちょっと居間に座ってお話しましょうか」
「お、お願いするでござる」
そのの様子に若干引き気味ながらも、幸村は居間に移動し腰を下ろした。
それによしよしと頷いて、は鉛筆と紙を持ってきて
幸村の前に座り、はさて、と講義を始める。
「幸村さんは、円周率が3.14であるということに疑問を感じているようですが
3.14という数字、誰が決めたのだと思いますか?」
「………誰か、数学者でござるか?」
「まぁ、それもあながち間違いではありませんが
円周率というのは、自然界の法則です」
「自然界の」
幸村はの言葉にきょとんとした。
大変素直な良い反応だ。
生徒として、模範的な反応に、はますますにこりとする。
「そう、自然界の。
例えば寒ければ雪が降るように。太陽が昇れば明るいように。
自然と、円周率というものは3.14だったのです。
さて、円周率とは、なにか。
お分かりですか、幸村さん」
「円の面積などを、求むる時につかう数字ではなかろうか」
本当に、幸村ときたら理想的な答えを返してくれる。
はにこやかに頷いて
「はい、駄目です」
「駄目でござるか」
「駄目です」
まったく最近の教科書ときたら。
もとより載っていないのに、最近のゆとり志向のせいにして
はまったくやれやれと肩をすくめる。
「円周率とは、その名の通り円の周りの長さの法則の数字です。
その法則とは、円の周囲の長さは、直径の何倍であるか」
そこでくるりと、持ってきた紙の上に円を書く仕草をして、は幸村の様子を見る。
ついてきていなければ、もっと丁寧にとも思ったのだが
彼はふんふんと頷いているので、もう少し続ける。
は幸村に見えるように、持ってきた紙を丸めて、ころりと床を転がした。
そして、その紙の歪んだ円部分を幸村に良く見えるように差し出す。
「これね、歪んでるけど一応円です」
「うむ」
「今、この円の直径と、さっきしたように円が一周回るまでの長さ
即ち円周を比較すると、大体3.14の近似値が出るはずです。
そういう法則に気がついた人たちが、多角形と四角形の面積の比較だとかによって
直径に対する円周の率を計算で求め、そしてその結果によって
3.14という数値は求まり、そして広くつかわれるようになったのです。
それは誰かが勝手に決めたのではなく、自然的にそうだったのですよ。
だから、何故、も何もないのです。3.14に理由はあるが、意味は無い。
…お分かりですか?」
「なるほど…大変良くわかり申した…」
幸村がこっくりと深く頷く。
なぜ、3.14であるのか。
それは先達たちが自然界における法則を証明した結果で
この数値に落ち着くには割と結構な時間を要しているのだけれど
そこまで教える必要はあるまい。
無理やり計算によって円周の近似値を出していた時代を経
計算式による値、機械計算の結果。
様々な手法を経て、今は3.14だけれど、その理由だけ知っておけばよい。
そういう背景的なものは、自分で調べたほうがきっと面白い。
「ついでに講釈をすれば、何故円の面積を求めるのに
半径掛ける半径掛ける3.14なのか」
それにしても、なぜ、が嬉しかったから
はついつい求められても無いことを勝手に喋くりたてる。
「これは円を切り崩すと、円周の半分の長さの底辺と、円の半径の高さを持った
平行四辺形が出来上がるからです」
しかも、丁寧に円をかいて、それを手で切り刻んで
互い違いに合わせ、平行四辺形に似た図形を作るおまけつきだ。
それにははぁと感心する幸村に向かって、底辺と高さをなぞりながら
「よって、底辺掛け高さで、円の面積を求める、と」
「ますます、なるほどでござる」
なるほどなぁという顔をしている幸村は
がしたように、平行四辺形もどきの底辺と高さをなぞる。
「礼を言う、殿。おかげで良くわかったでござる」
「そうですか、それは良かった」
「いつも手間をかけてすまぬとは思っておるのだが
説明が分かりやすいものだから、つい殿に頼ってしまう」
「………あの、ちゃんの説明が説明じゃないって
素直に言ってもいいんですよ?」
おずおずと切り出すと、返されたのはいやそういうわけでは、という慌てた声だった。
それが、より一層あぁ、当たってるんだなとに思わしめる。
に対しては緊張してろくろく会話していないはずの幸村相手に
その僅かな対話内容で、これほどの応対をさせるとは。
妹の説明能力に、もはや戦慄を覚えるに
そういうわけではないのだ、と幸村が繰り返す。
「某が言いたいのは、説明を受けるならば殿のほうが断然分かりやすいというか
殿をないがしろにしているわけではなく。
そう、某、殿は物を教えるのが大変上手だと、尊敬しておるでござるよ!」
「……………えぇと、そんなに上手ではないですよ、多分」
ありがとうと素直にいえば良いのに
そんな返しをするは、多分可愛げがない。
にもかかわらず幸村は機嫌よく、そのようなことはありませぬと
力強く断言するから、は少し苦笑を浮かべた。
「まぁ、一度習ったところを復習しながらやるわけですから
上手に見えるだけかな、と。それに手間だとは思ってませんし。
使わない知識は錆びますから、思いだす良い切っ掛けですよ」
利己的な理由がほしい人生絶賛謳歌中のは
さりげなく、幸村がちょっと前に言った手間の部分を否定して
それから
「それに、教え方が上手いんじゃなくて、私は生徒が良いんだと思いますよ」
「某達が?買いかぶりでござろう」
「いいえ、頭が良いと、私は幸村さんたちを見て思います。
身近なものでない知識を勉強しているのに、六年かけて行う
学習過程をあっという間に終わらせているのですもの」
幸村を手放しに褒める。
これは、本当。
真実思っていたから、いつか言う機会があれば言おうと思っていた。
馴染みのないものを勉強するのが、どれほど難しいか
生まれた時から傍に数学も科学もあったには想像もつかないけれど
それでも、ここまでの学習過程をなんなく終わらせてきたのだから
褒めてやりたいな、とは思っていた。
出来れば、幸村だけじゃなくて佐助たちも褒めたかったが
今この場に居ないのだから仕方ない。
仕方がないが、頬をかぁっと赤く染めて
いやそのようなと口をもごつかせている幸村の様子を見て
胸がさざめいたので、は慌てて言葉を追加することにする。
「こうして質問に来るぐらい学習意欲も高いし
最初こそ言葉が分からず、右往左往してらっしゃいましたが、後は大変楽で
手のかからない生徒さんでしたよ、幸村さんたちは。
きちんと学習内容の理解もされてますし
これなら、きっと幸村さんたちが帰還されても
帰った先で得た知識を役立てられます」
言い終わった途端、空気が変わった。
赤くなっていた幸村の顔色がすぅっと冷め、彼の視線が下に落ちる。
いきなりのその様子に、が目を白黒させていると
幸村はのほうにぽつりと言葉を落とす。
「殿は、真実そのようにお思いだろうか」
その声の力のなさに、これは一体どういうことかと
はただ、目を見開いた。