コンパイルエラーが直らない。
どこが、悪いんだろう。
ミスがあるミスがあると、繰り返し指摘するコンソール画面を見ながら
はぼぅっとしていた。
そう、ぼぅっと。
会社の椅子に腰かけたままで、目は中空を眺めている。
「なにがわるいんだろう」
呟いて、は視線を落とした。
集中できない。
目はプログラム文を眺めているのに、頭の中に全く内容が入ってこない。
いつもならまるで日本語を読むようにすんなりと言語が変換されて
頭の中で意味をなすのに。
しばらくそうして固まっていただったが、これはらちが明かないと
おもむろに席を立って、トイレへとふらりと入った。

トイレの便座に腰かけて、はさてと、と思う。
自席でおおっぴらに苦悩するのもあれだから場所を移してみたものの。
「考えたくないなぁ」
口に出して、ため息をつく。
がこうしてぼんやりと集中できない原因、それは勿論幸村だった。
いや、特に何か言われたわけではない。
決定的な一言は言われない。
ただ、夕食後だとかに少し傍にいる時間が増えて、笑う回数も増えただけ。
だから、何も言えない。
決定的な一言さえあれば、断ることもできるのに
何も言われないから、ずるずるとそれを享受するしかない。
二十三年生きてきて、想いを寄せられたのはこれが初めてだった。
おそらく、自分の所帯じみた雰囲気が原因なのだろう。
男性とそういう空気になったことがない。
だから、上手くかわす方法が、には分からなかった。
いや、特別真田幸村という少年に、想いを寄せられるのが嫌なのではないのだ。
むしろ、それについては嬉し…
「いや、嬉しくないから」
思いかけて、慌ててそれを否定する。
思っては駄目だ。
今の自分はどこから崩れるかも分からない砂の城。
少しの失敗が、崩壊につながる。
はすぅはぁと息を吸って整え、思考を再開した。
どこまで考えたのだったか。
そう、幸村に好かれるのが、嫌なわけじゃあ、ない。
彼は大変好ましい人物で、も、うん、人間として彼を好いている。
だというのに、彼の想いをが嫌がるのは、両親に問題がある。
もっと言えば、自身に問題が、ある。
幸村に好意をよせられて、それでも何も思わないなら
彼のその想いは放っておいても良かった。
けれども、そういうことに慣れていないときたら
六つも年下で、破廉恥と叫ぶような少年に、告白紛いをされ手を握られた
それだけで、彼への意識が変わってしまったのだ。
そこは、認めなければならないと思う。
彼を見る目が変わってしまったのは、認めておかなければ
最善の対処が取れない。
六つも年下の男の子相手に異性を感じてしまったのだと、潔く。
「……………………なさけない…」
漢字で情けない、という気力も無かった。
情けなさすぎると言うよりも、うぶ過ぎる。
これでは幸村のことを笑えやしない。
は額に拳を付けて深く沈みこむと、はぁと息を吐いた。
…ともかく、は幸村を異性として一旦意識してしまった。
その彼から、好意をよせられている。
これはにとって由々しき事態だ。
は恋をしたくない。
その原因は両親にあって、駆け落ちをしたにもかかわらず
外に女と子供を作って家を出て行った父。
その父の行動に心を病んだ母。
放棄された自分たちの育児。
母の面倒を見、妹の面倒を見。
懸命に暮らしていたところに、おめおめと帰ってきた父親を
笑顔で迎え入れた母。
それだけでも傷ついたというのに、父が帰ってきたことを喜べないに向かって
「喜びなさいよ!お父さんが帰ってきたのよっ!
あんたのせいでお父さんがまた出ていったら許さないから」
大声で叫んだ母の後ろで、父は、どうでもよいものを見る目でを見ていた。
そのくせ、帰ってきて一年もたてば、二人は喧嘩ばかりするようになり。
その時に、は思ったのだ。
恋なんていらないと。
恋をして結婚したこの二人がこれなのだから、恋なんてろくなものじゃあない。
自分は、そんなものいらないと、強く強く。
の恋愛には、口は挟まない。
彼女の人生は彼女のものだ。
恋をしようが、なにをしようが、きちんと決めて
責任を取るのならば好きにすればいい。
ただ、は、恋をしたくない。
恋と直接結び付くのは両親で、両親は優しくなかったという記憶がの中では直結する。
恋を、したくない。
どうしようかな、と思って、は手を意味も無く組んだ後ぎゅっと目を瞑り
そしてきっと顔を上げた。
「無いことに、しよう」
そう、無いことにしよう。
「無いと認めなければ、無いのと同じだもの」
恋をしても、恋だと認めなければいい。
嬉しくても胸が跳ねても。
恋だと認めなければ、それは恋ではない。
実に詭弁らしい詭弁を胸の中で並びたてて、はこくりと一人頷く。
恋を認めないから、自分は恋をしない。
自分の身に迫った予感を確実に感じながら、は頑なな意思でそう決めたのだった。