気まずくなるかと思われた幸村との関係は、
佐助をたしなめた一件のおかげか以前通りだった。


………と、言っていいのだろうか。
仕事帰りの車中で、はハンドルを握りながら思う。
告白、のようなものをされた。(本人に自覚が無かったのであくまで紛いだが)
彼は、と話していると嬉しいのだと言った。
他の人と話していると胸が苦しいのだと言った。
それを聞いて、あの時赤くなったのは、初めてそういうことを言われて
恥ずかしくなっただけなのだろうか。
あの日あの時、赤くなった意味を、は少しだけ、考えている。




しばらく道なりに走っていると家の近くまで来た。
暗くなった家へと続く坂をかろうじてとらえて、はウインカーを出す。
坂を上り定位置に車を止めると、玄関の明かりがぱっと付いた。
あぁ、今日もなのか。
以前は無かった光景に、どこか嬉しいのは無視をして、はそれだけを思う。
思うようにする。
家までの短い距離を歩くと、冬の寒い空気に、の白い息が紛れた。
ひやりと冷たい玄関のノブに、一瞬体を震わせてが家に入ると
「良く帰られた殿」
「はい、ただ今帰りました、幸村さん」
にっこりと、微笑んだ幸村に迎えられる。
佐助が風邪で倒れた次の日から、彼はこうやって、帰ってきたを迎えるようになった。
以前は、顔を合わせればお帰りなさいと言ってもらえる程度だったのに。
…迎えに出てくるようになった意味は、深く考えない。
ただ、笑い顔で家に迎え入れられるのは嬉しいと思って
が笑い返すと、ほのぼのとした空気が玄関に流れる。
「外は寒うござったか」
「はい。今日も寒かったです。マイナス一度でした」
「確か、零度で水が凍るのでしたな」
「えぇ、良く勉強したことを覚えてらっしゃいますね」
玄関の鍵を、喋りながら内側から閉めると
やはり金属部分は冷たくて急速に温度が奪われる。
それにぶるりと震えると、いかがなされた、と幸村から声がかかった。
「いえ、少し冷たかったもので」
大したことじゃあないと返して、靴を脱いで玄関を上がると
ふと、自然な動作での手が取られる。
それにえ、と思う間もなく、の手は、幸村の手の中にすっぽりと収まってしまう。
ぎゅうっと握られた指先は、じぃんと熱くて
思わずあったかい、と零した後、ははっと我に返った。
「な、何してるんですか、幸村さん」
「指先がかように冷たくなって。冷えてしもうておる」
「それは、自分でもわかってますから」
何をしているのかの答えには、全然なっていない。
慌てて幸村の手から、己の手を引き抜こうとすると
もう片方の手で手首がつかまれ動きを封じられた。
殿、まだ温まっておらぬ」
咎めるような物言いで言われた言葉に、は絶句する。
一時接触が苦手な少年が、こんな飄々とした顔で。
まだ、温まっておらぬ?
…誰だろう、これは。
呆然と幸村の顔を見る
それは幾日も同じ屋根の下で暮らした、真田幸村という少年の顔に相違なかったが
の知る真田幸村と、これは違う。
彼は、こういう状況に陥ったら顔を真っ赤にするはずで。
そういう、年よりも下に見える行動が、可愛らしいとは思っていたのに。
今目の前にいる少年は、ごつごつとした手での手を
全く平静な様子で握っている。
指先が温い。
下がっていた体温が上昇したことを意識すると
自然と握っているほうの手の感触も伝わってくる。
固い手。
固い手のひら、長い指。指先はやはり固くて
の手よりもよほど大きい。
握っている人の顔を見ると、真田幸村は何を考えているのか
今のには分からぬ顔をして、の指先に目を落としている。
それが知らない男の顔に見えて、は思い切り手を引き抜こうとした。
が、出来ない。
当たり前だ、手首を握られている。
ただその代わり、幸村が顔を上げてのほうをまっすぐに見た。
殿」
「は、い」
「顔が真っ赤でござる」
ゆるやかに手首をつかんでいた手が離れる。
同時に、握っていた手も。
指先をかすめる冷たい空気に、は手をぎゅっと握りこんで胸元に引き寄せた。
「なん、なん…」
なんでこんなことを。
問いただしたいのに言葉がうまく発せられない。
顔が熱くて、真っ赤になっているのだと、頭の隅の冷静な部分が思ったが
それがまたの羞恥を加速させる。
ただ、そのの様子を見て、原因の幸村はひどく幸せそうに、笑んだ。
そしてその顔のまま幸村は
「ところで殿、今日の夕餉は何でござろうか」
ごく普通の声色で発せられたそれに、はかくんっと顎を落とす。
夕餉?ご飯?さっきの空気の続きで?
疑問が頭を猛烈な速さで通り抜けていくが、かといって先ほどのあれに戻られるのも困る。
「今日は、えぇと、チーズハンバーグとサラダと味噌汁とご飯です」
「そうか、楽しみにしているでござる」
答えると、幸村は機嫌よさそうに、の前から立ち去った。
それを、逃がされたと、感じたのはどうしてなのか。
しばらくの間、は呆然とそこに立ちすくんでいたが
いつまでもそうしてはおれず二階へと上がる。
すると、そこには佐助がいて、こちらと目が合った瞬間に
ご愁傷さま、とでも言いたげな顔をされた。
「………佐助さん、あれは、あれは…」
どうにも騒ぎが聞こえていたらしい保護責任者に
あれは何だと問いかけると、彼もまた幸村の豹変の答えなど
知らないようで眉をしかめる。
「俺様だって知んないよ。ちゃん、なんかやったの?」
「いえ、特別、なにも…」
首を横に振って、佐助の問いかけを否定しかけて
それからはことんっと、動きを固める。
心当たりは、あった。
「…政宗さんに」
「竜の旦那に?」
「幸村さんが滝行をした日に、胸が痛いっていう話をされて。
困ったので、政宗さんに聞いたらいいんじゃないかって
ちょうど良く現れた政宗さんに全部投げました」
「うわ、本人に直接言っちゃったの旦那っていうか
ちゃんも竜の旦那とか直球で答え教えるの普通分かるでしょ。
いや、驚いたんだね、うん。そりゃあ仕方ない、しかたないけどそれって」
自業自得って、言うんじゃない?
飲み込まれた言葉の続きが分からぬほど阿呆ではない。
はその場にしゃがみこみたい欲求を必死に我慢して
なんとか直立の姿勢を保つ。
だって、なんて答えていいのか分からなかったんだもの。
今もどうしていいのか分からないのに。
困惑を隠せず、ただ立ちすくむばかりの
佐助も、困ったなぁという表情を浮かべる。
ちゃんは、恋愛ごと苦手?」
「………出来れば避けたいとは、常日頃から思っていました」
「あー旦那と一緒だったんだ?」
「………はい。幸村さんは、なんだか、今は違うみたいですけど」
あの夜の沈んだ声を思い出す。
病気ではないかと疑っていたあの少年の心に
どのような変化があったのか、は知らないけれど。
握られた手の指先をこすり合わせて、両親のことを思う。
恋は苦手だ。
両親を思い出す。
自分のことばかりで、相手を慮ろうともしないあの人たちを
は切り捨てた。
だから、は恋をしたくない。
相手を慮れなくなるのは嫌だ。
いや違う。
両親と同じになりたくない。
こちら側なんて、いいや、相手のことさえも
一つも気に掛けなかったあの人たちと同じは嫌だ。
心の底にある小さなトラウマに、一つため息を零して
は指を温めた手のひらの感触を忘れるよう努めた。