和室から出ると、玄関を幸村が上がってこようとしているところだった。
昨日の今日で、どういう顔をすればいいのか分からないではあったが
一応平静を装って、どこかにお出かけだったんですか、と問うてみる。
「いや、外で少し体を動かしておっただけでござる」
そう言う彼の姿を見て、はおや、と首を傾げた。
いつものTシャツ、いつものパーカー、その上からカーディガン。
一枚多くなってる!
驚きのあまり、は一歩後ろに下がった。
どれだけ、厚着をしたほうがいいんじゃないですか?
と言っても聞かなかった幸村が厚着を…。
あからさまに原因は、昨日怒ったせいである。
基本的に、素直で良い子なのよね。
他人の言った言葉に耳を素直に貸すというのは、なかなか出来ることではない。
は幸村の素直さには、日々感心するばかりだ。
しかしそれにしても。
は幸村の様子をうかがう。
昨日の今日で、佐助はああだというのに、やはり幸村は元気そのものといった調子だった。
「…幸村さん、あの、体調とかどうでしょうか」
「体調?すこぶる元気でござるが」
この通り、と腕を振る幸村はどう見ても健康体だ。
佐助が体が弱いということもないだろうから、やはり、幸村は人一倍頑丈だということなのだろう。
…は与り知らぬことではあるが、武田での彼の日常を知ることができたのなら
きっと彼女はあぁ…と、力のない声で納得してくれるだろう。
武田名物師弟殴り愛。
…あれをやれる人間が、真冬に川で滝行(矛盾している)をやったところで
風邪をひこうはずがない。
「ところで、殿。佐助の様子はどうであろうか」
「あぁ、今はおかゆ食べさせ終わったところです。
熱は、そんなに高熱というほどでもないけど、といった感じですね」
「そうでござるか…」
がしがしと後ろ頭をかく幸村は、自身の行動が引き金となって
佐助が風邪をひいたのを気にしている様子だった。
それに対して、はいつもながら良い上司だなと、感想を抱く。
部下を気にして、目を配って、心配をする。
たまに振りまわしてもいるようだが、佐助を見ている限りでは
部下にとっては、それも上司の愛すべきところであるようだ。
もう一度、己の上司と比較して、は真田幸村は良い上司だと思う。
「寝るようには言いましたけど、今ならまだ起きていると思いますから
お見舞行かれても大丈夫だと思いますよ」
「いや、上司として命じて休ませたのだ。
上司である某が顔を見せては、佐助も落ち着けなかろう。
申し訳ないが、殿、改めて佐助の世話を頼んでも良いだろうか」
こういうところが特に。
普段は微妙に空気が読めない部類に振り分けられるのに、
仕事となればこの気遣い。
部下を気遣い、部下を世話するものを気遣い…。
「…幸村さんは、良い上司ですよねぇ…」
だから、は佐助を羨んで思わず漏らした。
その言葉に、幸村は驚いた顔をした後、かっと顔を赤くする。
「な、殿、なにを」
「いえ、佐助さんは、気遣われてるなぁという話です」
「部下を、いや、それよりも先に、佐助を気遣うのは某にとって当然のことでござる」
「そうですか」
「うむ、戦場ともなればそうも言ってはおれぬが、幸いにして今は平時。
そのようなときに佐助に無理をさせるほど、俺は非道ではない」
俺、と言った幸村の一人称は、本心ゆえに思わず素が出たと言ったところだろうか。
冷静にそう分析して、はそうですよねぇと頷く。
この人は、佐助を大事にしている。
だから、佐助も幸村が大事なのだ。
根本で、忍びと主人というところを超えて仲の良い主従に
は佐助の主が幸村で良かったと思った、心底。
体調の悪い時ほど、本人の素が出るものだが
まったくもって、佐助は危なかしい。
しっかりしている、しっかりしていないではなくて
もっと根本的な人間としての在りようの部分が。
平時でも主に命令されないと、熱があるのに休みもしない。
主以外を常に疑い続け、試し続ける。
それを当り前のように行う佐助が、
「忍びって、大変なんですね」
しんみりと漏らすと、全く。と幸村が頷いて玄関から上がる。
「戦場では致し方ない場面もある。某とてお館様のためなら命を投げ出す所存。
だが、日常においてまで自分を蔑ろにする必要もないと
昔から再三言っておるのだが、聞かぬのでござる、佐助は」
そして、幸村は玄関から上がった後、まっすぐに和室のふすまの前に立った。
先ほどは気遣って、見舞うのは遠慮しておくと言ったというのに
彼は自分の声が室内に届く位置にわざわざ来た。
わざわざ和室のふすまの目の前に来る意味。
………よっぽど、体調悪いことを隠そうとしたのが
腹に据えかねたのだろうな…。
その意味を読み取って、は満面の笑みでそうですね、と幸村の言葉に頷く。
その怒りには、も大変同感だったからだ。
「見ていればわかります。佐助さんは、聞かないでしょう。
幸村さんがこんなに佐助さんを大事に思ってるのに」
「うむ、全く。殿は良く分かってらっしゃる」
「先ほども言いましたけれど、見ていればわかりますよ。
佐助さんも、自分をもっと大事にしてくださるといいんですけど」
「まぁ、佐助は幸いにして某の忍びゆえ。
いざともなれば、命令をすることができるが」
「本当は、そうじゃなくなくなれば良いと?」
「他国ではそうではないようだが、武田では忍びにある程度の自由を許しておるのです。
それだというのに、佐助は許される範囲のことでもしようとはしない」
「まったく、手のかかる人ですね」
「まったくでござる」
「幸村さんは、佐助さん大好きなのに」
「うむ。某は佐助を兄のように思うておるが、殿こそ、佐助のことは割と好いておろう?」
「えぇ、この家にいる限り、皆私の子どもみたいなものですから。
それでも佐助さんのことは、特に好きですよ、息子として」
「そうでござるか、それは良かった。
ここにいる間は、存分に可愛がってやって下され。
佐助もそれを喜ぼう」
「えぇ、そうします、ありがとうございます、幸村さん」
「やめて、なに、いじめ?!旦那とちゃんで俺いじめなの?!
ねぇ、俺様体調悪いって分かってる?!」
小声でも拾えるであろう声を、わざと大きくしてやって
にこにこと笑いながら、間無し、ノンストップで話してやっていると
予想通りふすまががらりと開いて、パジャマ姿の佐助がまろびでてくる。
それには幸村と二人、笑顔を向けて
「おぉ、佐助。調子が悪いと自分で言うのなら
ゆっくり寝ているがよい」
「駄目ですよ、佐助さん起きちゃあ。布団の中に入ってないと」
「いや、あの状況で俺に布団の中にいろってかなりの拷問じゃない?
ていうか、わざと聞こえるようにいってたでしょ、あんたら」
「佐助さん、今のは私と幸村さんの好意の表明ですよ。
いじめだなんてそんな」
両手を胸の前で組んで、人聞きの悪い、と
悲しそうな笑みで僅かに首を傾げると幸村が全くだと同意する。
それに佐助が「え、ちょ…なにこれ。旦那と大将以上の性質の悪さじゃないの、この組み合わせ…」
と、愕然とした面持ちで崩れ落ちるまで、後二秒。