「幸村さん、着替え中に入れますから」
「あ、いやっ…かたじけない」
ノックを二回。
脱衣所に誰もいないことを確認してから、扉を少しだけ開けて
中に着替えを差し入れると、慌てた返事が中からあった。
羞恥を孕んだその声に、ふと裸事件が頭をよぎったが、よぎらせたままなかったこととする。
特別どうということは無かった、うん、無かった。
「佐助さん上に居ますから、お風呂上がったら二階に来てくださいね。
次佐助さんいれさせますから」
「分かり申した」
自分の頭の中から、浮かんだものを抹消させて
が幸村にお願いをすると、幸村は風呂場の中から分かり良い返答をする。
その答えを聞いて、見えもしないのに一つ頷くと
は脱衣所への扉を閉めて、二階への階段を上る。
すると見える居間のソファーには、布団に丸まった佐助がぼんやりとしていた。
ちらりとこちらを見た佐助と目があったが、
彼の近くに行くのではなく、素通りしては台所に向かい白湯を作る。
それを佐助に渡してやると、ありがと、といつも通り軽く明るく礼を言われた。
帰ってきたときには、声が震えていたから大分温まったようだ。
声の調子からそう判断して、は気になっていたことを問いかける。
「なんで、幸村さん滝行なんかしにいっちゃったんですか」
「んー青春の情動?」
「…なんですのそれ」
小首を傾げて言う佐助の答えは、あいまいで抽象的だ。
難しいことを聞いた覚えはないのに、話をそらされた。
そう感じたは、思わず半眼になるが、佐助はゆったりと手を横に振る。
「あー言っとくけど俺のじゃないよ、旦那のだよ」
「佐助さん、青い春って歳でもないでしょう」
「あはー」
どうみても二十過ぎていて、青い春もないだろうに。
全くこの人は。
詳しく説明する気はないよ、と遠回しに言ってくる佐助に
視線がきつくなるのを止められないし、止める気もない。
素直にそういうことは出来ないのだろうか。
出来ないのだろうな。
佐助さんだもの。
瞬間急冷機のように怒りと呆れを即座にが鎮火させて
肩をすくめると、とんとんと階段を上る誰かの足音が聞こえてくる。
そちらへ視線をやると、風呂から上がった幸村が二階に上がってくるところだった。
「佐助、あがったぞ」
「あー」
「………」
………頭びしゃびしゃのまま。
びっしゃびしゃだった。
本当にびっしゃびしゃだった。
タオルはかろうじてひっかけているものの、ぽたりぽたりと水滴が落ちている。
いや、良く見ると、前髪の辺りは拭けているのだが
ちょろりと長い後ろ髪が、全然拭けていない。
そこから水滴が、ぽとり、ぽとり。
床に滴り落ちている。
「…お、俺様風呂入ってくるー」
「…幸村さん」
空気を読んで退散する佐助は、あとで幸村の教育について
問い詰めることとして。
問題の幸村を、名を呼んで手招くと
彼はびくりと体を震わせ、緊張した面持ちでこちらにきて、
―ぺたんと目の前に正座する。
まるきり怒られる前の子どもの態度、しかもごく小さな子どものそれに
は怒気がしぼんでゆくのを感じた。
本日二回目の怒るタイミング逃し。
一度目は仕方がないと諦めた。だが、二度目のこれは
「………幸村さんが得な性格なのか、それとも私が甘いのか…」
怒る気がうせたは、手を伸ばして幸村の頭のタオルを掴んで、わしわしと髪を拭いてやる。
本当は、説教のあとにしようと思っていたのに。
「………まったく、駄目ですよ、ちゃんと乾かさないと。
いつも、拭いてないんですか?それとも今日だけ?」
「佐助にも拭けといわれるが、某は、拭いているつもりなのだ…。
拭けてないのでござろうか」
「いつもなんですね。後ろ髪が全く拭けてないんですよ。
後ろもちゃんと拭いてください。風邪ひく元です」
「某、風邪はめったとひきませぬ」
きりっとした顔で言うならまだしも、ぱちぱちと目を瞬かせて幸村が言うものだから
は怒れもせずに、子供をたしなめるような言い方で
「そうやって過信してると、駄目なんですから。今回みたいな時は特に。
向こうはこちらほど医療発達してないから
今よりもよほど、風邪は万病のもとでしょうし、
こっちはこっちで、保険利かないんですから。
十割のうちの三割だけ、普通は負担しなくて良いんですけど
保険って言うものに加入してないと、全額払うことになるんです」
「む…以後は気をつけるでござる」
お金の話をした途端、幸村の顔が神妙になる。
他人の金で胡坐をかけない、健全な精神は好ましい。
「あと、お金だけじゃなくて、薬も。
飲んで大丈夫なのかな、とか思いますし。
とにかく、気をつけないと」
幸村のその態度に、少し機嫌を上向かせながらはさらに言葉を重ねる。
「重ね重ね、申し訳ござらぬ」
すると、幸村は実に素直に頭を下げた。
基本、素直で良い子なのだけど。
背の高い幸村の、普段は見えないつむじを見ながら、は眼を細めて
「もう、しませんね?」
「もうしませぬ」
「なら、いいんです」
ぽんぽんっと、タオルごしに頭を叩いて、おしまいの合図をすると
幸村が顔を上げる。
そのまままっすぐに延びるかと思った背筋だが、あるところでぴたりと幸村の動きが止まった。
「水滴が」
それに首を傾げる間もなく、するりと手が伸びてきて、の目じりの辺りを拭う。
壊れ物を扱う手つきで水滴は拭かれ、最後に親指の腹がなするように押し付けられる。
教えてくれれば、自分で拭いたのに。
手が離れた後でそう思うが、まさに後の祭り。
にできたのは、ありがとうございますと礼を言いながら
拭われた辺りを触ることだけだ。
なんとも言いがたい空気が、二人の間に流れた。
「そういえば、えぇ、そういえば。
どうして、滝行なんですか?」
微妙に耐えがたく、落ち着かない沈黙に、は空気を変えるべく話題をふってみる。
佐助に教えてもらえなかった問いを、今度は本人にぶつけてみると
彼はきょとんとした顔をした。
「どうして、とは」
「いえ、そんなこと、来てから一度もしていなかったのに、なぜいきなりそんなことをしたのかと」
「…精進が足りぬと思ったゆえ」
「あの、化け物に関して?」
「いや」
いつも明朗快活な真田幸村にしては歯切れ悪く、そこで一旦切って
幸村は自身の胸に手を当てた。
その仕草が何を意味しているのか分からず、黙ってみていると幸村が顔を上げる。
その表情は薄暗く、瞳は真剣そのもので、知らず、は息をのんだ。
「殿を見ていると、落ち着かぬのでござる」
そして。
そのまま彼が発した思いがけない言葉に、が口を開ける。
そんなの目に目を合わせて、幸村が射抜くような視線で
こちらを見ながら、話を続ける。
「笑いかけられると、苦しくなるし、他のものと話しておれば胸が痛む。
最初は病気を疑ったが、佐助にこれは病気かと問えば、あやつは病気ではないと。
そうはっきりと否定され…病気でないならば、これは某の、精進が足らぬせいだろうと。
原因はわかりませぬが、某の心が弱いから
こういう不甲斐ない具合になるのだと。
そう思い、滝行を決意したでござる。
しかし、殿にご迷惑をかけるとは…某は、某の浅慮を恥じる。
しかもあまつさえ、このように面倒をかけているにも関わらず
こうして近くにいられるのが嬉しいと思う心すらあるとは…
本当に、お館様がここに居られれば、いや、居られずとも、いくら叱られてもすまぬ」
悲痛ともいえるような声で言われた内容。
その内容に、は開けていた口をますます開ける。
…本人は真剣なようであったが、それがより一層、の驚きを大きくしていた。
沈黙が二人の間に落ちる。
…………いや、何を言えと。
ははっきり言って、目の前の少年が言った言葉の内容に
驚愕し混乱している。
何か言おうにも、頭が全く回らない。
―あの人が笑うと胸が苦しい。
―あの人が他の人と話していると胸が痛む。
………………それは、うん。
その「あの人」が自身でなかったなら、はっきりと。
そう、はっきりと恋だと言ってやるのだけど。
全く真剣な目をして、病気でないなら精進が足りないせい。と
きっぱりと断定してしまった少年を見据えて、はどうしようと、ただ思う。
聞くんじゃなかった。
心の底からの後悔を抱いて、ついでにまさに青春の情動…!と
遠回しではあるが、きちんと答えを教えてくれていた佐助に心の中で平謝りする。
佐助さんうそついてなかった!
そこまで考えて、ふと、佐助に病気ではないと言われたと
言った幸村の言葉を思い出して、うわぁと思う。
うわぁ、佐助さんこれ聞かされたんだ。
それはさぞかし困っただろう。
そう、今の自分のように。
現実逃避しかけていた思考が、一周回って戻ってきて
現実をに直視させる。
この状況、どうしよう。
どうやって逃げれば、もとい終わらせればいいのか分からない。
許されるのなら突っ伏したいような心持だったが
なんとかうつむく程度でとどめたの目に、
真っ赤に染まった自分の指先が飛び込んでくる。
―ただ、男だと意識をしたこともなかった子に
いきなり、面と向かって、こういうことを聞かされて、しかも対象が自分で。
ただ、ただ、困惑しているだけだと認識していたのに。
その認識が崩れる証拠が目の前にあった。
赤い。
指先が、手の甲が、赤く染まっている。
そういえば、頬も熱くて。
どこもかしこも照れて赤くなっているのだと、自分でも分かっていなかった自分の状況を
ようやくそこで理解したは、恥じて指先を掌で覆って隠した。
…その掌も、赤いのだけれど。
「殿?」
名を呼ぶ幸村の声に、知らず肩が跳ね上がる。
あぁ、動転している。混乱している。
思うけれど止められない。
なぜ、赤くなんてなっているのか。理由は幸村の言葉以外ないのだけど
はそれを否定したい。
違う、違う違う。
赤くなんてならなくていい。
照れてなんてない。
男の子なんて、意識しなくていい。
嬉しいって言われたのが、嬉しいなんて、違う。
すぐに顔を上げるつもりが、自分の状態を自覚したは
全く顔が上げられない。
そして、一向に顔を上げようとしないのその様子に
いぶかしんで名を呼んだ幸村が、言葉を詰らせ肩を落とす。
「…某は、なにかおかしなことをいったのでござろうか」
「いえ、いいえ、それは、そんなこと、ない、ん、です、けど」
見るからにしょんぼりと意気消沈している少年に、慌てて否定するが
その言葉は頼りない。
「しかし、現に殿は困っておられる」
だから、幸村をごまかすこともできず、即座に否定が返される。
眉を下げて言う幸村は正しい。
は困っている。
こういうことに経験がない。
だから、うまくあしらえない。風呂場のときと同じでなかったことにしたいのに
今度は事故でなくて、真っ直ぐな好意が自分のほうに向いていて
…どう反応すればいいのか分からない。
うつむいて黙っているだけなのは、相手を傷つけるだけと分かっているのに
何を言えばいいのか…本当に、分からない。
いつもみたいに、母親のようと言われる態度でふるまおうとしても
こういうときに、どうすればいいのか。
しかし、尚も言葉を詰まらせるの様子に
落ち込んだ幸村の表情が更に深く落ち込む。
それを見た瞬間、なんとかしなければと強く思ったの脳裏に
とある人物が浮かんだのは、天啓だったのか、それとも悪魔の仕業か。
「まさ」
「?」
「政宗さんが、そういうの得意らしいですよ!」
「AH?」
…そして、女子高生のようだと以前が思った人物の名を叫んだ途端
噂をすれば影の言葉通り、彼が二階に姿を見せたのも。
また彼女にとって幸運だったのか、不幸だったのか。
とりあえず状況の打破のみしか考えていないは、
助け舟(または人身御供)の登場に、パッと顔を輝かせた。
「…なに人が居ないときに、人に押し付けようとしてんだ?
何をかはわかんねえが」
「いえ、政宗さんが得意だって話をしただけです。押しつけようとなんてそんな。
ということで幸村さん、政宗さんに相談してみたら良いんじゃないですかね
なにをしたらいいのか、多分指針を示していただけますよ」
「だからなにがだよ。あとあからさまに押しつけてんじゃねぇか」
「誠でござるか政宗殿!某、ぜひご相談したく!」
「だからなにがだよ!人の話し聞け」
「ありがとうございます、政宗さん、ところで何の御用ですか」
頼むから引き受けてくれと、目で語ると
彼は非常に嫌そうに顔をしかめたが、家主相手にどうやら今回は譲ってくれるようだった。
「……OKOK…よくわからねぇが、あんたがいっぱいいっぱいなのは分かった。
引き受けてやるから、とりあえず飯は?」
「あぁ、はい。そろそろ作ります」
肩をすくめて苦笑しながら夕飯の催促をする政宗に、ふと時計を見ると
いつもの夕食の時間から一時間以上たっている。
明日に差し支えると、急いで立ち上がると、は政宗相手に
じゃあよろしくお願いしますね、と言い捨てて、急いで台所に立った。