音を立てて風が吹く。
風に舞い上げられた砂が目に入りかけ、慌てて目を閉じたが
次に目を開けたとき、目の前に居たのは幸村一人だった。
「あ、れ?」
右を見る、誰も居ない。
左を見る、誰も居ない。
前を見る、誰も居ない。
後を見る、誰も居ない。
前後左右見回しても、自分と幸村以外には、誰一人として見当たらない。
たちの姿は、影も形もなくその場から消えていた。
「あれ、え?」
「誰も、居らぬでござる…」
緊張感を孕んだ幸村の声に、も頷きながらもう一度辺りを見る。
…やはり、誰一人としていない。
「これ…一体」
夕焼けに赤い空の下で、自分が出した声はやけに細く響いた。
なんとなく、ぞわりとして思わず自分の手を掴んでしまう。
「皆、どこにいっちゃったんでしょう…」
それとも、自分達がどこかに来てしまったのか。
相変わらず遠い寺の門を眺めながら、ぽつりとが呟くと
「それは分からぬが」
幸村が顔をのほうへ向けて、指を階段の先へ指す。
「とりあえず…上るか下るかしませぬか、殿。
どちらかには、おそらく佐助達もいるはずでござる」
「あぁ、そう…ですね、えぇ」
こくんとはその幸村の言葉に頷いた。
もっともだ。
しかし、さて、上るべきか下るべきか。
昇っていて、こうなったのだから、出来れば下るべきだが
他の四人はその選択肢を選んでくれるだろうか。
……おそらく、選んでくれるはずだ。
愚かではないほかの面々の顔を思い浮かべながら、
が下りましょうと、声に出しかけたそのとき。
階段の、下のほうから、ひたり、と、音がした。
ひたり。
幸村にも聞こえたようで、彼は一瞬肩を跳ねさせると
顔を険しくして下に一瞬視線を向ける。
ひたり。
もう一度、音が聞こえる。
音は随分と遠くから聞こえる。
しかしそのくせ、大きく、はっきりとしていて、
根拠もないのに、この世のものではないようだとは思う。
ひたり。
音がする。
もう一度音がする。
わずかに近づいてきているような、印象を受ける。
いや、実際近づいてきているのだろう。
階段をひたりと音を立てて上りながら、何かが近づいてきている。
ひたり。
「一体、何の」
「分かりませぬ」
口から出した声は随分とかすれていた。
だが、それに返された声は硬くはあったがしっかりとしていて、はわずかに安堵を得た。
しかし。
ひたり。
また、音がする。
一段一段階段を踏みしめ、何かが確実に近づいてきている。
そう、近づいて。
背中が総毛立つ。
二度、近づいてきている事実を頭で考えて、それからようやっと当たり前の事実に思い至る。
このまま、近づかれてきたら、追いつかれてしまう。
何に?
音の主にだ!!
そのことを考えると、心臓に氷を打ち込まれたように体が冷える。
参拝客かもしれないとは、全くもって思わなかった。
ただの勘だが、音の主は、生きているものではありはしない。
そんな予感は全くしない。
断言できる。
断言する。
この音の主は生きていない。
赤い空、夕方、四時、五時。
この時間のことを、魔の者に逢いやすい時間、逢魔が時と、いうのではなかったか?
視界に嫌でも入る赤色に気をとられている間にも、音は響く。
ひたり、ひたり、ひたり、ひたり、ひ、た。
後ろを振り向いてはいけない。
振り向いてはいけない。
そこに何がいるのか確認してはいけない。
ひたりひたりと音を立てて忍び寄ってくるものに、心を奪われてはいけない。
だって、お前、それは。
「……上に」
近づいてくる音に、ごくりと唾を飲み込みながら、は声を振り絞る。
「上に、逃げましょう」
「…それしかないでござるな…」
逃げ場の少なくなる、上に逃げるという選択は、幸村は出来れば避けたいようだったが
鬱蒼と生い茂り、足場も悪い横の山道を見て、眉をしかめながら頷く。
ひたひたと響く音はまだ、大分遠い。
そのことに胸を撫で下ろしながら、幸村とがこつんっと上に上るべく
階段に足をかけたそのとき。
ぴたり、と、音が止む。
ひたひたと断続的に響いていた音が止み、場から音は一切消えうせた。
嫌な予感がする。
身を焦がしながらも、その場に留まっている訳にもいかず
幸村と顔を見合わせながら、はもう一段、階段を上った。
もう一段。
もう一段。
もう一段。
三段昇ったところで、
「音が」
幸村が後ろを振り返りながら、唇を動かした。
「止んだでござるな」
「えぇ…」
しかしそれでも、油断はならない。
距離を引き離そうと、どちらともなく早足で、階段を上っていると
また、ひたりと音がした。
ひたり、ひたり。
ひたり、ひたり、ひたり、ひたり、ひた、ひた、ひた、ひた
………………ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
「っっっ!!!」
突如として猛烈な勢いで音の感覚が縮まる。
心臓がきゅうっと縮こまり、思わずは息を呑んだ。
追いついて、来る気だ!
「幸村さん!」
「走るでござる、殿!」
階段を駆け上る。
しかし、走っても寺の山門は全く近づかない。
ひょっとしてこれも音の主が、と、疑問が浮かび上がってくるが
そんな考え事を悠長にしている暇はなかった。
足を前へと進ませ、懸命に走っても走っても
音の主は後ろからひたひたと猛烈な速さで追ってくる。
しかもその距離、感覚、先ほどよりも確実に縮まっているのだ。
追いつかれる、と、後ろ向きな考えがの頭を過ぎった。
いや、後ろ向きではない。
自明の理だ。
後ろの、音の主の方が足が速く、のほうが足が遅い。
ならば、追いつかれる、決まっている。
の運動能力は低い。
常人よりも低い。
に全て盗られてしまったのではと、揶揄される自分の身体能力を
今日ほど悔いたことは無いがしかし、後ろのひたひたという音は
がそのように自分の足ののろさを嘆いている間にも、確実に距離を縮めてきていた。
追いつかれたく、ない。
隣で走る幸村の顔も見れずに、は懸命に走る。
デスクワークばかりしていて、無いに等しい体力は、すでにつきかけていたが
ぜいぜいと息を荒げながら走る。
空の赤と、山の緑と、距離の縮まらぬ山門を視界に捉えながら走り走り走って、
…どれぐらい走ったのか。
全く変わらない景色からは、推測することも出来ないが
五分か、十分か、二十分か。
幸村と二人で、音に追われながら走っていたが、胸が苦しい。
喉に空気が上手く吸い込めない。
ぜぃぜぃと鳴いていた喉は、ぜっ…ぜっ…と途切れ途切れに鳴くようになっていた。
…あれ、もう、駄目かも。
ひたりひたりと一定の速度で追ってくる音に対して、
の足はよろよろと、最初よりも遥かにその速度を落としている。
追いつかれるのは、時間の問題だ。
追いつかれたらどうなるのかな、死んじゃうのかな。
何が追いかけてきてるんだろう。
でも人間じゃないよね、確実に人間じゃないよね。
あの、いつもの化け物でもないような気がするけど。
あぁ、死にたくないなぁ。
取り留めのない考えが、頭を満たす。
しかし、結論は一つだけだ。
あぁ、死にたくないなぁ。
ひたひたという猛烈な音を聞きながら、は一度固く瞼を閉じて、開く。
も心配だし、家のローンが実は後もうちょっと残ってたりするし
冷蔵庫の中にはろくに食べるもの入ってないのに、今日の晩御飯私が死んだらどうするのかしら
というか、洗濯物も、今日は溜め込んだままで出てきてるのに。
洗い物もまだしてないし、色々心配事は山みたいにあって。
…死にたくないのに。
しかし、けれど、もう、走れない。
靴擦れでも起こしたのか、痛みを感じ始めた踵や、上がりっ放しの息
の身体は、限界を訴え始めている。
死にたくは、ないんだけど。
だが、ちらちらと視界の端に入る、隣を走る人まで付き合わせるわけにもいかない。
「……ゆき、…むら、さん…」
「なんでござろうか!?」
切れ切れの声で呼びかけると、勢い込んで返事が返ってくる。
それに、はくっと思わず笑ってしまった。
本当は、もっと早く走れるだろうに。
のほうを覗き込みながら、の速さに合わせて速度を(意識的にか無意識にかは分からないが)
落として走っていた、この年下の男の子まで、につき合わせることはあるまい。
「ゆきむら、さん。…はしって、いいです…よ」
「走っているでござる!殿こそ」
「いえ、そうではなく…先に行って、いいですよ」
私足遅いですからと続けると、隣の青年は、愕然とした顔をした。
本当は喋るのも苦しいんだけど。
喉が渇きすぎているのか、張り付いた様に声がでないのを
無理矢理出しながらは続ける。
「ほら、お寺の住職さんを…先に呼んできて…くれたら、助かるというか。
私、もう、速く走れない」
「そ、そのようなことを言ってはならぬ!
弱気になれば、身体もそれに従うでござるよ」
「ふ、いえ、本当、もう、限界……だから、ほら…」
「しかし、某だけ先に行くなど!」
「だってほら…幸村さん…帰らないと」
帰りたいから、ここにいるんでしょう?
焦りを帯びた幸村の声に首を振った瞬間、よろりとよろけそうになる。
それを気合で持ちこたえながら、歩いているような、走っているような速度で
前に進んでいると、幸村がきゅっと拳を握ったのが分かった。
ようやく、先に行ってくれるのだろうか。
相変わらずひたひたと音が追ってくる状況の中で、奇妙に安堵を覚えただったが
そのの安堵とは裏腹に幸村は、ぎりっと歯をかみ締め
「御免!」
の膝裏に手を差し込み、軽々との身体を持ち上げた。
「きゃ?!」
「申し訳ないが、このまま走るでござる、殿」
「は、はし?!」
俗に言うお姫様抱っこの体勢だとが気がついたのは、幸村が駆け出してからだった。
ぐんっという『溜め』があってから、加速度的に周囲の景色が流れ出す。
「は、あ、え?」
その速さには目を瞬かせるしかない。
目の前でまるで車か何かにでも乗っているような、馬鹿みたいな速さで、景色が流れている。
ひたひたという音よりも、速いことなど言うまでもない。
それに、ぽかりとが口をあけている間に、知らず知らずひたひたという音は遠ざかり
…そして、気がつけば、ぽかりと山門が大きく口を開けていた。
と、幸村の目の前で。