「じゃあ、義子様。官兵衛殿の事頼んだよ」
これが、義子がきいた半兵衛の最後の言葉になった。
そうして、元就の最後の言葉も、こうだ。
「では、義子。官兵衛のことは君に任せることにするよ」
毛利元就、竹中半兵衛という己の理解者を立て続けに無くした
黒田官兵衛は、いつしか仕事のみしか執り行わぬ男となっていた。
食事もしないし、睡眠もとらない。
倒れることもしばしばであった。
けれど、彼はそれを止めようとはしない。
何かを思い出さないように、ひたすらに仕事に没頭する。
………これが。
これがまだ戦乱の時代であったならば。
このようにはならなかったと思う。
けれども、世は泰平の時代、なのだ。
彼が真剣に望んだ泰平こそが、彼を蝕む。
することが、無い。
だから仕事にすがるしかなく、官兵衛の目の前には仕事の山が積み上げられるのである。
…それを、義子が良しとしているかといえば、否だ。
いい加減諌めてはいたが、官兵衛が聞く様子がないだけ。
けれどもそれで諦めるということができるはずもなく
義子は今日も官兵衛の私室に向かい、官兵衛の肩を揺する。
「…官兵衛、あなたいい加減休んだらどうですか」
「断る。まだ仕事がある」
「それは、まだやらなくても良い仕事です。
期限は二カ月先です。休んでも構わない、そう思いませんか。
少しは休まねば能率が落ちますよ」
「私には必要ない」
「…ありますよ」
にべもない。
取りつくしまなく断る男に眉間にしわを寄せながらも
尚も手を伸ばすと鬱陶しそうにその手を払われた。
「…放っておいてはくれないか」
「そうもいきませんよ」
「何故」
「何故ってあなた。心配してはいけませんか」
「心配。お優しいことだ」
「友人を心配するのは当然でしょう。事実上夫なわけでもありますし。
…それに半兵衛殿にも、元就様にも頼まれました、あなたを」
…竹中半兵衛の名前と、毛利元就の名前を出すのは
彼らが死んで以来初めてのことであったが、それは劇的な変化を
官兵衛にもたらした。
いつもは文机から目を離しもせぬ彼が、こちらをゆっくりと向いたのである。
けれど、それは良い変化ではない。
彼の眼は淀み、鋭く細められ
それに気がついた義子が反射的に身を引こうとする前に
義子は床へと引き倒された。
「っ」
「頼まれた。相変わらず義子姫はお優しいことだ。
それで、頼まれた卿は私に何をしてくれるのだ。
慰めでもしてくれるのか、妻らしく」
陳腐な言葉とともに、体をなぞられる。
彼らしくもない。
けれどそこに混じる苛立ちの感情は本物で
義子はため息を押し殺して官兵衛の顔を見た。
理解者二人を亡くした人。
目的も果たした彼に、後に残るのは義子だけで
その義子に、どうしようもない気持ちをぶつけようとしている人。
これが有象無象であったのならば、義子も許さないが
これは義子にとって大事なものだ。
…ならば仕方ない。
ぶつけて解消できるならそれも良いだろう。
大したものでもないと、義子は決めて官兵衛の顔を見て口を開く。
「滅茶苦茶にしたいですか。
誰かにぶつけてどうしようもない気持ちを紛らわせたいですか、官兵衛」
「それで。是と言ったなら卿は付き合いでもしてくれるのか」
「そうですね。滅茶苦茶にしたいのなら、してください。
今脱ぎます」
「………正気か?」
「はい」
言って、義子は体を浮かして後ろ手に帯をほどく。
するりとほどけた帯を横において、義子は官兵衛にむかって
手を広げて首をかしげて見せた。
「じゃあ、はい、どうぞ」