8・勇敢なる決意

 

サムは、主人の言葉が信じられず、岩の上にぺったりとしゃがみこんで流れる涙の感覚すら分からぬままに泣いていました。サムにはただ泣くことしかできませんでした。すすり泣くその声は風の音によく似ていました。自分を取り巻く風が、同じように泣いているようで、サムはぶるっと身体を震わせました。今まで、サムの全てが愛しいその手によって手折られる可能性などないと信じていたはずだったのに、その全てが否定されてしまったのです。家に帰れという言葉には、確かにどこかにフロドの心が宿っていました。お前はここにいるべきホビットじゃない。暖かい部屋で、家族とゆっくりホビットらしく暮らすべきだと。
『でもそれは旦那もじゃないんですだか?』
サムは何度も何度も頭の中でそう問いかけていました。
『旦那は始めからこんなところに来るべきじゃなかったんですだ。でもそれが旦那の、ガンダルフ旦那の言うところの運命っちゅうやつなら、おらも一緒にいてもいいんじゃないですだか?』
サムはそう思いました。しかしフロドはそのことを否定したのです。もうこれ以上、お前を連れて行けない。フロドの目には、あの時確かにサムという存在に疲れた表情がありました。確かにサムは酷いことを言ってしまいました。
『それでもいつもなら・・・』
そう考えかけて、サムは頭を振りました。
『いつもならって考え方はここには使えねえんだ。ここは普通じゃねえんだよ、この馬鹿サムワイズ!それでも大丈夫だと、お前はここまでついてきたんじゃねえのか?それでも旦那をお守りして、それで目を離さずにどこまででもついていくんじゃねえのか?そうガンダルフ旦那に約束したんじゃねえのか?いいや、それだけじゃねえ。おらは旦那が好きで、旦那のためならどれほど辛い目にあったって最後まで一緒だと心に誓ってたんじゃねえのか?そりゃ、エルロンド様も誓いに縛られるなとはおっしゃってたさ。でもおらが思ってるのはそんなんじゃねえ。ただ、そばに、旦那のそばにいられたら、それだけでよかったんだ。旦那のためにできることが、少しでもおらの中にあるんだったら、それでおらはしあわせだったんだ。』
そこまで考えて、サムは首をぶんぶんと振りました。
『でもそれが、旦那には必要のねえことだったんじゃねえのか?サムワイズ・ギャムジー。旦那はそれがいらねえから、おらを返そうとなすったんじゃねえのか?そうだろう?だったらおらは、もういなくなるしかねえ。旦那のためにやったことはよ、全部余分なことだったってことなんじゃねえのか?旦那のお顔をみたか?そりゃ苦しそうだっただよ。おらがいるからそんなに苦しいなら、やっぱりおらはいなくなるしかねえ。それで旦那が少しでも苦しくなくなるんなら、おらは・・・おらは・・・』
そうしてサムは、一歩ずつ眩暈のするような階段を下りてゆきました。
 

階段を下りる恐怖は、サムの心を少しも紛らわせてくれませんでした。サムの心はひたすらフロドのことを考え、その最後の言葉を思い出させ、そしてサムを苛ますのでした。サムの足はその分用心深さを失い、何かにつまずいたかと思った瞬間に、サムの身体は下へ下へと落ちてゆきました。このまま全てが無に帰すのなら、それでもいいとサムが思った時でした。大きな衝撃が痛みとなって走りぬけ、サムの身体は地面にぶつかり、急に止まっていました。そして地面に転がったサムのすぐ手の届くところに、こんなことになってしまった引き金である、レンバスが落ちていました。

サムは全てを悟りました。ゴラムは食べず、これを捨てたのです。それもフロドとサムが眠っている間に。やはりサムの予感は正しかったのです。ゴラムがもっと悪人なら、どちらかが死んでいたかもしれません。現にゴラムはふたりの死を望んでいるのですから。でもゴラムは卑小な生き物です。自分では何もできません。それならばと、一番効果的な方法をゴラムは使いました。ふたりの気持ちを利用するのです。ふたりの互いを思う気持ちが強ければ強いほど、この計画は成功する率が高かったのです。指輪の力はどんどん強くなっていきます。それだけでフロドの衰弱は激しいのに、さらに心に負担をかけたのです。そして見事に企みは成功し、こうしてサムはフロドからこんな離れた場所へと、ひとりで取り残されることになったのです。サムは沸きあがる怒り――それはゴラムにであり、自分にでもありました――に顔を歪ませて、身体を震わせました。
『そうだ、お前のやらなきゃならねえことは、旦那を助けることだったんだよ、サムワイズ・ギャムジー!たとえ旦那がどう思いなさろうとも、たとえ疎まれようとも、おらは旦那と一緒に行かなきゃなんねえんだ。お前はそんな大事なことまで忘れちまっただか?お前が思っていたのはそんな程度のことだっただか?はじめに覚悟したことじゃねえか。おらがやりたいのは難しいことじゃねえはずだぞ。ただ、おらは旦那を、たった一人の主人をこの手で守ればいいだけだ。おらには世界も歴史も難しいことは分からねえ。でも、お前がそのすごいもんの流れの中で、たったひとつだけ守れるもんがあれば、それがおらがここにいる意味なんじゃねえだか?』
サムは感情がどっと頭に押し寄せ、それに流されそうになりました。また涙が出そうになりました。それをぐっと飲み込み、サムは一度目を閉じ、ゆっくり息を吸い込み、ふうっと吐き出しました。そうしてやっと現状を把握できる冷静さを取り戻しました。
『こんなところでうだうだ考えてる場合じゃねえだ。旦那が危ねえだ!!』
そうしてサムは落ちたレンバスを全て拾い集め、できる限り埃や砂をとりのぞき、なるべく元あった姿に戻し、大半の量を自分の荷物の中におさめることができました。そしてきっと崖の上をにらみました。
 

勇敢なる決意は、サムの足を信じられないくらい叱咤しました。高いところにいるという恐怖も、目的地への不安も、自分の身が危険だという恐れも、何もかも全てがフロドへの想いの前には意味を成しませんでした。休むことなく、眠ることなく、サムは登り続けました。空気が汚く薄く、頭が割れるように痛みました。足の裏から血が流れ、焼け付くような痛みがサムを襲いました。それでもサムは、足を動かし続けました。全て、フロドのためでした。

「シェロブの巣で」に続く。