13・指輪の力
モルドールの入り口から離れ、一同は山道を進んでいました。フロドとサムは進むうちに、自分たちがエフェル・ドゥアスの西に曲がっている道を行き、やがて円形の黒っぽい林の中にある十字路にさしかかるはずだと推測することができました。十字路の右に行く道はオスギリアスに向かい、真ん中の道はそのまま南に続いているということでした。そしてかれらが進むのは左に行く道なのでした。しかし今はその忌まわしい地も遠く、植物が茂り、川が流れ、その流れには魚も泳いでいました。
「さかなよ、さかな!」
ゴラムはそう言ったかと思うと川の中に飛び込み、魚を追いかけはじめました。
「おい、くさいの!あんまり離れるなよ!」
サムはゴラムがいなくなる可能性はまだ十分にありうると信じていましたので、川でぴちぴち跳ねる新鮮な魚を追いかけるゴラムに向かってついそう言ってしまいました。
「サム、どうしてそういうことを!」
「何がですだ?」
サムはフロドの言葉の意味が分からず聞き返しました。
「その呼び方をするんじゃない!」
その声には確かにいつもの優しさ――ゴラムをも気遣う優しさ――があったのですが、サムは他にも何かを感じて少しだけうろたえました。
「ですが・・・ですがフロドの旦那、あいつはそういうやつなんですだよ。あいつの頭ん中にゃ嘘とたくらみしかないと思いますだ。指輪ですだ、あいつはそれだけをほしがってるんですだ。あいつにはそれしかないんですだよ。」
するとどうしたことでしょう。フロドがぎらぎらとした光を目に灯し、サムをにらみつけ振り返ったのです。
「お前はあれがあいつに何をしたか分かってない。それに今もあれがどう影響しているかも知らないんだ。」
そしてサムの脇をすっと通り過ぎました。一瞬、フロドの目の光が弱まったように思えました。
「わたしはあいつを助けたいのだよ。」
「なぜです?」
サムはフロドの変化に驚きを隠せませんでした。どうしてゴラムのことばかり気にかけるのでしょう。どうしてフロドはサムの言うことを理解してくれないのでしょう。サムはそれが苦しくて仕方ありませんでした。しかしこの時は、ふたりのどちらも何かおかしかったのでした。そしてお互いを傷つけてしまうような心の中からの責め苦、それこそが指輪の力だということに、ふたりは気がついていなかったのでしょうか。のちにその時の口論を考えると、胸が苦しくなりました。
「わたしはかれがもとの自分に戻れると、信じなければならないんだ。」
「あいつは救えません、フロドの旦那。」
その時のフロドの気持ちをサムは考えたのでしょうか。その時のサムの気持ちをフロドは考えたのでしょうか。フロドは、心の中にいろいろな葛藤がありましたが、少なくともこの思いは存在していたように感じました。今のゴラムは、未来のフロドでもありました。指輪に捕らわれ、指輪に魅入られ、手放せない苦しさから逃れられないのです。ここには指輪を自らの手で手放せるように助けてくれるガンダルフはいないのです。もし、ゴラムが何百年もの年を経て、なおもとの自分に戻れることができたなら、フロドも、もとの自分に戻れる可能性があるのでした。病むことのない、明るく楽しい生活を思う存分満喫できるホビットに。しかしそれは無理だとフロドは薄々感じてはいました。ですからフロドはせめて自分の心に言い聞かせなければなりませんでした。「ゴラムはもとに戻る」と。ですが、サムの言った言葉はそれを否定する言葉のように聞こえました。いいえ、サムはそんなつもりで言ったのではありません。ただ主人のことが心配で、いつもの「サムや」と言ってくれる主人ではなくて悲しくて、ゴラムは救いようのないやつだと、そう言っただけでした。しかしフロドはかみつくように鋭い口調でサムを振り返って詰め寄りました。
「お前にあれの何が分かる!何も分からない!」
その目は普通ではありませんでした。怒りに燃え、憎しみが覆いかぶさっていました。
は・・・と、サムが一歩、身を引きました。サムがです!サムがフロドから自分の意思で一歩離れるなど、以前には考えられもしないことでした。サムは心の痛みに胸が引き裂かれそうになりました。頭が真っ白になり、足元はふらふらしていました。こみ上げてきた涙を見られないようにはやく歩くつもりでした。そしてもうこの口論を終わらせようとしたのでした。それなのに、足がうまく動いてくれませんでした。結局サムはゆっくりと、フロドの前を通り過ぎたのでした。
フロドはサムの涙が何かを溶かしたように思いました。何かがおかしいと思い続けていたものが、やっと少しだけ剥がれ落ちたようでした。サムが、目の前を歩いて通り過ぎてゆきました。フロドの心の中に、サムの哀しみが流れ込んでくるようでした。
「サム・・・サム!すまない・・・本当に・・・。どうしてあんなことを・・・どうしてお前にあんなことを言ってしまったのか・・・わたしには分からないんだよ・・・」
サムは祈るようにフロドを振り返りました。どうか、フロドの旦那に戻っていますように、と。どうか、おらの言ってることを分かってくださいますように、と。そっと振り返ったサムの目には、薄い日の光を全て集めたよりもずっと美しい涙が浮かんでいました。純粋で何にも侵されていない、きれいな涙でした。
「分かってますだ、分かってます、フロドの旦那。指輪ですだね・・・。分かってますだ。おら、旦那をずっとずっと見ていましただ。旦那はここんとこ、ろくに食べてないですだ。それにかろうじてほんの少し眠りなさるくらいですだ。あれが旦那にとりついてるようですだ、フロドの旦那。どうか、指輪と闘ってくだせえ!」
サムは、もう指輪の影響を受けていませんでした。涙がサム自身の目から魔力を洗い流してしまったようでした。しかしフロドはまた語気を荒げたのでした。
「わたしはわたしの成すべきことを分かっている、サム。指輪はわたしに委ねられたんだ。わたしの使命だ!わたしの!わたし自身の!」
そうしてフロドはその場から歩き去ってしまいました。足音荒く、怒りで全身が震えていました。
「フロドの旦那!」
サムが叫んでも振り返ることはありませんでした。
「旦那は今の言葉が誰みたいだか知らないんですかい?」
答えはありませんでした。
「ボロミアの思い出」に続く。 |