21・闇の滅ぶ時

 

「ああああっ!」
悲痛な叫びがサムの耳にこだましました。そして見えなかったものがはっきりと姿をあらわし、その場にうずくまりました。それはフロドでした。その手には、その首にはもはや指輪はなく、そして手からは血が溢れていました。フロドの血を見た瞬間、サムの意識は一気に覚醒しました。視界が広がったサムの見たものは、吐き気のするような光景でした。ゴラムの手には指がありました。そしてその指には、指輪がはまっていました。食いちぎられたフロドの指からは、血が滴っていました。そしてその狂気と闇と炎の中で、ゴラムが飛び跳ねていました。
「いとしいしと!ああ、いとしいしと!」
 

かっと、フロドが目を見開くのがサムにも見えました。今度はフロドにも指輪しか見えなくなった時がやってきたかのようでした。フロドはそこがどれほど危険なところかなど全く考えることも感じることもできずにゴラムに、いいえ、指輪に飛びついていきました。己の指がまだその辺りに転がっているというのにです。吐き気のする身体を起こし、サムは必死でフロドに近づこうとしました。
「フロドの旦那!今行きますだよ!」
そしてあと数歩でフロドに辿り着くという時、全ては終わったのでした。
 

それは妙に静かな瞬間でした。サムの目の前から、ふたつの影が姿を消してゆきました。そしてそこには、
「いとしいしとおおお」
という叫びがこだまとして残るだけでした。叫びながらゴラムは岩の裂け目に落ちてゆき、ました。ゴラムの顔は完全に癒され、全てが満たされ、そして永久の安堵を見出した人のようでした。それは死に行くものの顔のようであり、また生まれ来るものの顔のようでもありました。その身体は指輪をしっかりとつかみ、またそれを抱いているようでした。そのまま溶岩に吸い込まれた指輪とゴラム、いまやひとつになった塊は非情にもふたつに分かれ、ゴラムの目に絶望と死が映ったのと、その身体が周りの高温で解けてゆくのはほんの刹那のことでした。指輪はそれよりは長く熱に抗い、自分を生み出した炎に逆らい、周りを冷やそうとしましたが、やはりゴラムと同じように溶けることをとめることはできませんでした。こうして指輪は二度と形を取ることはなくなりました。大地が震え、大気が振動し、平野は波打ち、火の山は咆哮をあげました。「目」は消え、その存在は急速に広がってそしてあらゆるものをなぎ倒していきました。地が裂け、堅牢な城、牢獄、門、それら全ては崩れ消滅しました。そして悪しきものたちが飲み込まれていきました。闇は滅んだのでした。
 

サムは淵に駆け寄りました。フロドが生きているという一縷の望みをかけて。サムは感じていました。まだここにフロドがいることを。生きて存在して、そして自分を待っているということを。サムは崖に手を伸ばしました。そこにいるはずの存在に向かって。
「フロドの旦那!」
そこには果たして愛しい主人がいました。あとほんの少しでもこの岩が揺れ動いたら落ちるという場所にいながらも、どこか遠いところを見るフロドのまなざしは、澄みきった湖のようでした。しかしそれは同時に生きることを見失ったものの目でもありました。全てを失い全てを手に入れたものの目でもありました。サムは叫びました。
「生きるんですだ!おらと一緒にこちらに来て下せえ!手を伸ばして!おらのところまで来るんですだよ!」
サムの言葉は生にしがみつく必死で醜いもののようにフロドに思えた瞬間がありました。しかしそれは次の瞬間フロドの力となり、その腕を伸ばす動力になりました。伸ばした手にはひとつ指がなく、血で濡れそぼっており、ぬるぬると滑りました。
「諦めちゃなんねえだ!手を伸ばして!生きるんですだ!」
そしてとうとうふたりの手は合わさりました。
「もう、二度と離れない。」
そうささやいたフロドの声は、山の怒号にかきけされて消えてゆきました。

「開放」に続く。