Wish Looking Glass 4

 

お屋敷に戻ると、もう明け方でした。サムは眠くて眠くて、まぶたがひとりでに合わさってしまうと思いましたが、どうしても眠りたくありませんでした。今度フロドが目を覚ました時に、ちゃんといつものフロドに戻っているかどうか、それだけが心配で、無理矢理起きているつもりでいました。ちゃんとそれはお昼近くまで続きました。顔をつねったり、叩いたりしながら起きていました。しかしとうとう空腹と眠気で、夕方近くにサムはぱったりと眠り込んでしまいました。

 サムが目をあけると、そこはフロドのベッドの中でした。一瞬サムは、ここは自分の家だろうかと思い、どうしてこんな妙な時間におらは寝てるだ?と思いました。しかし絹の手触りに、あまりに心地良いその枕や布団に、サムはやっと状況を思い出しました。
「フロドの旦那ぁっ!?」
がばっと飛び起きて、すっとんきょうな声をあげると、戸がすっと開いてフロドがひょこっと顔を出しました。
「おや、サム。起きたのかい?夕食はうちで食べていくだろうね?」
フロドはいつものままでした。サムはそのあまりにいつもどおりな風景に、ほっとするのをとおりこして、力が抜けてしまいました。そしてまた、この心地良い、ほのかに主人の香のする寝台に倒れこみました。
「おやおや、サム!大丈夫かい?ずいぶんお疲れのようだけど。」
そう言って、フロドはサムの所まで歩いてきて、こつんとサムのおでこを叩きました。
「だんなぁ・・・」
安堵感でいっぱいのサムは、とにかくそんなことしか言えませんでした。そう言えばおいしそうなにおいがただよっています。フロドが夕食の用意をしたのでしょうか?それにしてはいつも自分の家で嗅いでいるにおいに近すぎるような気がしました。サムが何も聞く前に、フロドがにっこり笑って説明しました。
「とっつぁんとお前のねえさんたちに、夕食を運んでもらったんだよ。わたしが作ると、きっとお疲れのお前にもっと心労をためそうだからね。」
そして、はははっと、実に愉快そうに笑ってフロドはサムを起こしました。
「さあ、一緒に夕食としようか。」

 その日の夕食は、たった二人きりでしたが、今までにないほどすばらしいものになりました。そして夕食後までに、今まで起こった不思議な出来事の数々を二人でつなぎ合わせ、どうにか一本の筋道を立てた話にしていったのです。そして、二人ともこの世界に戻ってきて、もうそれが揺るぎないものだと確信しあってから、明日、その鏡を壊しに行こうということになりました。もちろんそれはサムが提案し、フロドは少し寂しい表情を見せましたが、納得してサムを玄関まで見送りました。
「それじゃ、サム。」
「ええ、おやすみなさいまし、フロドの旦那。」
そして二人は今度こそ、紛れもない本当の眠りの世界に帰ってゆきました。

 あくる日は、眩しいほどのお天気でした。お日さまはここぞとばかりに光を二人の上に注ぎ、ホビット庄はきらきらと輝いて、見慣れたはずの緑がいっそう美しく見えました。そんな天気にそぐわない、かなづちやきづちといった物騒なものを持ったフロドとサムは、二人で北の沼地へと歩いて行きました。昨日歩いた同じ距離とはとても思えないほどその場所は近くにありました。そして無人だと思っていたそのマゾム館には、今日はちゃんと管理しているおばあさんが一人いました。そのおばあさんに、こことよく似たマゾム館で、もっと北の方にあるところを知らないかと聞いても、これより北にはホビットの住めるようなところはない、それよりむしろ歩くこともできない沼しかないと教えてくれるばかりでした。そして、では地下室はないのかと聞けば、それはあると言うのでした。
「ええ、ええありますとも。自慢のマゾム館の倉庫ですよ。ふるーい本から色んな異国の調度品まであります。」
そして連れて行ってもらった先は、確かにあの地下室でした。張っている蜘蛛の巣、たまっている埃、灰色になったシーツのかかったがらくたたち。どれもこれもみんな見覚えのあるものばかりでした。しかしそこにあの鏡はなく、もちろんあのじいさんもいませんでした。しかしそこにはあの不思議な匂いのする液体の入った、あのランプがあったのでした。それを見て、フロドとサムははっとなって、さらに必死に鏡を探そうと躍起になりました。
「バギンズの旦那は一体何をおさがしで?」
おばあさんは不思議そうにフロドとサムを見ていましたが、鏡と聞くと、少しおばあさんの表情が翳ったように見えました。
「何かご存知なんですね?」
フロドはそっと聞きました。
「ええ、ええ知っておりますとも。」
そう言って、おばあさんは小さく溜息をつきました。そして短いお話をしてくれたのでした。

 昔々、まだおばあさんが若かった頃、ある若者と一緒に暮らしていました。その若者は幼い頃に両親を亡くし、寂しい思いをしていた心やさしいホビットでした。二人は幸せな夫婦のはずでしたが、ある日若者は不思議な鏡を見つけてしまったのでした。おばあさんにはなんの変哲もない汚い鏡にしか見えなかったのですが、若者はそれを大層大事に扱っていました。ぬぐっても取れない汚れがあるのに、若者はそれを寝室に持ち込んで毎日眺めていました。そして、おばあさんには一切それを見せることをしませんでした。しばらくたって若者に変化が現れました。普通に生活しているはずだったのに、だんだんやせ衰え、影が薄くなっていくようなのです。どうしたのかと問うても答えはありません。そしてある日、鏡と一緒に消えてしまったのでした。それ以来一度もおばあさんの目の前に鏡と若者があらわれることはありませんでした。

 フロドとサムは、その話を聞いて、なんだか物悲しくなりました。もしかしたら、あの老人が、その若者ではなかったかと思ったからです。その若者の衰え方がフロドの何十倍も遅かったのは、その頃の鏡にはまだ誰一人として隷がいなかったからなのではないかと思ったのです。若者は鏡に取り付かれ、それでも、愛するひとを自分と同じ目にあわせぬために、鏡の奴隷になってしまったのではないかと思ったからです。しかし本当はどうなのか、結局分からずじまいでした。鏡は見つからず、ランプはおばあさんの手で壊され、フロドとサムはホビット庄に帰ってゆきました。そして、またいつもどおりの生活が繰り返されるのでした。

フロドとサムは、霧雨の振る日にはよくこのことを思い出しては少しだけ切なくなるのでした。恐ろしく、気味の悪い出来事だったはずなのに、なぜだかほんの少し、寂しくなるのでした。そしてその鏡は、それ以来、どこへいってしまったのか分からないまま記憶の波の彼方に去ってゆきました。

おわり