Wish Looking Glass 3
そしてまた翌朝、サムがお屋敷に来てみると、やはり玄関の戸が開け放してありました。そしてフロドは今度は廊下の床につっぷして倒れていたのでした。今日はとても暖かく、それくらいで風邪をひいたりするような陽気ではありませんが、それとは関係なく、フロドはおそろしく様子が変わって見えました。とても1日くらい食べなかっただけのホビットがなるような衰弱具合ではありません。どう見ても、昨日と相当に様子が違っていました。頬はこけ、目の下のくまは黒く深く、手足の力は全く抜け切っていました。それなのに、まだ顔にはほほえみがあるのです。サムはあまりのその恐ろしさに冷たいものが首筋から足の先まで垂れたような気がしました。きゅっと、心臓を凍った縄で縛られたような気がしました。そしてまた、フロドをベッドに寝かせ、今度はその脇に椅子を持ち込み、食糧まで用意してフロドから目を離さなくていいようにしました。昼間は、何事もなく過ぎ去りました。庭の雑草たちが勢力を広げるのに少しは気になりましたが、フロドのことで頭がいっぱいで、とりあえずそちらの本職は忘れることにしました。しかしフロドの呼吸の心地良さに、いつしかサムは眠りこけていました。 夜の月がサムの顔を照らし、サムはその明るさにはっとなって飛び起きました。するとどうでしょう。フロドがそこにいませんでした。サムは慌てふためきましたが、そっと布団に手を差し入れてみると、まだ暖かく、ここを離れてそれほど時間がたっているようではありませんでした。ですからサムは、フロドの名を叫びながら、まず玄関に飛び出して行きました。すると案の定、戸は開き、夜風にキィキィと不気味な音を立てていました。 走って、走って、もうだめだと思うくらい走ったところでした。ぜえぜえと肩で息をするサムがふと、何かの気配を感じて顔を上げました。するとそこにはフロドから聞いたとおりのホビットの老人が立っていました。明るいはずなのにあの青白いランプを持っていました。そしてそのせいかどうかは分かりませんが、その老人の周りだけ、薄暗く、月の光が薄れているように思われました。サムはその老人のむなぐらをがっと掴んでゆさぶりました。 サムが見覚えのほとんどない地下室に下りて行こうとすると、そこは空気の密度がいつもの何倍にもなったような奇妙な感覚に遮られました。足が動かず、動きが緩慢になりました。それでも一歩踏み出すと、異臭と耳鳴りでサムは吐きそうになりました。しかしそれをぐっとこらえ、サムはしにくくなった呼吸と、速くなった心音に耳を傾けながらとにかく下に降りてゆきました。そこにフロドがいるはずだと信じて。 はたして、そこにフロドはいました。大きな板のようなものの前に座って、半分だけ目を開いて、まるで夢遊病のひとのようでした。その顔にはあの微笑みがあり、口元は不自然につりあがっていました。瞳の色はどす黒く、どこまでも濁って一欠けらの光も入る余地がありませんでした。それはフロドでありながら、フロドではありませんでした。サムは、何がフロドをそうさせているのか分かりませんでした、フロドの後に立って、その板のような濁った鏡を見ても、フロドとサムしか見えませんでした。どう見てもただの古い鏡です。しかし、徐々にそうでないことが分かりました。鏡の中にはしゃがんだフロドとサムがいましたが、サムの手には百年に1度だけ花をつけるリアイラックという株が1つありました。そして背景がぼんやりとではありますが、ホビット庄のフロドの庭だと分かってきました。サムは、その鉢を見てはっとしました。その花が、今開こうとしていたのです。しかしサムは幻想に囚われませんでした。その花は、サムがまだ庭師になる前に、その花の価値がわかる前に咲いてしまったものでした。あの頃とっつぁんにどれほど言われても意地になって見なかった花でした。そしてその花がしぼむ頃には、どれほど後悔しても、もう百年後までそれを見ることはできないと悟って人知れず落ち込んだものでした。その花が開こうとしています。それでサムは全てを悟りました。先ほど老人が言ったことも全部です。これは望みを映す鏡なのです。心の中の本当の望みを。その望みが叶わぬもの、手の届かぬもの、大きなものであればあるほど、見るものをその鏡に惹き付けるものだと。そしてあの老人はホビットではなく、この鏡と共に生きる寄生虫のようなものだと。しかしサムにはそんな大きな望みはありませんでした。ただ、このまま主人とホビット庄で穏やかに暮らすことさえできればいいと思っていました。心からです。ですから、そんな小さな望みなど、心を縛る糸にはならなかったのでした。 サムはとうとう鏡には取り付かれませんでした。正気を保ち、フロドの側に駆け寄ることができました。サムはフロドを鏡の前から引きずり出し、とにかく外に連れ出しました。それだけでも大変な作業でした。フロドはいつものかれからは想像できないほどの力でサムを拒み、まるで周りの空気までがフロドに、いえ鏡に味方しているようで、とても重くて運べそうにないと思いました。それでも力いっぱいサムが引きずり、とにかく外の空気にフロドを触れさせました。そして真夜中であるにも関わらず、ありったけの大きな声を出してフロドに語りかけ、叫び、そして呼びました。 サムの涙がふと、フロドの唇に落ちました。今までどこに隠れていたのか、月明かりがそれを彩りました。すると、フロドの身体に今までかかっていた大きな力が抜けました。フロドの感覚が全て戻ってきました。はじめに感じたのは、しょぱい、苦しい、ということだけでした。それに疲れ切っていました。しかしその苦しさは、身体がみしっと音を立てるほど強いものであるにも関わらず、安心できるものでした。なぜだろうと、ぼんやりする頭で考え、久し振りにちゃんと開いた目で自分の視界を切り開いてみると、それはサムの抱擁だと分かりました。ああ、だからなんだ。フロドはまだぼおっとしながらそう思いました。そして、そのフロドを抱く腕が震えていることに、そのフロドの肩口に押し付けられた顔から嗚咽と涙が零れ落ちているのに気がつきました。 第4話に続く。 |