Wish Looking Glass 2

 

「それではサム、留守を頼んだよ。」
まだ雨の降る午後のことでした。フロドはサムの持ってきたランプと似たような、小さなランプと古いマントだけを持ってお屋敷を出ました。その姿はなんとなく安定せず、なんだかこの細い雨に吸い込まれそうな頼りなさに思えたので、サムはあと少しでフロドを引きとめるところでした。しかしフロドを玄関まで見送って、止める声をかけようとした頃には、フロドはもう霧雨の中に入って薄暗い風景に溶け込んだ後でした。
「旦那はどうしちまったんだ?マゾム館に行くことだけは分かってるが、えっと、どこだったっけか。このまんまじゃ、おらがお迎えにあがらねえと帰ってこられそうにねえぞ。」
そう思ったサムは、今日の仕事をさっさと終わらせ、フロドを夕方までに迎えに行こうと決心しました。

 しかしサムのその心配は結局必要ないものになりました、フロドはどうやらすぐに見つけたらしいその沼の近くのマゾム館から、長い本の中の1冊、その話が載っている巻だけを見つけてすぐに帰ってきました。サムが仕事を終える前にです。その上、昨日の夜や、今日の朝からは想像もつかないほどなぜか上機嫌になって帰ってきました。
「やあ、ただいま、サム。読みたい本はすぐ見つかったよ。」
「そうですだか。そりゃ良かったですだ。場所もすぐお分かりで?」
「ああ、ちょっと北に歩いていってね、名前は知らないんだけれど、随分なじいさんのホビットに聞いたら教えてくれたよ。でもおかしいなぁ。だいたい庄の中のお年よりは知っていたと思ったんだが。ホビット庄も広いもんだね。」
そこでサムは妙な違和感を感じましたが、フロドが上機嫌でいるので
「そうですだね。」
とだけ言ってフロドに微笑みかけるだけにしました。しかしサムのその違和感は当たっていたのでした。そしてそれは後に分かることになるのでした。

サムは仕事を終え、家に帰る時にフロドにいつものとおりの挨拶をしてお屋敷を後にしました。しかしフロドは熱心に本をめくっており、サムに気がついた様子もありませんでした。サムはおかしいとまた思いましたが、読書の邪魔をしてはいけないと、そっと音をたてないようにドアを閉めて帰ってゆきました。しかしサムはどうしてもそんなフロドの様子が気になってしかたありませんでした。帰りの道々(ほんの2〜3分のことですが)ずっと考えていました。フロドはホビット庄内の全ての人に、いなくなったビルボとフロドの合同誕生会の便りを、もう何回も出したことがありました。ですから、今生まれた赤ん坊は別としても、そんなお年よりをフロドが忘れるはずがありません。でもサムは、それに違和感を感じたのではありませんでした。フロドの気分の変わり具合、というより、フロドの目に灯った小さな曇りが気になったのでした。そうです、フロドの目が、なんだかいつもと違ったようだということを思い出しました。さっきまでは気が付かなかったのですが、よく思い返してみると、どうしてか、主人の瞳が少し光を失っているように思えてしかたありませんでした。いつもは透き通る湖のような青い瞳に、きらきらと夜空に輝く星のような煌きが灯り、吸い込まれそうなほど透明で美しいフロドの目が、今日はなんだか曇っていたような気がするのです。青さはいつもに増して深く、とらえどころのない色をし、光は暗く、目を奪われるような星はありませんでした。ひとを惹き付ける美しさに変わりはありませんが、その魅力が少し暗く、そしてサムの気のせいかもしれませんが、フロドのものではない邪悪な魅力となって外にあふれているような気がしました。それはサムにはどうしても、光のかげんや、お天気のせいだけではないように思えました。ですからサムは、明日の朝、お屋敷に行ったらさりげなくマゾム館と老人のことを聞いてみようと思いました。 

今日はからっと晴れるところまではいきませんが、雨も降らず、曇りの日になりました。サムは昨日思っていたとおり、昼食の片付けをしながら、後で座っているフロドに色々聞いてみることにしました。フロドの様子は少し寝不足のひとのようにちょっとけだるい感じを受けましたが、それ以外特に変わった様子はありませんでした。
「ねえ旦那。昨日のことをおらに話してくださらねえですか?」
「え?何のことだい、サム。」
サムはこれもおかしいと思いました。フロドのその口調は何かを隠そうとするものではなく、本当に何にも思い当たらないような調子だったからでした。
「マゾム館と本と、じいさんのホビットのことですだよ。おらに昨日ちょっとだけおっしゃったでしょう?ほら、中つ国の歴史の本のことですだよ。」
「ああ、そうだった、そんなこともあったねえ。」
サムはフロドに背中を向けて作業をしていましたから、フロドの様子が分かりませんでしたが、明らかに声の調子が変わったことは確かでした。しかしそれは昨日見たフロドの目よりは邪悪さが薄く、危険なものは何もないと思えるくらいのものでした。ですからサムは、できれば問い詰めるのではなく、フロドが自分からしゃべってくれることを期待して、少し間をおいて答えを待とうと思いました。
「そうだねえ。サムに何も言わなかったかな?ちょっとうれしいこともあったんだよ。」
フロドはそう言いましたが、その声はうれしいというより心ここにあらずといった雰囲気を含んだ言い方でした。サムは片付けを終えて、フロドの向かいに座りました。そしてフロドはそこから少し不思議な話をぽつりぽつりとしゃべったのでした。
「あの日、わたしは大したあてもなくお前の言ったマゾム館を探していたんだ・・・

 フロドは霧雨の中を、マントのえりをきっちりと立てて歩いていました。昨日あれほど苛立ったのが嘘のように、この静寂と細かい雨が心地良く感じました。頬にあたっては大きな水滴になって、自らの重みに耐え切れなくなり、すうっと顎まで伝ってゆく雨たちも、ちっとも苦になりませんでした。視界は悪く、足元はぐちゃぐちゃで濡れた感触なのに、土を踏みしめ、足跡がつくのが楽しいくらいでした。そうしてフロドはゆっくりゆっくり、ほとんど誰もいない道を北へと歩いていったのでした。フロドの記憶によれば、北の方の森の間に沼が点在しているはずでした。サムはきっとその方面にあるマゾム館、それもきっと古いもの、のことを言っていたのでしょう。確かにフロドはお屋敷の近くの立派なマゾム館を、今でいう図書館代わりによく使っていたのですが、だいたいそこで用が済みますのでそんな方までわざわざでかけたりはしないのでした。そっちには確かにそういった類の普通のホビット(エルフやらなんやらの歴史に関する書物を読もうというホビットは、サムをのぞけば一人もいないのでしょう)は行かない所でした。ですからかえって、そこのマゾム館に目当ての本がある可能性が高いと思えたのでした。そうは言ってもまったく方向だけを頼りに、あてずっぽうで歩いていては、日が暮れてもたどりつけないでしょう。しかしフロドはそんなにその本に執着しているわけではありませんでした。今まで散々あの母と子の話を読みたいと思っていたはずなのに、今となってはそれもどうでもよくなっていたのかもしれませんでした。確かに少しは詳しく読みたいという気持ちも残ってはいましたが、それよりも、この今日の雰囲気にただ呑まれていることが心地良いのだと思い、見つからなかったらそれでいいやと思っていたのかもしれませんでした。 

 しかしフロドがしばらく道に足跡をつけて進んでいたところ、フロドの前方に青白いランプとおぼしき光が見えました。それは進むでもなく止まるでもなく、ふわふわと揺れてまるでフロドがそこまで歩いてくるのを待っているようでした。フロドは不思議とそれが怖いとは思いませんでした。ですからそれまでの歩調を変えることなく、ゆっくりとその光のところまで歩いて行ったのでした。その光はやはりランプでした。ただし、相当に古い型で、しかも燃料にフロドの知らない種類の油を使っているらしく、少しすっとするような、それでいて生臭いような、妙な臭いがしました。そしてそれを手に持っているのはホビットのじいさんでしたが、かなりの老人のようでした。
「お前さん、何かを探しているね。」
フロドがそのランプの前で立ち止まると、老人はそう言いました。
「そうかもしれません。そうでないかもしれません。」
フロドは自分がそう答えているのに気がつきました。
「そうか、それを知りたくないか?それを見たくはないか?」
その老人の口調はえらく傲慢ぶった言い方でしたし、冷たい感じがしましたが、フロドは何とも思いませんでした。そしてまた、口が勝手に動いているのが分かりました。
「知りたいです。あなたが教えてくれるのですか?」
「いいや、違う。だが、教えてくれるもののところへ連れて行ってやることはできる。来るか?」
「はい。」
まるで老人の言葉にそう答えるように自分の行動が決められているようだとフロドは思いました。それでもまだ、怖いとは感じませんでした。まるでフロドの心から恐怖という感情が抜け落ちていたかのようでした。そして、老人に導かれるままに、フロドは霧雨の中に溶け込んでゆきました。

 老人が連れて行ったのは、今朝サムが言っていた通り、沼のすぐ近くに建っている古い建物の地下でした。そこには蜘蛛の巣がはった本棚がいくつもあり、厚く埃の積もった羊皮紙や、巻紙、それに絹で装丁された本などがところせましと並んでいました。本だけではありません。昔は白かったと思われるシーツをかぶった不可解な形の大きなものがあちらこちらに何十年も動かされることなく石像のようになって置いてありました。フロドがその黴臭く、なんだか饐えたような臭いを一呼吸しているうちに、老人がすっとフロドに1冊の本を渡しました。
「お前さんがうわべで探していたものはこれだろう。」
それは確かにあの本のうちの1冊でした。
「ええ、そうです。」
フロドはその薄く埃をかぶったその見た目より重い本を受け取ってそう言いました。ざらっとした砂や砂利が、フロドの指があたって本の表紙にこすれました。背筋がぞっとする感触でしたが、なぜか不快とは感じませんでした。老人はその本を渡して、おぞましいような笑みを見せて言葉を続けました。
「だが、お前さんの探している望みはこれではないな。ここで探すがいい。」
そう言い置いて、老人は去ってゆきました。フロドはどうしたらよいのかなぜか分かる気がしました。そして本を脇にかかえ、その暗いマゾム館の地下で、あるものを探して暗闇の動物のようにごそごそと動き回りました。

 しばらくそうしていましたが、フロドは夢心地であるおおきな布のかけてあるマゾムの前に来て立ち止まりました。そして、その埃と砂や何かでずっしりと重くなった布をばっと取り去りました。そこには、ただ1枚の大きな鏡がありました。濁ったような面の鏡でした。フロドが羽織っていたマントの端でこすっても、その曇りが消えることはありませんでした。薄汚れて、とても古いもののように見えるのですが、ひびなどひとつも入っていませんでした。枠はしっかりした金属のようなものでできていて、一番上に、ルーン文字でもアンゲサスでもない、不思議な文字が刻まれていました。それはただの飾りではなく、明らかに何らかのまじないを込めて書かれたもののようでした。はじめ、フロドはその鏡には何も映っていないと思いました。目の前に立っているはずの自分の姿も映し出されていないのです。フロドは、不思議だと思いましたが、それを恐ろしいとは思いませんでした。それに、なぜか、これが自分の探していたものだと思ったのでした。ですからフロドはマントを脱いできちんとたたみ、鏡の前に置いてその上に座りました。膝を立て、その上に腕をのせ、疲れた旅人がするようにその上に顎をのせました。そして鏡と向かい合って座って、濁った鏡を見つめていました。

 どれほどそうしていたでしょう。フロドは、鏡の中に自分がいることに気がつきました。今より少しだけサムの体型に近く、サムのように頬が赤く、まるで見本となるようなホビットの本来あるべき姿のようでした。その顔には幸せなほほえみが浮かび、こちらのフロドを見ているようでした。フロドは、ああ、自分がこんなだったらいいなと思いました。食べても太らない自分に、ホビットにしては青白すぎる自分に、フロドは少し溜息をつきました。しばらくすると、フロドはその鏡の中のフロドがひとりではないことに気がつきました。鏡の中のフロドの後には、二人のホビットが一緒に座っていました。一人は綺麗な青い目をした美しい女の人でした。もう一人は黒い捲き毛のやさしそうな男の人でした。どちらもなんだか自分に似ているような気がしました。あの目、あの眉、あの捲き毛。どこかで見たような気がしました。そしてふと、思い出したのでした。あれは父様と母様だと。しかしフロドは声を出すことができませんでした。二人は鏡の向こうのフロドの髪をなで、頬にキスしました。そしてこちらのフロドににっこりほほえみかけました。やさしく、大きな、包み込むような微笑みでした。フロドは、ああ、これがわたしのほしかったものなんだと思いました。これを、わたしは探していたのだと思いました。両親の愛でした。ビルボで満たされなかった思いがここにあると、やっと分かったような気がしました。そこには音はありませんでした。ただ、曇ったガラスの向こうに本当の景色が見えているのだと思う他には何もありませんでした。風景はホビット庄に似ていますが、もっと美しいものでした。そして、もっと胸を締め付けるほど懐かしいものでした。ここには、フロドの望んだものが、全てあると思えました。それを壊したくない、そっとしまっておきたいと、フロドは思いました。ずっとここでこうして見ていたいと思いました。そうしてその静かな風景を見ているうちに、フロドはいつの間にか目を閉じていました。そして、穏やかな夢を見ました。どこからが鏡の中で、どこからが夢で、どこからが現か、その境界は、はっきりしませんでした。そしてふと気が付くと、本だけを持って、袋小路屋敷への道を歩いていたのでした。 

・・・わたしはとっても長い時間が過ぎたと思っていたのだよ。それなのに帰ってくるとまだお前がいるじゃないか。びっくりしたよ。丸一日あそこでそうしていたのかとね。でもそうじゃない。きっと夜になったらお前が迎えに来てくれていただろうし。だからわたしはまだそんなに時間が過ぎていないことが分かったんだ。」
フロドはそう言い終わり、ふっと目を閉じました。まるで、その幸せな夢の中にまた入っていくような恍惚とした喜びをまぶたに浮かべているようでした。いけない、と、サムは思いました。なぜかは分かりません。しかしサムの中の何かが叫びます。このままではいけない、と。サムはこのまま眠ってしまいそうなフロドの方をテーブル越しに掴んで揺さ振りました。
「旦那!フロドの旦那!起きてくだせえ!」
しかし、フロドは眉をひそめて首を振り、いやいやをしました。その仕草は、どうしてそっと寝かせてくれない、と言っているようでした。そしてどれほどサムが揺り起こそうとしても、その日は目を覚ましませんでした。
 

 話が長くなっていたので、サムはもう日が暮れていることに気がつきました。フロドは眠ってしまい、起きませんでした。ここでひっぱたいてでも主人を起こさなければいけないような気がしましたが、フロドの寝顔があまりに幸せそうで、サムはとうとうその顔に負けてしまいました。フロドをよいしょっと背負って寝室まで運び、そっとベッドに寝かせました。そしてふわふわの羽布団をしっかりとかけ、そっと額にキスをしました。
「どうしたんですだ?明日にはよくなりますだか?」
サムの中の何かが、そうではないと言いました。しかしこれ以上、サムには何もできませんでした。仕方なく、サムはお屋敷中の戸締りをして家路に着きました。
 

 次の朝、サムがお屋敷に行ってみると、玄関の戸が開いていました。どうしたんだろうと思い、何か様子が変だと感じながら中に入っていきました。
「旦那?フロドの旦那?もうお起きで?」
しかしキッチンに足を踏み入れたサムは、驚きでその場に固まってしまいました。フロドがキッチンのテーブルの上につっぷして寝ていたのです。
「旦那?どうなされたんで?」
しかしフロドはうんともすんとも言わず、目を閉じたままでした。その様子はどこか不自然で、それなのにフロドの表情は幸せそうなのでした。サムはどうしたんだ、何があったんだと頭の中で繰り返される、答えのない問答を反復しながら、またフロドをベッドに運んでゆきました。そして今度もまた、しっかりと布団を着せて寝かせました。フロドはサムが仕事をし終えても起きませんでした。食事の用意をしても、いくら起こそうとしても、今日は頬を軽くぺちぺちと叩いても起きませんでした。そして今日も、サムは戸締りをして帰ってゆきました。
 

「ぜってえおかしいだよ。」
家に帰ったサムは、とっつぁんにそうこぼしながら夕食の残りのじゃがを口にほおりこみました。
「何にもお口になさらねえ。ずうっと寝てらっしゃるのになぜか目の下にくまがはってる。叩こうが、耳元でわめこうが一向に起きねえ。一体、フロドの旦那はどうしちまったってんだ?」
しかしサムにそう聞かれても、とっつぁんに答えようがありませんでした。そんなに心配すんな、大方フロドの旦那は夜に書物でもしてなさるんだろうよと、気休めを言うくらいしかできませんでした。サムはここで決心を固めました。明日は丸一日フロドについていようと思いました。朝も、昼も、夜もです。特に真夜中まで起きて、何が起こっているのか見届けようと思いました。

第3話に続く。