Wish Looking Glass 1

 

 これは、あるマゾムとフロドのお話です。

 ある雨の夜のことでした。フロドはたった一人で袋小路屋敷にいました。ビルボがあの有名な誕生日パーティーからこの地を去って、ずいぶんと時間が流れていました。昔フロドは霧の日がきらいだったのですが、今は外にしとしと降る、細かい霧のような雨がことさら気になっていました。それは不思議な夜でした。雨は静かに静かに、まるで眠るホビット庄を穏やかな眠りに包み込むように降っていました。その音はあまりに静かで、他の一切の音まで意識的に消しているような不気味さもあるように感じられました。フロドはその雨の微かで今にも消えそうな音に、なぜか苛立ちを感じてベッドにばっと起き上がりました。先ほどから眠ろう、眠ろうと思っても、その小さな小さな音が気になって寝付けませんでした。フロドは思いました。もし今ビルボがいてくれたなら、きっと暖炉に火を入れて、自分は眠いだろうに古い本を持ち出して、あの独特のゆっくりしたうまい読み方でフロドが眠るまで物語を読んでくれるんだろうと。しかし、そのビルボは、もういませんでした。フロドはそれを寂しく思っていましたが、永遠に会えなくなるという予感は、なぜかひとかけらも持つことがなかったので、涙は溢れてきませんでした。ただ、小さな胸の痛みと、この小さな苛立ちとなって心に蟠るだけでした。

 フロドは一人で起き出して、暖炉に火を入れました。そしてミルクのたっぷり入ったお茶を用意して、暖炉の向かいの椅子に深く腰掛け、ふーっと息をはきました。またビルボのことが思い浮かびました。親というものでもなかったのですが、フロドにとってビルボが大切な身内であることにかわりはありませんでした。しかしこの夜、フロドは別のことに思いを馳せることになりました。お茶を飲み干しても眠れないフロドが何気なくビルボの本棚から一冊の古い本を取り出しました。それは中つ国の歴史を綴った長い長い本の一部でした。こういう時、こういった本をはじめから読む気にはなれないものです。フロドはぺらぺらと、乾いた音を立てながら、薄く積もった埃を指先に不快に感じながらページをめくっていきました。そして、ある章でそっと手を止めました。それはあるエルフの母親と息子のお話でした。父親のいる隠された都から抜け出した母と息子のお話でした。フロドはそれをビルボから話で聞いて知っていましたが、それでも今は、それを繰り返して読んでみる気になりました。その章を読み終わる頃に、フロドの心は自分の母親と父親に向かっていました。心のどこかで小さく音を立てて、思い出と喪失感が溢れてきました。フロドはこの話をもっとしっかり読んでみたいと思いました。そして、今日はもう眠りたいと思いました。なぜか、とても疲れたような気がしました。 

 翌朝、いつものようにサムが仕事にやってきました。手には取れたてたまごと小さなランプを持っていました。昨日からの雨がやまず、朝だというのに暗いからでした。
「おはようごぜえますだ、フロドの旦那。」
サムは血色の良い頬をにこっとさせてそう言いました。フロドはなんだか少し、羨ましいような、淋しいような、妬ましいような、そんな気がしました。フロドはそのサムの姿が、サムの両親からの愛でできているような気がしたからでした。
「おはよう、サム。」
それでもフロドはなるべくいつものとおりにサムにそう言いました。いえ、言ったつもりでした。しかしサムはなんだか旦那の様子がおかしいなと思いましたので、ちょっと首をかしげて聞きました。
「どうかなされたんで?」
「いいや、なんでもないよ。」
フロドはサムがそんなささいなことに気が付いたのに少しびっくりして慌てました。サムの両親を、親の愛を羨んでいたなんて、大人のホビットの、それも屋敷の主人のすることではないと思ったからです。サムに言わせればそんなこと全然ないのですが、とにかくフロドはそう思い、口からとにかく別の話題を出そうと思いました。
「サム、中つ国の歴史の本があるマゾム館を知っているかい?」
「ええと、そうですだね・・・」
サムがふいに聞かれた質問に答えはじめた時でした。フロドは、どうして自分はこんなことをサムに聞いているのかと思いましたが、すぐにその訳に思い当たって少々諦めて開き直ろうとしました。別の話題を探していたはずなのに、(サムには全く別のことに思えたのですが)結局昨日の夜に逆戻りしただけだと分かったからです。つまり、フロドは昨日読んだ章をもっと詳しく知りたかったのでした。ビルボが持っている本は中つ国の歴史をたった2冊にまとめただけの、短い本でした。フロドはそれよりももっと長くて、もっと詳しい本が、このホビット庄のどこかのマゾム館に眠っていることを知っていました。それにそういった歴史はエルフ中心の世界ですから、エルフが好きなサムなら場所くらい知っているだろうと思ったのでした。
「確かどこかの沼の近くにあるマゾム館の地下室に、そんな本がたっくさん、たしか12冊くらいの長い長いものでしたが、ありましただよ。おらも全部読んだわけじゃねえんでよく知りませんだが。確かにあることはありましただよ。」
「そうかい、よく知っていたね。ありがとう。沼か・・・きっと北の方だね。探してみるよ。」
「いいえ、詳しいこと分からねえで、すみませんですだ。」
サムは、どうしていきなりフロドがそんなことを聞くのだろうと思いましたが、主人の考えにこれ以上詮索を入れるのはいけないと思ったので、ここらで切り上げて仕事をしに庭に行くことにしました。
「そうか、沼の近くのマゾム館か・・・」
サムがいついなくなったのかも意識していなかったフロドはそうつぶやきました。そして、今日そこへ行ってみたいと思いました。

第2話に続く。