12・別れのうた

 

シェロブはこの場を去り、もう二度と現れませんでした。かの女がどうなったかを語るものは、誰もいませんでした。そして、冷たくなったフロドの意味を、サムはもう十分に分かっているはずでした。そしてこれからやるべきことも。そして今はもう、主人に別れを告げる時でした。サムの頭の中に、まだサムが幼い時、はじめてフロドに出会った日のことが思い浮かびました。そして、それから何年もの間の日々が頭を駆け巡りました。フロドと共に過ごした毎日が。サムにとって、フロドは生涯ただ一人の主人でした。敬愛する、たった一人の主人でした。ずっとずっと長い間、苦楽を共にしてきたひとでした。

サムは、庭師のこわばった手で、フロドをせめて綺麗にしようと思いました。そっと手を伸ばし、今にも壊れそうなものに触るみたいにそっと、フロドにふれました。瞳を閉じさせ、フロドの漆黒の捲き毛、整った鼻、小さい耳たぶ、それに真っ白なうなじ。サムは手の届く全てを、ひとつひとつ幼い子供が大切な宝をさするように愛おしみました。

サムはフロドの顔を見つめ、溢れる涙でぼやけた視界に、懐かしい景色が見えたような気がしました。太陽の光が頬にあたり、土のにおいがして、木のざわめきまで聞こえるようでした。暑い午後でした。新しい花を、庭に植え替えたところでした。フロドの大好きな花を。ふと視線をあげると、フロドが窓から庭を見ているのに気がつきました。

――ねえ、旦那。見てくださいました?旦那の大好きなこの花たち。今日、植え替えがぜーんぶ終わったんですだよ。へえ、そうだったのかい。嬉しいねえ。でもすまないね、サム。気がついてなかったよ。お前しか、見えてなかったから。どんな花よりきれいなお前だから。なにをおっしゃってるんで。本当だよ。わたしがお前に嘘を言ったことがあるかい?だんなぁ・・・困らせないでくだせえよ。そうだね、ほら、もうそろそろ休もう。お茶の用意ができているよ――

サムは、もう自分のなすべきことが分かっていました。これからどうするべきなのか。もう、思い出を胸にしまう時でした。幸せだった、あの日々を。

『フロドの旦那。どうかサムめをお許しください。サムが行くのをおゆるしください。おらは、旦那のことが、大好きでした。誰よりもやさしくて、誰よりも賢い旦那が。おらは好きで好きでたまらないくらい好きでした。その旦那をひとりぼっちで残していく、このサムをお許しください。おらは、行かねばなりません。でももし仕事が片付いちまったら、おらは必ず戻ってまいりますだ。いいえ、それより早く、旦那のおそばに行けるかもしれません。でも全てが終わってまだサムが生きておりましたら、旦那のおそばで永遠に眠りますだ。旦那のすぐそばに。そしたらもう、ずっと一緒ですだ。離れません。おらも旦那も朽ち果てるまで、ずうっと。そういえば、ちょっと前にこんなこともおっしゃいましただね。ホビット庄に一緒に帰って、こうしてサムの腕の中に眠りたいと。それは叶えられませんが、せめてサムだけ、おそばにおりますだ。ここはあそこほどいいとこじゃねえですだね。でも、せめてサムの腕の中で・・・それだけは、叶えてさしあげられますだね。でも今は、行かなきゃなんねえんです。そんなサムをお許しください。フロドの旦那・・・。』

「英雄の決断」に続く。