15・歌声に導かれて

 

サムは、いつの間にか自分が走り出していることに気がつきました。遮る物のない道、収めるべき鞘のない刃、押さえられない気持ちがひとつになって、サムの足を前へ前へとおしやっていました。自分の身を省みることはしませんでした。回りの危険だとか、今頃フロドはどうなっているかも考えられませんでした。ただ、あそこに――あの黒い塔に――辿り着ければそれだけでフロドにきっと逢えるという想いだけがサムの頭の中を占めていました。そしてサムは、塔の入り口を見張っているべきオークがそこにいないことに多少の疑問だけを残して、争いが下火に、つまり大方のオークが争ってほぼ死んでいった後の塔の門をくぐりました。

サムは、その忌々しい造形のなされた塔の中に、オークの屍骸があるのを見ました。その目はどれもがサムを見ておらず、どす黒い血の下にある口はどれもが警告を発しませんでした。ふと、サムは我にかえりました。どうしてここにいるオークどもは皆倒れているのだろうかと。そして空寒い思いに一瞬囚われかけました。
『オークがみんないなくなっちまった。そんなことってあるだか?オークも生きてられないような中で、フロドの旦那はどうやって生きてなさるんで?』
そこまで考えて、ふるふるとサムは頭を振りました。
『悪い方に考えるなよ、サムワイズ・ギャムジー!お前の悪いくせだ。オークがいないならいいじゃねえか。沢山いたらそれこそお前、フロドの旦那を助けるどころかおんなじ目にあっちまうじゃねえか。だからって旦那が無事なんてどうして分かる?いんや、分かるさ、サムワイズ!お前の心はどう言ってる?ガンダルフの旦那がいつも言ってたじゃねえか。心の声に従えってよ。それでもわかんなくなったら臭くない方に進めってよ。でもよ、臭くないところなんて、この場にあるのか?』
堂々巡りしかけた思考を、サムはうぉぉぉと吼えるような声を出すことで追い払おうとしました。
『おらは旦那を助けるんだ!ただそれだけ考えてりゃ、それでいいだ!』
その声はがらんどうになった塔の中に小さく響き、その影は曲がりくねった階段に大きく映りました。そしてほんの少しだけ生き残っていたオークを怯えさせ、サムを大きく恐ろしく見せました。オークにとってのそれは、サムが物陰から姿を現すと消えてゆきましたが、サムにとってその考えは決して消えませんでした。今更怯えたオークの三匹くらいなんなのでしょう。フロドの旦那を助けると、本当の意味で誓ってからの気持ちには、それを成し遂げるだけの力がありました。
「これはフロドの旦那の分だ!」
サムがつらぬき丸を一閃させると、腰の引けたオークが落ちてゆきました。
「これはホビット庄の分だよ!」
青い光を保ったままの刃は、黒い血を浴びて尚、煌々と輝いていました。
「そんで最後にゃ、とっつぁんの分だ!」
その場にいたオークは全て、他のオークたちと同じ運命をたどることになりました。そしてサムにはもう、生き物を殺すことに対する呵責も後悔も浮かんでいませんでした。それは危険な考えです。フロドがこの場にいたのなら、またあの階段での出来事と同じように顔をしかめ、涙を流し、そしてサムに切っ先よりも鋭い言葉を投げかけたのでしょう。しかし、その言葉は今のサムには似合いませんでした。怒りと希望と焦りに足を前に運ぶ、勇敢なるサムワイズには。サムはただ、主人にひとめ逢いたいとそう願っていただけでした。その深く青い瞳をもう一度見たい、その白く華奢な手にもう一度触れたい、ただそう想っていただけでした。
 

サムは、悲鳴をあげる足を休ませることなく、上へ上へと塔を登っていきました。痛いという感覚は既になく、怖いという心境もどこかに忘れてきたようでした。しかし、これ以上登れないのではないかという場所に辿り着き、サムは途方に暮れました。これで一番上に上ったはずでした。どれくらい上がってきたのかは分かりません。心の声に従って、ここまで来たのでした。それでもそこにはフロドの姿はなく、ただ今まで通りオークが倒れているだけでした。その背後にある黒く汚れた梯子段に気がつかずに。サムはもうだめだと感じました。ここまで自分を突き動かしてきた炎が急にしぼんでいきました。静かでした。何も聞こえず、耳が痛くなりました。頭を抱えてしゃがみこむと、周りの闇が音も立てず体を押し包んでいくのが感じられました。するとその時、サムは自分でも驚いたことに、唄を口ずさんでいました。途方にくれ、寂しさに千切られ、疲れ果てたその歌声は、不思議なことにサムの周りの暗闇を取り去っていきました。歌から言葉が生まれ、言葉から力が湧き出てきました。自然と口をついて出るその言葉は、徐々に響き渡るということを知ってゆきました。

闇を裂き月の昇る西の国に
 いつか春が訪れるだろう 鳥は歌い 花が咲き そして命が芽生える春が
 

暁にエルフの星が輝く東の国に
 いつか春が訪れるだろう 木は茂り 水が湧き出 そして命が燃える春が
 

灯が燈り影も隠れた北の国に
 いつか春が訪れるだろう 星は輝き 土は肥え そして命が育まれる春が
 

虹が映え雫も消えた南の国に
 いつか春が訪れるだろう 橅は揺れ 日は昇り そして命が続く春が
 

たとえこの身がここで果て 暗闇の底に沈もうとも  
黒き山々をはるか越え 日はまた上るだろう
あらゆる影を見下ろして 星は永遠に輝くだろう
 

影に別れを 日に迎えを
闇に終わりを 星に始まりを
 

言葉が尽き、もうそれを一度繰り返そうとしたサムは、はたと口をつぐみました。かすかな、風の音とも建物の軋みとも思える細い声が、聞こえたような気がしたからでした。もう何も聞こえません。サムは必死で言葉の一フレーズを繰り返しました。するとサムは、その歌に応える声を確かにそこに聞き取りました。しかしそれは無遠慮な足音にかき消され、そしてもう二度と聞こえませんでした。

「本当の救出」に続く。