Unforgettable
Memories
これは、フロドが西へ去ってから随分たってからのお話です。
今年の夏至にローズ夫人が亡くなり、それ以来庄長サムワイズ殿は何か変わったと言われていました。ホビット庄の若い者に言わせれば簡単なことで、庄長もお年、長年連れ添ってきた奥方が亡くなってさみしいんだろうよ。ということになるのでした。しかしそれだけではないことを分かっているホビットはただ一人、サムワイズ殿の娘、エラノールだけでした。エラノールはアルウェン王妃の所から、生まれ故郷のこの袋小路屋敷に帰ってきて、母の葬儀を済ませました。そしてなんだかいつもと違う父親をほおってはおけず、そのまま屋敷に留まっていました。
エラノールは自分の父親でありながら、サムワイズ殿が最近知らないエルフのような気がすることを感じずにはいられませんでした。いいえ、サムワイズ殿は見た目は何も変わっていません。少なくとも、七回も庄長を勤め上げた立派なホビットらしからぬ質素な服に、柔和な微笑み、穏やかな口調はいつもと変わりません。しかしどこかしら雰囲気が違って見えるのでした。それはサムワイズ殿の身体のどこからともなく漏れ出てくるような光のような気もしました。最近くせになったかのように遠くを眺める視線の奥、澄み切った瞳の色のような気もしました。それらが全て、サムワイズ殿の心のどこから出ているのか、エラノールにはぼんやりとではありますが分かるような気がしました。
エラノールはサムワイズ殿に、どうしたのです?とは聞きませんでした。遠くを見つめる瞳をする父親に、それは言ってはならないことなのだと分かっていました。そしてそれが母親の死に対するものと、それ以上に何かを求めるものであるからでした。もし母親のことだけであれば、この心優しいホビットは父親にかけてやる言葉をいくつも知っていました。どんな表情をすれば良いのかも、知っていました。しかしサムワイズ殿が最近想っているのは、もっと別のことだと、分かっていました。ですから、エラノールは今日も何も言わずに、どことなくぼんやりとして暖炉の前に腰掛ける父親を気にしながら、編物をしていました。しかし9月も近い今日、父親の目には何か苦しそうな表情が見て取れたのでした。
「ねぇ、父さん?」
エラノールは暖炉の火をじっと見つめる父親に向かって、そっと話し掛けました。手の中の編物はそのままに、そっと視線だけをサムワイズ殿に向けました。
「久し振りに、父さんとフロドの旦那様のことを聞かせてよ。」
エラノールは、自分でもなぜそんな言葉が口からついて出たか分かりませんでした。それはむしろ、サムワイズ殿の沈黙が言わせた言葉のようでした。ふと、サムワイズ殿は目を上げました。そこに、ローズがいるような気がしたのでした。ローズに、そう聞かれたような気がしたのでした。昔、まだエラノールが娘だった頃、他の子供たちもまだ幼くローズは元気で、暖炉の火をみんなで囲んで昔話をしている時のような気がしたのでした。しかしそれはサムワイズ殿の思い過ごしでした。そこにはたった一人、エラノールしかいませんでした。サムワイズ殿の息子や娘たちは立派に育ち、それぞれの生活を、精一杯生きているのでした。そんなことをつらつらと思い出し、サムワイズ殿は小さく笑いました。
「なあに、父さん?」
エラノールはそんな父親が不思議で、きょとんとした目になって言いました。
「いいや、何でもないだよ。」
サムワイズ殿は、昔のままの、庭師の口調でそう言いました。エラノールはお妃さま仕えのおかげで美しい言葉を話すのですが、サムワイズ殿はその自分の生まれ育った庭師にふさわしい口調を、一生あらためることはありませんでした。
「ちょっと、思い出しただけだ。そうだな、こんな日にゃ、フロドの旦那の話が妙にしたくなるだ。」
サムワイズ殿はそう言って、そっと指を組み、膝の上に置きました。また視線を暖炉の火に戻して、そうしてゆっくりと話し始めました。夏と緑の匂いが漂うのに、なんだか寒いような静かな夜でした。
エラノールは、庭師サムとフロドの話をもう何度も何度も聞いているはずでした。しかし今日聞く話は、今まで聞いたことのない話でした。サムワイズ殿は、ゆっくりと、ゆっくりとその胸に秘めた想いを汚さぬよう、穢さぬよう、ぽつりぽつりと話していました。庭師サムが主人に抱いていた愛情と、フロドが抱いていた感情について。はじめてフロドを抱きしめた日のこと、はじめてフロドに触れた日のこと、フロドとの別れにそっとしたキスのこと。それは何か神聖なことのように感じられました。いつの間にかエラノールは編物の手を休め、じっとそれを話すサムワイズ殿の顔を見つめていました。その顔は実に穏やかで、どこか透き通って見えました。話の中に出てくるフロドのように、それはそれは美しいものに見えました。そして話す声は今まで聞いたことのないような優しい響きを持っているのでした。
どれくらい長い間、サムワイズ殿の話は続いていたでしょう。さいごに、サムワイズ殿は小さいですがはっきりとした強い声で言いました。
「おらの今話したことは、みんな本当の話だ。エラノール、お前も知ってるとは思うだが、ビルボ大旦那やフロドの旦那からおらが引き継いだ赤表紙本とは別に、おらが長年大事にして書いてた本がある。それに全部、今のことが書いてあるだよ。それを、お前に渡したい。誰かに見せろってことじゃねえ。みんなに知ってほしいってことでもねえ。ただ、そんなことがあったってことだけ、誰かに伝えたかっただけだ。おらと旦那の心の中に、確かにそんな気持ちがあったってこと、嘘じゃねえ、本当にあったってことだけ、この世界に残してえだけだ。」
それを聞いて、エラノールははっとしました。今まで父親が何を考えていたのか、やっとはっきり分かったのでした。サムワイズ殿は、この地を去るつもりなのでした。この中つ国を去って、遥か西の彼方、海を渡るつもりなのでした。そして確かにその先に待つ主人のもとへ、戻ろうとしているのでした。
「父さん・・・」
エラノールはそれ以上の言葉が出てきませんでした。はっと目を見開いて、震える手を口元にあてるのが精一杯でした。
「おらは9月22日にここを出てくだ。ビルボの大旦那と、フロドの旦那の誕生日に。ローズはもういなくなっちまった。お前たちも、もう立派なホビットだ。フロドはちゃんと一人前におらのあとを継いでる。もう、おらにはここにすべきことがない。おらは、どうあっても長年の誓いを守らなきゃなんねえ。フロドの旦那のもとへ、おらは帰らなきゃなんねえんだよ。それが、おらの、たったひとつの、最後の願いだ。」
はっと気が付いた時、エラノールは無意識のうちに父親の胸の中に飛び込んで泣いていました。その暖かい腕にしがみついて、小さな子供のように声をあげて泣いていました。
「父さん、父さん!」
それを、サムワイズ殿はそっと優しい目で見つめ、娘の美しい金髪をそっとなでてやっていました。エラノールには分かっていました。父親の決心は固く、もう誰にも変えられないと言うことが。それが本当のサムワイズ殿の幸せなのだと。しかしこう言わずにはいられなかったのでした。
「どうして?どうしてなの?」
エラノールは溢れる涙をぬぐおうともしませんでした。ただ、サムワイズ殿がはるか遠くの地へ去ってゆくことに痛む心を抑えることができませんでした。中つ国を去り、もう二度とはこの地を踏むことはない。そう思うだけで、胸がいっぱいになり、嗚咽となって口から零れ出るだけでした。
サムワイズ殿は、そんなエラノールの涙がすっかり乾くまで、そっと抱きしめていてやりました。そしてそっと涙ではれた目を娘が上げると、にっこりと、寂しそうに、でも幸せそうに微笑みました。それは、庭師サムがかつて見た、フロドの微笑みのようでした。
「エラノール、おらには忘れられない約束があるだ。忘れられないひとがいるだ。そこに、おらは還っていくだけだ。悲しまねえでくれ?なぁ、エラノール。」
エラノールはふっと、父親の表情が遠くなるのを感じました。どこか、遠くへ、遠くへと。目を閉じたサムワイズ殿は、何を思ったのでしょう。その顔は、哀しみと切なさに押し流されそうな、それでもどこかにある喜びを抱いているようでした。
忘れません。
忘れられません、あなたのことは。
どうして忘れられましょう。
美しく、優しいあなたのこと。
一日たりとも忘れたことはありません。
あの冒険の日々、それに平和だったあの頃。
ずっと、あなたは私の心の中にいたのです。
あなたは今、どこにいるのでしょう。
あなたは今、何をしているのでしょう。
あの頃のままの微笑みで、笑っているのでしょうか。
ビルボの大旦那と、ガンダルフの旦那と、一緒にいるのでしょうか。
幸せになるのだよ。
あなたの言葉が今も胸に残っています。
あなたの微笑みと一緒に。
ありがとう、ありがとうございます。
私は今、幸せです。
こんな私の人生に、もったいないくらい、幸せです。
長年連れ添ったローズにも、きちんとさよならを言えました。
最期まで、側にいてやることが、できました。
息子たちも、娘たちも、みんな立派なホビットになりました。
見てくださいませ。
あのちっちゃなエラノールが、こんなに大きくなったんですよ。
こんなに美しい娘になったんですよ。
きっとあなたは言うでしょう。
お前に似て、とてもきれいだよ。と。
今でも私には分かりません。
私の何がきれいなのか。
あなたの瞳や、あなたの心以上にきれいなものなんて
何もないと思うのに。
私はもうすぐ、あなたのもとに還ります。
その時にまた、サム、と呼んでくださいますか?
あの頃のままの微笑みで。
私を、まだ待っていてくれるのですか?
あなたが言ったこと、私は忘れません。
幸せになるのだよ。
立派なことをたくさんたくさん、するのだよ。
そうしていつか、わたしのところに、
帰っておいで。
冬が、いつか春に還ってくるように。
春が、いつか夏に還っていくように。
幸せに、なるのだよ。
わたしの、サムや。
ええ、ええ、すぐまいります。
旦那のサムが、すぐにまいりますだよ。
私は今、とても幸せです。
涙が出るくらい、私はしあわせです。
おわり
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