10・翼に乗ったナズグル

 

 突然、大気をつんざく悲鳴のような声が一同の耳を突き抜けました。サムはがばっと身を起こし、空を仰ぎ見ました。
「キアアァ!」
ゴラムの叫び声が悲鳴に隠れて響きました。
「黒の乗手だ!」
サムも叫びました。
「隠れて!隠れて!」
ゴラムがそう言って近くの茂みに入ろうとした時でした。
「ぐぅっ・・・あぁ・・・」
フロドが突然、全身に走った痛みと指輪の重み、それから天地がかえるような眩暈を感じてその場に倒れました。
「フロドの旦那!こっちへ、こっちへ来るんですだ!旦那!」
サムがそう呼んでもフロドには届いていませんでした。
 

 フロドは黒の乗手の声以外、何も聞こえなくなりました。力は全て指輪のあたりに吸い取られ、立っていることができませんでした。それだけではありません。フロドの目の前がいつかの光景になりました。目の前にかつての王たちが立ちはだかっていました。霞の世界の中で真っ白に禍々しく輝くナズグルたちがいました。骨のような顔に飾り立てた王冠、背骨が凍るような悲鳴。ナズグルの首領はフロドにモルグルの剣を突き刺しました。そうです、アモン・スールのあのシーンが、フロドの記憶の中からフラッシュバックしたような感覚でした。フロドは痛みに呻きとも喘ぎともつかない悲鳴をあげました。痛みはかつての時よりもさらに強く、さらに冷たくフロドを襲いました。心の痛みは身体の痛みでした。息もできませんでした。いくつもいくつもの恐ろしい場面がフロドの目の裏に焼き付けられました。指輪は今、ナズグルに呼ばれて大いなる力を発して持ち主のもとに帰ろうとしていたのでした。

「旦那!」
サムは上空からすっかり見えてしまう野原に倒れたフロドを助けようと茂みから飛び出しました。ゴラムはその場にうずくまって動けませんでした。
「旦那!こっちですだ!」
そうしてサムはフロドを後ろから抱きかかえ、茂みまで引っ張ってきました。どうしたことか、フロドの身体が重く、その場に縫い付けられているように感じました。それでもどうにかサムはフロドを運んでくることができました。するとそこには耳を押さえてぶるぶると震えるゴラムがいました。
「わしらをわしらを見つけるよ!わしら見つかるよ!」
「そんな!やつらは死んだはずだ!」
サムは自分の目で確かにナズグルたちが消えゆくのを見たはずでしたので、信じられなくてそう言いました。
「死んだ?ちがうよ、誰もあれを殺せないよ、誰もだよ!」
するとどうでしょう。ナズグルが翼に乗っている姿がサムに見えたのでした。首の長い、真っ黒な翼と爪と牙を持った怖ろしい姿のかれらの馬でした。それはまっすぐにフロドたちのいる沼の真上に飛んできました。
「幽鬼だよう、幽鬼だよう!」
ゴラムが目を瞑って叫びました。
「翼に乗った勇気だよう!あいつらそれを呼んでるよ。あいつらいとしいしとを呼んでるんだよう!」
フロドはゴラムの声が聞こえたわけではありませんでした。ですが、指輪と幽鬼の呼びかけに応じて指輪をまさぐろうとしました。フロドの手が、指輪に近づくほどナズグルはここに降りてきます。それをはめたらもう全ての終わりでした。しかし、サムがそれを止めたのでした!
「フロドの旦那!フロドの旦那!」
サムはフロドの表情と額に浮かんだ玉のような汗を見て、よくない事態に陥っていることを悟りました。そしてなんとフロドの手が指輪を求めて彷徨っているではありませんか!サムはフロドの胸元に入ろうとするフロドの手を掴みました。そしてしっかとその手を握り締め、両手でフロドの手を止め、そっとフロドの手に唇を寄せました。
「フロドの旦那、大丈夫ですだ。大丈夫ですだ。」
そう囁き続けました。そしてフロドの額に頬をあて、顔を寄せ合いました。まるで口付けするようにフロドを身を挺して守ろうとしました。するとどうでしょう。ナズグルの空飛ぶ乗り物が、急に行き場を失ったかのようにその上空で旋回しはじめました。そしてフロドの呼吸が落ち着き、サムの手に力が入るにつれて混乱したかのように遠ざかり、そしてついにはその場から飛び去ってゆきました。
「急いで、ホビットたち!黒門はすぐそこよ!」
ナズグルが見えなくなると途端にゴラムが走り出しました。ゴラムにもホビットたちを振り返る余裕がありませんでした。それでもゴラムはフロドとの約束を忘れてはいないのでした。
 

サムが手を離し、そっとフロドを覗き込むと、フロドの額から汗が引いていました。もうフロドには周りが見え、サムの声が聞こえました。
「あぁ、サム!」
フロドはこわい夢から覚めて、あたりがまだ見慣れた世界であることを思い出した子供のようにそう言いました。
「もう行ってしまいましただ、フロドの旦那。もう大丈夫ですだ。」
サムはフロドの額にはりついた捲毛をそっと指で払い、フロドを助け起こしながらそう言いました。
「ゴラムのやつもう走って行ってしまいましただ。追いかけられますか?」
「ああ、どうにか行けるよ、サム。ありがとう。またお前に迷惑かけたね。」
「迷惑だなんてそんな!」
サムは恐縮したと言うよりはむしろ怒ったようにそう言いました。
「おらは旦那をお守りするって自分に誓ったです。その気持ちは今でも変わっちゃいませんだ。いや、その時より強いくらいで。」
そしてじっとフロドの目を覗き込みました。こわいくらいの真剣な眼差しで。フロドは急に、力が湧いてきたように思いました。この瞳が常にそばにあれば、自分は大丈夫だと思えました。
「ありがとう、ありがとう、サム。」
そう呟いて、フロドは立ち上がりました。
「さあ、見失わないうちに追いかけますだよ。黒門はもうすぐですだ。」

「黒門」に続く。