14・塔の中の争い

 

あれからどれほどの時間が経ったのでしょう。フロドは二度と見えることのないと本能が感じた世界を、再び目の前に見ていました。しかしそれは死から絶望と名を変えただけでした。全てが無に帰す意味で、フロドにとって何の変わりもありはしないのでした。身体の自由はまだ利かず、かろうじて残っている聴覚は醜い言葉を聞き取るだけでした。かすむ目で見えた風景はどこもかしこも薄暗く汚れていました。感覚がおかしくなったのか、身体の痛みは自分のものではないように感じられました。確かにこのホビットの身体には無数の傷がついているのに、鈍い感覚がだるさを伴ってフロドを支配している以上の苛烈な痛みは感じられませんでした。後ろからは耳障りな音がそんなフロドの感覚を逆撫でするように降ってきます。
「触るな!こいつの持ってるもんは全部、偉大なる御目に差し上げる。」
フロドはそれが何を意味するのか、一瞬分かりませんでした。
 

『ああ、どうしてわたしを起こすのだい。そんな声を聞かせないでおくれ。わたしのサムはどこなんだい?・・・サム?』

口の中だけでそう繰り返したフロドは、はっと現実に無理やり引き戻されたような頭痛に襲われました。手を動かそうとすると、頭が割れるように痛みました。そして手首も締め付けられる感触がありました。黒い不潔な縄で縛られた両手が視界に入りました。そして自分の姿は何も身につけていませんでした。その身体は煤で汚れ、埃にまみれ、自分の血液と瘡蓋とそれから内容を知りたくもない液体で濡れていました。何ということでしょう、フロドはオークに生きたまま捕まってしまったのです。それをやっと理解した頭は、すぐさま首に違和感を覚えました。今まであんなに重かったものがありません。今まであんなに自分を苦しめたものがありません。指輪がなくなっていました。

「それは俺様のだ!よこせ!」
「何を言ってやがる、このモルグルのネズミ野郎が!」
 

フロドの背後で、この小さいホビットが目を覚ましたことに気がつかないオーク同士の争いが繰り広げられていました。その喧騒を呆然と聞くフロドの心を、絶望が苛んでいました。指輪がオークの手に渡ってしまったのです。サウロンの元に届けられるのも時間の問題でしょう。世界が闇に没するのも一瞬の出来事でしょう。かすかな希望が全て潰えてしまったのです。命を賭して自ら希望となっていたはずが、生きたまま絶望を運んでしまったのです。もう、何の望みもありませんでした。いつも側にいたサムもいません。帰る家もなくなるでしょう。エルフたちは去るか闇の力に耐え切れず消えるでしょう。人間はナズグルのように堕ち、ホビットは使役され苦しみ死んだ方良かったと思える風景を見るでしょう。全てがここで終わってしまったのです。動かない身体と一緒に思考まで停止し、フロドはぴくりとも動けなくなっていました。呼吸さえできません。そうするのを肺が忘れてしまったかのようでした。遠くなる音が耳の奥に残りました。何かが落ちる音がしたかと思えば、その後にはるか下から更なる争いの音がはるかかなたで起こりました。指輪を取り合う音でしょうか。そのための醜い争いでしょうか。そして指輪はどこにあるのでしょうか。それは考えても詮無いことでした。フロドには何もできないのです。どれくらいの数がいるのか分からないオークたちの群れの中にホビットが一人。無力という言葉では片付けられないこの状況をどう表現すればよいのでしょう。涙を流すことさえできませんでした。この絶望の中にたった一人。闇の中にたった一人。ホビットの身体は、あまりに小さく、そしてあまりに弱いものなのでした。

「歌声に導かれて」に続く。