The one ring is eating him・・・
これは指輪の力で病みゆくフロドの物語です。
フロドとサムが旅の仲間のもとを離れ、二人で旅立ってから幾日かが過ぎようとしていました。ラウロスの轟々たる音が聞こえなくなってもう随分たちました。二人の周りには微かな腐敗臭と乾ききった感触の岩や砂があるだけでした。
「まったくもって嫌になっちまいますだ!」
フロドの前を歩いていたサムがそうこぼしました。サムはフロドに聞こえるようにも言ったはずでした。この歩くだけで気が沈むような土地を踏みしめる他にすることはありません。ならば少しでも気を紛らわそうとサムは主人によく話し掛けました。それは自分のためでもありはしましたが、主にフロドの気持ちを今、ここにつなぎとめようとする役目をより多くもっていたのでした。フロドの返事はありませんでした。
『旦那・・・』
サムは心の中で哀しみにくれました。フロドの返事がないのはこれが初めてではなかったのです。
フロドは旅立ってから幾度となく何かに気を取られていることがありました。その瞳は遠くを見つめているのか近くを見ているのか、サムには分かりませんでした。青い瞳は何かに捕らえられ、光を失った目には絶望という名の闇がかかっていました。そしてそこにはサムの知りえない狂気という色が必ず混じっているのでした。そして徐々にそうなる時間の感覚が短くなっているのでした。しかしそれは常ではありません。そうなる時以外、フロドは前と変わらず優しく賢いホビットのままだったのです。ですからサムはフロドが変わり行く様を信じたくありませんでした。
「ねえ、旦那!この砂やら岩ときたら、霜の降りた畑の乾いた土の中からじゃがを素手で掘り出すような背筋のぞわっとするような感じじゃねえですかい。」
サムは返事のないフロドに気が付かなかったようにそう言いました。わざと明るくそう言ったサムは表情までもフロドのために明るくする術を学んでしまったかのようでした。
『まったくおめえらしくねえこった、サムワイズ・ギャムジー。』
サムは自分の心の中だけで自嘲するようにそう呟きました。しかしサムはそうすることでしかフロドを支える事ができなかったのです。サムは知っていました。フロドが心の中で何かおぞましきものと戦っていることを。それが、フロドの胸に掛かる指輪とこれから行く先に待ち受ける力であることも。そして自分は笑顔を作る事でしか主人を救えないということも。
サムは少しぎこちない笑顔でフロドの方を振り向きました。
「そうじゃねえですか、フロドの旦那。」
フロドはサムが振り返ってもしばらくはそれに気がつかないでいるようでした。視線は地に落ち、うっすらと開かれた唇からは重い吐息だけが忍び出ているようでした。サムはいけないと思いました。このままではいけないと思いました。ですからサムは、サムに気が付くことなく足を進める主人に向かって、つまり後ろに向かって一歩足を踏み出しました。
「フロドの旦那?」
サムはそれでもフロドが気付かなかったらもうどうしたらよいか分かりませんでした。ですからありったけの気持ちをこめてそう話し掛けました。先ほど無理矢理作った笑顔もいつの間にか消えてしまっていました。サムの瞳にはただ心配と不安と、主人が主人でなくなる恐怖だけが渦巻いていました。フロドがすっと視線を上げました。
「ああ、」
フロドの口からこぼれた言葉は一体何に向けられたものなのでしょう。少なくともそれはサムに向けられたものではありませんでした。疲れ果て、行くあてのない旅人の夢ようでした。サムは突然苦しさに襲われたような気がしました。胸が締め付けられ、空気の足りないサムの頭は割れんばかりに痛むように思いました。サムの目にわけもわからず涙がこみ上げました。
「旦那ぁ!」
サムはフロドを真正面から、涙でけぶるその先の主人を見つめ、その細い華奢な肩を両手でつかみ、揺さぶってフロドの名を呼びました。
「フロドの旦那!旦那ぁ!」
その声は懇願の響きを持っていました。どうか助けてくださいと、何かにすがりつくような声でした。それでもフロドの目は何も見えていないようでした。サムはぽろぽろと大粒の涙をこぼしました。フロドの方を掴んだまま、サムはうなだれ、自分と主人の足元に小さな涙のしみができるのを見ることしかできませんでした。
「お願えですから・・・戻ってきてくだせえまし。旦那のサムが待ってますだ。」
どれだけそうしていたでしょう。サムは自分の手に――力をいれすぎて白く血の気を失った手に――何かが優しく触れるのに気が付きました。足元のしみは広がり、まるでそこだけ雨が降ったようでした。
「どうしたんだい、サムや。」
それはフロドの声でした。いつものフロドの声でした。優しく暖かく、低くもなく高くもなく、エルフのような澄んだ響きを持ったフロドの声でした。
「フロドの旦那!」
サムはその声に弾かれるようにばっと顔を上げました。そこには少し困ったような、それでも優しく微笑むフロドの顔がありました。その笑顔には力はなく、今長い長い旅から帰ってきたような疲れきった瞳の色をしていましたが、間違いなくそれは常のフロドでした。
「何を泣いているのだい?」
フロドは本当に何がおきたのか判じかねているようでした。
「ねえ、サムや。」
そう言ってサムの左手を自分の肩からそっとはずし、それに小さく口付けしました。サムはそれを見てはっと我に返ったようにもう片方の手を肩から離し、涙をぐいっと乱暴に拭い去りました。そして見るのも苦しいような切ない微笑みをその口元に浮かべました。
「何でもないんですだよ、フロドの旦那。」
「そのようには見えないけれどね。何かあったのかい?」
「いいえ、ほんとに何でもないんで。ただちょっとこの乾いた砂がおらの目に入っただけで。」
フロドはそっと足元を見ました。そこにはサムの涙のあとがまだ残っていました。それだけでフロドは悟ってしまいました。サムは自分のためにまた涙を流さなければならなかったことを。そして自分のためにまた、こんな苦しい笑顔を作らなければならなかったことを。
「お前・・・」
「ほんとうに!旦那が心配なさることなんて、何一つねえですだよ!」
サムは何か言いかけたフロドの言葉を強くさえぎって叫ばんばかりにそう言いました。フロドが何を言おうとしたのか、サムには分かるような気がしました。すまない、サム。と、わたしのためにすまない。と。サムはフロドにそんなふうに謝ってほしくありませんでした。願わくは何事もなかったかのように主人が歩き続けられたらと、それだけを祈っていました。
「さあ、まだ歩けますかい、フロドの旦那?」
サムは少し乱暴にフロドの手首を掴んで涙で濡れた顔を見られないように先にたって歩き始めました。
「今日はまだ長いですだよ。」
「そうだね。」
フロドがそれだけ言ってサムに引っ張られてでも足を進めはじめたのが分かって、サムは少しだけ、ほんの少しだけ安堵を感じました。そして小さくこう思ったのでした。
『旦那が何かでどうなろうと、フロドの旦那には違いねえ。たとえ遠いところへ心がゆかれても、それは旦那には違いねえ。旦那がここへ、おらのところへ戻ってきてくださる限り、おめえはそれを忘れちゃなんねえだよ、サムワイズ・ギャムジー。どうなろうとも旦那の心だけ奪うようなことはさせねえ。いや、何度だっておらは旦那を呼ぶだよ、どんな遠くても旦那はおらの声に気が付いてくださるだよ。おめえはそれを信じてるんじゃなかったのか?そうだ、おめえが悲しんでどうするだ、おめえが旦那の心を信じなくてどうするだ。旦那はきっと帰ってきてくださる。薄闇の世界からよ。だからもう泣くな、サム!おめえの泣き顔なんて旦那は見たくねえはずだ。だからよ、ほいな!笑ってみなよ、サムワイズ!きっと旦那も笑ってくださる。』
「今日はとっておきの干した果物を出しますだよ。」
サムは乾いた涙を覆い尽くすような暖かい笑顔をフロドに向けてそう言いました。もう悲しみはどこかに置いてきたと言わんばかりの優しく強い笑顔でした。それを見て、フロドは一瞬こみ上げる気持ちに耐えられなくなりそうでしたが、手首を掴むサムの手を両手で握り返して微笑みました。
「そうだね、ありがとう。」
二人の行く手にはまだ遠い道のりが横たわっていました。出会うべき人々と、出会うべき者が間近に迫っていました。しかし今日はもうフロドの瞳に闇がかかることはありませんでした。二人を取り囲む静寂も穏やかに闇を通り過ぎていきました。フロドはサムに一歩近づき、もう一度、今度はささやくように言いました。
「ありがとう、わたしのサムや。」
おわり
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