The Great Year of Plenty
フロドは窓辺に腰掛けていました。月のない闇か、そのまた奥の星か、西の海原か、それともずっとずっと遠くのエルフの故郷か、何をフロドが見つめているのか、サムには分かりませんでした。サムが入ってきたのに気がついていても、フロドは振り向きませんでした。
「サムが来ましただよ。フロドの旦那。」
サムは明るくそう言おうとしました。しかし少しだけ、ほんの少しだけ、声が震えたようでした。サムにも分かっていました。この時が、どれほど大切なのかが。もう中つ国では二度と手にする事のない、ふたりの時間だということが。サムは音を立てないように水差しをベッドの脇に置き、あの頃のままの小さな花瓶にマルローン樹の花をさしました。そして一枚だけ花びらを手に取りました。
「旦那・・・」
サムはそっとフロドに歩み寄りました。サムは、フロドが泣いているのではないかと思いました。これから暮らすのは一緒ですが、サムが本当の意味でフロドのもとを去ることを、フロドは耐え切れないくらい悲しんで、今泣いているのではないかと思いました。花びらをフロドの肩にそっとのせて、サムはフロドのすぐ後ろでささやきました。
「今日咲いた金色の花ですだ。奥方様の、きれいな花ですだ。」
サムは自分からフロドの泣き顔を見れないと思いました。振り向いてもらえなかったら、どうしてよいか分かりませんでした。
「ああ、綺麗なマルローンの花。」
そう言って振り向いたフロドは泣いてはいませんでした。声も、少しも震えてなどいませんでした。サムはほっとしそうになりましたが、フロドの顔を見てはっとしました。フロドの瞳は深く哀しみをたたえていました。まるで思いを遠く故郷へはせるエルフのようでした。涙は枯れてしまったかのように溢れることを知りませんでした。落ち着いたその青はサムの心の一番深いところまでじっと見ているようでした。サムは、何も言えなくなりました。たくさん、話そうと思っていたのに、それが全ていらないことが分かりました。ただお互いの瞳を見るだけで、サムはフロドの哀しみとサムへの祝福と幸せを願う気持ちが分かりました。言葉は必要ありませんでした。
フロドは音もなく立ち上がり、花びらを水差しに浮かべ、そっとサムの頬に手を当てました。
「お前は素晴らしいホビットだ。わたしにないものを全て持っている。」
『そんな!』サムはそう言おうとしましたが、声が出ませんでした。
「わたしの思っていることも、賢いお前になら分かるはずだよ。」
フロドはサムの手を、土と太陽と草木のにおいのする大きな暖かい手をそっと取りベッドに腰掛けました。
「何もいわないでおくれ。」
フロドはサムの悲しそうな顔を見てそう言いました。
「分かっているから。」
「分かっているから。」
「今夜で終わりなのだね。」
「おいで。わたしのサムや。」
サムは、まるでフロドの言葉に縛られてしまったように動けませんでした。フロドがサムにそっと唇を重ねても、サムは動くことができませんでした。静かな穏やかな口付けは長い間かわりませんでした。このまま、時が止まっているかのようでした。フロドが舌でそっとサムの唇を辿り、頭の芯がくらっとしたサムに自分を倒させるまで。
はっと気がつくとサムの世界は反転していました。自分の腕の中に星あかりとマルローンの花だけに照らされてなお、ほの光る真っ白い主人の身体がありました。痛々しいほどにやせ衰えた時期は過ぎ去りましたが、それでも主人の身体はもとには戻りませんでした。手を差し出され、サムはそっとフロドに覆い被さるように顔を近づけました。
「すまねぇです・・・」
目を閉じて、フロドは捲き毛と同じ黒く艶やかな睫毛を伏せました。フロドの耳元でそうささやいたサムの声は、しまわれていたフロドの涙を一筋だけ溢れさせました。フロドが流した涙は、これが最後でした。
フロドの涙をサムは不器用な唇でそっとぬぐってやりました。フロドはサムの首に腕を回してサムを抱きしめました。
「すまない、サムや。・・・・ごめんね。」
はっと息を呑んだサムはフロドの何倍もの涙を流しました。はらはらと、フロドの頬にサムの涙の雫がこぼれおちました。
夜鳴き鳥のさえずりさえ聞こえない静かな夜でした。涙を拭うこともせず、サムは深く深くフロドに口付けました。その合間にもれる、フロドのかすかな甘い吐息だけが部屋を満たしました。フロドが息もままならない口付けにサムの肩に弱々しく震える手をかけるまで、長い口付けは続きました。
「はぁっ。」
と大きく息を吸い込もうとしたフロドとサムの唇の間を銀の筋がつなぎました。潤んだ目と少し上気した頬、煽情的なそのフロドの表情にサムは捕えられたようでした。サムもフロドが大好きでした。ずっと、ずっと、誰よりも。そしてフロドはサムを・・・きっと、愛していたのでした。誰よりも。
そう、自分よりも。
そして、サムよりも。
二人を隔てるもの全てが取りさらわれても、フロドは美しいままでした。サムはいつも思っていました。こんな綺麗な主人を、自分が穢しているようで、いたたまれないと。それでも、それが主人の望みなのだと、分かっていました。あれた働き者の指先でそっとフロドの頬を撫でました。目を瞑ったままのフロドは今にも泣き出しそうに眉をひそめているのに、唇がふわっと笑っていました。それは悲しい表情でした。そんなフロドを見たくなさに、サムはその指をフロドの首から下へゆっくりと辿らせてゆきました。鎖骨をたどり、指先を唇で追いました。ある一点で薄いフロドの肌を噛み付くように吸い上げると、フロドはひくんっと身体をこわばらせました。もう、サムはそれを見知っていました。肌の甘い匂いも、サムが与えるその刺激に耐えようとするその表情も。
指を滑らせたサムは真っ白い濱に咲くフロドの胸の小さな花をそっと指の腹で擦りました。
「あぁ、」
とフロドの口から声が漏れ出ます。しかしサムはフロドがこれ以上を求めていることも知っていました。もう片方の花に舌を滑らせ押しつぶすようにサムはフロドを嘗めました。満たされない想いがフロドを襲い、フロドは自分に手を伸ばそうとしました。しかしそれはサムに妨げられました。
「お願いだ、サムや。わたしには耐えられない。」
「いいえ、おれが。」
サムはひとり言のようにそう言い、驚いたフロドが目をみはる前に、口をフロドの下肢に持ってゆきました。
突然与えられた直接的な暖かさに、フロドは身を捩って逃げようとしました。あまりのことに、フロドは息があがるのを止められませんでした。空気が足りないように浅い呼吸を繰り返す自分が浅ましく思えました。
「あ、サム。わ・・・わたしは、わたしは・・・もぅ!」
しかしサムはフロドのそれを自分の指で抑え、口を離してフロドに語り掛けました。サムは自分の息があがっていることを隠そうとはしませんでした。
「フロドのだんなぁ、お一人でなんて、いかせません。決して。」
フロドは朦朧としかけた頭で、聞いた事がある言葉だと思いました。辛い運命に立ち向かうちょうどその時の、幸せな一言のようだったと、フロドは思いました。
いつのことだったか、フロドが考えようとした瞬間でした。サムはフロドから思考力を奪い取りました。
「ひっ」
とフロドののどがなりました。緩んで、自分のものとサムの唾液で濡れているとはいえ、自分が押し広げられる感覚にフロドが慣れることはありませんでした。裂かれるような痛みがフロドを襲い、ぐっと力を入れたサムの汗ばんだ体がフロドに近付きました。
「サムぅっ」
フロドはサムの金に近い綺麗な捲き毛を手繰り寄せるように口付けました。いつからか痛みとすりかえられた快に、揺らめく自分の身体や腰をフロドは止めようとはしませんでした。
「もっと、おいで、サムやぁっ」
サムもフロドの唇から全てを飲み込むように、喘ぎ声さえ覚えるように、フロドに応えました。
「うぅっ、っつ、さむぅっ」
サムが一瞬唇を離したその時、フロドの甘い、押さえようとしないその声に、サムは一際大きくフロドと繋がろうとしました。
「あぁっ!」
フロドの目の前から現実が消えていくようでした。そしてまた、くっと締められたその時に、サムの前からも夜が消えていくようでした。二人は同時に白い世界に彷徨い込んだようでした。
フロドが目を開けると、サムがすぐ傍らに座っていました。自分の身は清められ、新しい寝巻きに包まれていました。
「どうかこれを。」
サムが差し出したのは、メモラダムとマルローンの花びらの浮いた水でした。声がうまく出ず、起き上がることもままならないフロドはそんな自分に叱咤し、腕をそのうつわに伸ばして受け取ろうとしました。しかし震える手は水をこぼすばかりでした。サムはフロドの肩を支え、フロドの手を包み込むように自分の手を重ねました。一口、二口飲む頃にはフロドはもう自分のちからでうつわを持っていることができました。二種類のこの花びらからは、まるで王の葉のようなかすかな味と、それよりはもう少し野原と太陽と土の暖かい匂いがしました。フロドはもう一度サムに手を添えられて横になりました。もう、想い出をしまう頃だと時がフロドに言っているようでした。
それでも、もう少しだけ。朝まで、側にいて、抱きしめて。
それは、許されない小さな想いでした。もう、口に出してはいけませんでした。サムは屈んでフロドの手に小さくキスしました。サムはしばらくフロドの手を握ったまま離れられないでいました。それでも、フロドの目はサムに語りかけていました。決してもう、涙がこぼれることはありませんでした。
お前は行かなくちゃならない。わたしでないものを愛し、愛されるために。
サムはまた涙が溢れてきました。必ず、いつか、フロドの旦那のもとへ。それだけを、サムは心に誓いました。そして、黙ったまま部屋を出てゆきました。
フロドは窓の外を見ました。夜明けはまだ遠く、今はまだ、全てが暗く空虚でした。フロドの心もまた、この空と共にあるようでした。
おわり
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