The Forgotten Hero

 

これはホビット庄暦1420年、大いなる豊饒の年、フロドの物語です。

 水の辺村の合戦、ならびにサルマンの死、そして指輪戦争の終結を迎えた波乱の年が明け、ホビット庄には徐々に復興の兆しが見え始めていました。サムの用いた奥方様の贈りものは見事に功を奏し、美しいホビット庄が、サムの故郷が帰ってこようとしていました。しかし、その期待に胸を膨らませられないでいる・・・むしろ復興が進めば進むほど辛い思いを抱えるホビットがただ一人、ここにいました。 

 フロドは病んでいました。

3月13日。フロドはちょうど一年前のこの日、あのシェロブの毒を受けました。思い出したくなくても、フロドの脳裏にはあの日、そしてあの旅の忌まわしい記憶が浮かんで消えることがありませんでした。癒えない傷は確かに存在しました。美しい想い出は灰色の靄になって掻き消え、かわりにその記憶を埋め尽くすかのように押し寄せる冷たい感覚がフロドを苛みました。肩のモルグルの剣より受けた傷も、ゴクリにちぎられた中指も、まるでそこから自分が凍っていくような感覚をフロドに与え続けていました。起き上がれないほどの苦痛と息苦しさ、受けた傷がもぎとられるかのような感覚。フロドの旅で消耗しきった、そして決して戻ることのない体力では治癒することはありえませんでした。体だけではありません。それらはフロドの心を蝕んでいたのです。しかしフロドは誰にも自分の病を気付かれないようにしていました。

そう、サムには特に。

サムはメリーやピピンと共に、ホビットの間で慕われ尊敬される存在になっていました。戦いを導き、勝利をもたらし、堂々としたメリーやピピン。それに木々を、畑を、野原を美しく生まれかわらせたサムは、ホビットたちにとって敬って当然とされました。もちろんサムはそんな事は気がついていませんでしたが。ホビットたちにとって、他所の国の戦争も、中つ国の危機も、エルフたちの運命も、指輪の行方も関係のないことでした。たとえ中つ国の平和が他の種族によって保たれない限りホビット庄の平和もありえないことが分かるホビットが仮にいたとしても、そんなことにホビットたちはかまけてはいませんでした。むしろそんなことに気を病むホビットは疎まれる存在でした。

つまりそれはフロドのことでした。

フロドは孤独でした。しかしそれがフロドに架せられた運命なのだということを、フロドは知っていました。自分の中つ国での生涯は決して幸福なものにはなるまいと、そう分かっていました。それを知るガンダルフやホビット以外の旅の仲間達は今は遠く、フロドは静かに自分を見つめていました。ビルボはエルフたちのもとから離れませんでした。末つ森に再び指輪所有者たちが集まるその日まで。フロドには自分の心がまるで水辺に映った自分の姿形のように見えました。病んでいる姿も玄に見ていました。ホビット庄を去るまでに、身の回りも、この屋敷も、そして自分の心までも整然としておくつもりでした。屋敷も、ホビット庄そのものも、ホビットたちも、このサムの庭も、楽しい記憶さえもフロドにはもう持てませんでした。置いてゆくべき存在なのでした。中つ国というものに全て置いてゆくべきものなのでした。ただ灰色の記憶と冷たく凍えるような感覚のみを持ち、海へ、西へ旅立たなくてはなりませんでした。心残りはありませんでした。

ただ、サムのことを除いては。

奥方様から頂いた不思議な種を宴会広場にサムは植えました。すくすくと育つそのマルローン樹は、不思議とフロドの心を癒してくれるようでした。エルフの最後の力なのでしょうか。フロドはそれを見るたびに癒されながらも、身を切られるような切なさを覚えていました。月のない夜には、フロドひとりでマルローン樹の傍らに立ち、涙を人知れず流していました。それは誰にも気がつかれることなく、ただ沈黙と静寂だけがフロドと樹を包みました。その木は、去るべきもののさだめを知っているかのようでした。

4月6日、それはサムの誕生日でした。明るくめでたいこの日にふさわしく、空は青々と澄みわたり、暖かいか、少し暑いくらいの陽気になりました。フロドの病もサムが気がつかぬまま、翳をひそめていました。そしてなんと銀の幹を持つマルローン樹の花が、サムの誕生日を祝福するかのようにぱっと金色の花を咲かせました。サムは少しはずむような足取りでフロドのもとへやってきました。旦那が「誕生日おめでとう、サムや。」と、やさしく言ってくれることをサムは知っていました。何もなくていい、ただフロドの笑顔と言葉だけがサムはほしかったのでした。それにサムは、ローズとこの春結婚しようと思っていました。フロドの旦那にはいつ言おう、いつ言おうと、サムはちょっぴりどきどきしていましたので、自分が生まれたこの日に言ったらどうだろうと思いました。サムはフロドの事を敬い慕っていましたが、ふたつに引き裂かれるような思いはサムにはできませんでした。

サムはフロドの気持ちが分かっていない訳ではなかったのです。むしろ痛いくらい分かっていました。フロドがサムに寄せる気持ちが。

そしてそれが主従を越えた愛と呼ぶものだということも。

フロドはこの歳になっても、生活が落ち着いた今でも独り身でした。冒険と本好きなビルボ(フロドを養子にもらいましたが)は別にして、ホビットには珍しいことでした。自分と関係あるものを残したくないという考えはもちろんいつもフロドをつきまといました。しかしそれ以上にフロドには分かっている事がありました。フロドは長い旅で、自分の本当の気持ちに気がついたのでした。フロドは、サムがフロドを想う以上にサムを想っていました。ただの主従ではなく、弟ではなく、息子でもなく、その胸に抱きしめられる事を、フロドは望んでいたのでした。それがあの旅を離れ、戻ってきたこの平和な土地では叶えられる事のない儚い夢だと分かっていても、望まずにはいられませんでした。

サムの幸せとわたしの望みは時を同じくして叶えられることはない。

ならばサムの幸せを、わたしは願おう。 

みんなに愛されるべきサムの幸せを。

今日を限りに、この想いを中つ国から永遠に葬り去ろう。

いつか海の彼方で叶うその日まで。

そう、今夜を限りに。

『わかったよ。お前は結婚したいんだね。』
そう小さく響いたフロドの声は暖かく、涙が出るほど、幸せそうでした。
 

「今夜、うちにおいで。」

「ごめんくだせぇ。サム・ギャムジーですだ。」
いつか、遠い昔。まだサムが幼く、小さな手に花を持ってフロドを訪れていた頃のようにサムは袋小路屋敷の玄関でそう言いました。手に持っていたのは今日咲いたばかりのマルローン樹の金色の花でした。そしてもう片方の手にはメモラダムの花びらを数枚浮かべた水差しを持っていました。あの頃のようにおやおやと笑って出迎えるビルボはいませんでした。あの頃のような早い朝でもありませんでした。あのサムの小さな仕事を、サムは思い出していました。サムはふいに、涙がこぼれそうになりました。
 

玄関でそう言ったサムの声は、暗いお屋敷にがらんと響きました。灯りはなく、月の光さえない夜でした。星の小さなかすかな光だけが、夜空を飾っていました。サムはきいっとドアを開け、一歩お屋敷に入りました。
「サムですだよ。」
サムはやわらかくそう言いました。まるでささやくように。かつてのフロドを起こさないようにとそっと告げた、あの小さな声で。誰も、出てきませんでした。お山を吹き抜ける風がサムの背後でドアを閉めました。バタンッと大きな音を立てて閉められたそこは、真っ暗になりました。ただ、手に持ったマルローン樹の花が、ほのかに金色の光を灯しているようでした。ドアを閉めた風が、サムと花を揺らしました。サムは背中がぞくっとしたように思いました。サムは真っ暗なお屋敷をしっかりした足取りで奥へ奥へと進んでいきました。サムには自分の行くべき場所が分かっていました。
 

あの頃の、あの部屋へ。フロドの部屋へ。

The Great Year of Plenty へ続く。