The distance
これはある早春のお話です。
ある日、サムとフロドは湖に出かけました。なぜいきなり湖かと言いますと、ただ単にフロドの思いつきだったからでした。
「サム!今日は天気がいいよ。湖に行こう!」サムはいつものように仕事に出てきたのですが、朝一番にフロドにそう言われてしまって、とりあえずびっくりしました。冬の寒さも多少はやわらいできたものの、それでもまだ上着をきちんと着ないとまだ寒い冬の日です。とてもではありませんが、湖で水遊び、なんて気温ではありません。
「え・・・ええ、素晴らしいですだね。」
サムはそう言って、やたらとうれしそうなフロドに笑いかけましたが、内心、やれやれこの旦那は一体何を考えているんだろうと思いました。しかし、こんな突然の思いつきはいつものことなので、おとなしく一日仕事を置いて付き合うことにしました。
出かける、と言えば食べ物がつきものです。かれらはちょっと変わっていると言われてはいてもホビットですから、とにかく楽しい行事にはたっぷりの食べ物が必要不可欠なのでした。ですからサムはお屋敷のあちこちからおいしそうなものを見つけ出し、フロドはサムがバスケットにたっぷりの昼食とおやつを詰め込むのをじっと見ていました。そして時々、
「白いほうのキノコがいいな、サム。」
とか口を出すのでした。そのたびに、サムは
「へえ、もちろんありますだよ。」
とにっこり笑って、知り尽くした旦那の食べ物の趣味を全て叶えてやるのでした。そんな準備もサムにかかればあっという間にできあがりました。さて、出発です。
その日はフロドが言うとおり、とてもいい天気でした。ちょっと風が強いのですが、昨日まで寒くて毛布にくるまって寝ていたのが嘘のように暖かく、少し走ったりすると暑くなるくらいの陽気でした。ふたりはそんな気持ちのいい空の下をのんびり歩いていました。フロドのお気に入りの散歩道の最終点にある、お目当ての湖までは結構な距離がありますが、ちょうどお昼頃には着けるでしょう。バスケットを持つサムの横をフロドが実に嬉しそうに歩いて行きます。ちょっと見た目には今にもスキップでもしはじめそうな雰囲気です。時折頭の中でうたっていた歌が口から溢れて出てきて、周りの空気に溶け込んでいきました。サムはそのとぎれとぎれではありますが澄んだ歌声を聞いているうちに、ひとつの決心をしました。それは、今日こそ旦那と手をつなごうということでした。
今まで、サムとフロドはとってもよい庭師と主人の関係でしたが、フロドは明らかにそれ以上のことをサムにいつも求めているように思えました。サムはもちろんそれはまんざらではないどころか、自分にはもったいないと思っていました。しかしフロドの思考というものはサムには計り知れないものがあり、サムからのアプローチというものが全然目に入っていないようなのです。それなのに、フロドの方からはやたらとサムに手を出したがるのです。それはサムには泡を吹くような突然のタイミングだったりびっくりするような大胆さだったりします。しかしサムから何かをしようとすると、するりとまるで手の中に掴みきれない砂のように、フロドの気持ちは零れ出ていってどこかに行ってしまうのでした。というわけで、今までサムからフロドと手をつないだこともないのです。いつも、いつもそんな雰囲気になるのはフロドが何かをしようと思い立った時だけなのでした。どうしておらの気持ちは分かってくださらないだか・・・サムはいつもそんな風に一人でためいきをついていました。
今日もそのような傾向がはっきりと見られました。例えば、ちょっと前を歩いているフロドの髪に木の葉や小さな枝がついていると、サムはそっと手を伸ばし、それを取ってやろうとしました。
「旦那、髪に葉っぱがついてますだよ。」
そしてそっとその黒い綺麗な髪に触れようとしました。が、フロドはちょっとサムを見て、それから自分で髪を乱雑に払いました。
「ああ、いいよサム。今日は朝からなんだか髪が跳ねてるんだ。葉っぱの一枚くらい気にならないよ。」
そう言って、サムに髪も触らせてくれませんでした。それにこんなこともありました。手をつなごうと決意をしたサムは、なんとか口実をつけてフロドの腕に近付こうとしました。ですから、
「旦那、この上着、新しいものですだか?」
と言ってその腕に触れようとしても、
「ああ、そうだよ。ビルボからもらってね。動きやすくてわたしは気に入ってるんだ。」
そう言って、わざとなのかそうでないのか分からないように、サムから少し離れてぶんぶんと腕を振り回すのでした。
「そうですだか・・・」
口ではそれは良かったですだ。と言いながらも、サムは内心はあぁ、と溜息をつきました。おら、ただ旦那と手をつなぎたいだけなのに。ちょっとだけその手までの距離を縮めたいだけなのに。おらだって旦那とおんなじように旦那のこと好きなのに。しかしそんなことを決して口に出しては言えないサムなのでした。
そうこうするうちに湖のそばの坂までやってきました。このちょっぴり急な坂を登ったらもう目的地です。フロドはこの小旅行の楽しさで、サムは頭の中をぐるぐると回る考えのせいで、ふたりは時間の経つのが早いと思いました。さて、この坂ですが、これがなかなかくせものでした。道なんてものはありません。何か掴もうとしても、夏ならば生えている草たちもありません。湖のあるてっぺんまでずうっと石と砂利と砂しかありません。ですからフロドは途中で休み休みゆっくりと登っていきました。サムはフロドよりもはるかに体力があるので、これくらい平気です。しかしフロドはちょっぴり辛そうでした。
「ふうー!久し振りに来てみたけど、こんなに疲れるものだったかなぁ。」
そんなことを言いながら、ぜいぜいと息があがっていました。
「ほら、しっかりしてくだせえよ、旦那。あと少しですだ。」
サムはなんだかいい機会だぞ、と思いました。こんな場面なら、フロドの手を取ってひっぱりあげて、そのままつないでいても不自然では・・・ないと(少なくともサムには)思われました。そして、どうしようもなくドキドキしながら、フロドの手を取ろうと、自分の手をフロドに伸ばそうとしました。しかし、フロドはそれに気が付いていないのか、急に
「よし!」
と言って、頂上をキッとにらみつけ、サムの手を取らずに一人で走り出してしまいました。またしてもサムは機会をのがしてその走り去る背中を見送り、そのあとをおとなしくついていきました。
湖の見える頂上にサムがあがってくると、そこには両足を前に出して、両手を後について、あがった息をしずめようとしているフロドが座っていました。
「あー、疲れた!疲れたよ、サム。ここでごはんにしよう。」
そうしてサムには有無を言わさず、ここで楽しい昼ごはんになったのでした。フロドが手元を見つめる中、サムがちょっと得意そうに、ちょっと恥ずかしそうに次々とバスケットから食べ物たちを出していきます。クルミの入った固いパン、黄色いバタ、薄いピンク色をつけたプラムのジャム、透明に光るオレンジとりんごのジャム、昨日の残りのチキンは煮こごりをそえて、丸めたマッシュポテト、白いキノコの薄切りはベーコンと交互にして串に刺して、フロドのお気に入りのサワークリーム、野菜はスティック状にして、ローストビーフの切れ端が数枚、クランベリーソースとよく泡立てたクリームと色んな果物を真っ白いパンの薄切りに挟んだもの、冷たいしょうが水、その他サムご自慢の調味料たちがずらりと。用意したマットにフロドとサムが乗れないくらい、そこにはたっぷりとおいしそうなものたちが並びました。
「さすがわたしのサムだ!どれもこれもおいしそうだ!」
そうしてにっこりとフロドは微笑みました。サムはその笑顔にドキっとしながら、顔が赤くならないように気をつけながら、急いで言いました。
「さあ、いただきましょう。」
おいしい昼ごはんを食べ終わると、フロドは湖の方を向きました。そしてサムが片付けをする音を聞きながら、小さな水音をじっと聞いていました。何もしゃべりません。サムがそっとおやつの果物とパンケーキを出した時だけ、
「ああ、ありがとう、サムや。」
と言っただけでした。そんな時のフロドはとても綺麗でした。きらきらと水面に映る空の色がそのままフロドの瞳にうつっています。頬はほんのり赤く、真っ白な肌の上にそっと乗っていました。長い睫毛が美しいカーブを描いて空を目指し、その同じ色の髪はなめらかそうにくるくると巻いていました。透き通るその目の奥にはサムには分からない不思議な色が漂い、その表情は穏やかで、なんとも言いがたいけれど決して不快ではない雰囲気を醸し出していました。サムはそんな幸せそうなフロドの様子を見ているうちに、もうなんだか手をつなぐことなんて、どうでもよくなってしまいました。ただ、ここにこうしてフロドとふたりでいられることだけが確かなことで、それはサムの望むことでした。そして、こんな時が一番フロドとの距離が近く感じられ、同時に一番遠く感じるのでした。その甘酸っぱい想いをそっと抱えながら、ふたりは夕焼けが空を染め替えるまで、そこに静かに座っていました。
ざわっと風が木々の梢を騒がせ、フロドは小さく身震いをしました。そしてやっと世界の流れを思い出したかのように、ふっと視線を上げ、ぱっとサムの方を向きました。
「ああ、サム。少し寒くなってきたね。」
そこでサムもやっと時間を思い出し、そんなフロドを見てにっこりしました。
「ええ、そうですだね。もうそろそろ帰りますだか?」
そしてふたりは立ち上がり、サムがぱんぱん、とマットについた砂埃を払い落としました。もう何も忘れ物はないか、ごみなんか残していないかとサムが一通り辺りを見渡して、よし、とうなずきました。
「さあ、帰ったらすぐにあったかいお湯を沸かしますだ。それからなんかあったかいお茶でも用意しますだよ。」
そう言って、サムがフロドのほうに向き直った時でした。フロドがサムの腕の中に飛び込んできました。
「え?え・・・」
サムが、何が起きたのか分からず目をぱちくりさせていると、フロドがその手をサムの手に触れさせました。そしてその細くて白いなめらかな指を、サムの働き者のちょっと日焼けした指に絡ませ、サムを見て切なくなるような笑顔を見せました。
「今日は付き合ってくれてありがとう、サム。とても、とても楽しかったよ。」
急に、サムの頭に今の状況が分かってきました。あれほど願ったことが、一瞬のうちに叶えられ、ここに、このサムのすぐそばにフロドがいました。そして手に手を触れ合わせて、フロドは微笑んでいました。かあっと、サムは自分の顔が赤くなっていくのが分かりました。それはもう、この夕陽に負けないくらい。胸の鼓動は規則正しく、しかし明らかにいつもより早く打っていることが分かりました。とっくとっくという自分の胸の音と、フロドの少し細くて華奢な身体から伝わってくる音が合わさり、サムの全ての感覚を奪っていました。そうして何も言えずに固まっているサムを促すように、フロドはもう一度サムに微笑みかけて歩き出しました。
「さあ、家に帰ろう!」
我に返って足を動かしはじめたサムは、その真っ赤な顔をちょっとだけ引き締めて、フロドに掴まれた自分の手をそっとはずし、改めてフロドの少し冷たくなった手をふわっと包み込むようにつなぎました。
「・・・サム。」
それを見て、フロドは今まで見せたことのないような柔らかい表情を見せました。そしてそっとサムの肩に頭をもたれかけて嬉しそうに小さく微笑みました。
今日は本当に良い日でした。この小さな手をつないだ温もりが、そのまま心も温めてくれるような日でした。フロドとサムはそのままお屋敷に戻り、あったかいお茶を飲んで、お風呂を沸かしてお互いさよならと言って眠りにつきました。フロドはお屋敷の部屋で、サムは帰途につき自分の家の部屋で。昼間と同じように、暖かな夜でした。満天の星空はいつもに増して優しい光をホビット庄中に投げ掛け、あの湖の上にもその輝きを降り注いでいました。その水面は静かにその光を受け止め、ふたりのホビットがそこにいた時と変わらず小さなさざなみの音だけを世界に放していました。きっと明日もこんな日が続くのでしょう。そんな明日を祈りながら、夜は静かに更けてゆきました。
おわり
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