The Dawn of Love
フロドとサムが二人きりで旅立ってから、もう何日かが過ぎようとしていました。辺りは常に薄暗く、何日かたったとしか分かりませんでした。それはロスロリアンにいた時と同じように時間の感覚がなくなっていたのではありますが、それよりはずっとずっと嫌な感覚なのでした。モルドールはもう眼下に迫っていましたが、滅びの山はまだはるか遠くに感じられました。フロドは自分の中にある二つの感情に怯えていました。一つはこう叫びます。『必ず、必ずあなた様のもとに指輪を持ってまいります。』そしてもう一つはフロドの本当の心の叫びでした。『指輪を壊せ、指輪を滅びの山へ!』フロドはその二つの感情に昼も夜もさいなまれていました。フロドはただ歩く事さえもが苦痛で仕方ありませんでした。しかしフロドはときおりサムに苦しそうではありますが、笑顔を見せる事がありました。そのことがサムを奮い立たせていたのでした。サムは大事な主人の本当の笑顔を守りたかったのでした。生き物の気配はありません。ただ押し寄せる静寂が二人を飲み込もうとしているだけでした。
夕暮れが迫り、夕闇が辺りを覆い尽くそうとしてきました。するとフロドがサムに小さな笑顔を向けました。それはそれはやわらかい、優しい笑顔でした。
「サムや。今日はわたしが寝ずの番をするからお前はゆっくりお休み。」
サムは二人になってからというもの、ほとんど主人に番をさせることなく休みもせずに周りを見張っていました。いつ黒き影たちが襲ってくるかもしれないこの不安な旅を、ずっと起きて主人を守っていたのでした。
「しかしフロドの旦那、おらは大丈夫ですだ。フロドの旦那にゆっくり休んで欲しいんです。」
サムは少しやせ我慢もしていましたが、それは本音でした。フロドはずっと辛い顔をしています。指輪保持者として果たすべき宿運を手渡されたその時から、心が休まる事を知らないように見えました。自分の運命とこれから起こるべき出来事に恐れていたのです。サムにはそれが誰よりもよく分かっていました。
「何を言うんだ。お前がなんと言おうと、サム、お前が休まなければ旅は続けられないよ。さあ、横におなり。」
フロドがそう言い終わったその時、サムはフロドの、村を出る頃に比べたらずっとやせ細ってしまった華奢なおもてを引き寄せ、すがりつくように唇を求めていたのでした。フロドが息もままならない深い口づけに気を失う直前に、サムは自分を無理矢理フロドから離しました。サムは一瞬自分が何をしたか分かりませんでした。
「フロドの旦那・・・・」
サムの顔はこれ以上無いほどに赤く染まっていました。二人に射すほの暗い夕日もそれを手伝って、ますます紅はこくなっていました。サムはとてもこれ以上フロドのほうを向いていられないと思いました。『何てばかな事を、サムワイズ・ギャムジー・・・・』それだけがサムの心の中をぐるぐると回っていました。サムにはがっくりとうなだれ、自分の足元を見る事しかできませんでした。
「サム・・・」
フロドがまだ乱れそうになる自分の息を落ち着けながら、サムにそう言いました。
「何も言わないでくだせえ!!!悪かったですだ。本当に。・・・フロドの旦那!・・・・何かおら、おかしくて・・・こうでもしなけりゃ狂いそうになって・・・もうお側にはいられない。フロドの旦那・・・これでお別れなんです。なんちゅうばかなことを・・・」
サムは今にも向きを変えて走り出そうとしました。大切な主人に自分から別れを告げることになるなんて、思ってもみませんでした。しかし自分の行動は事実なのでした。それにそうしたいと思ったのも本当なのでした。忠実な伴者が主人に想いを抱くことは許されないはずでした。このままで良いと思っていたのです。ずっと、ずっと、このままで。しかしあまりにフロドの笑顔が綺麗で、眩しくて、不安で、触れないと自分か主人かが消えてしまいそうなのでした。ここに今二人が存在している事は夢じゃない。そう思いたかったのです。ただ、それだけだったのでした。
「サム!!待て!」
フロドの言葉にサムはびくっと肩を震わせて止まりました。
「サム、行くんじゃない!お前はわたしと一緒にきてくれるんだろう?ずっと一緒にいると、そう誓ってくれたんじゃないのか?」
「でも、フロドの旦那・・・・・・・」
サムの声は掠れて、今にも消えそうでした。
「・・・・してはならない事をしてしまったですだ。主人に想いを抱いてはならないって、いつもとっつぁんに聞かされて育ってきましただ。大切に思えば思うほど、してはならない事だと。おら、知ってますだ。だからもうお側にはいられねえんです。」
サムはフロドの表情が怖くて見れませんでした。ただ背を向けて、このまま自分なんかいないほうが主人の幸せにつながると思いました。歩くのが遅い自分は主人の旅には足手まといだと知っていました。フロドは来るなと言っていたはずでした。主人は自分が船を追いかけて河に入る前、来るなと、戻れと、そう言ったはずでした。
「サムや、こちらをお向き。」
しかしそう言ったフロドの声は穏やかで優しかったのです。
「さあ、お前の主人の顔を見てごらん。」
サムがまだ動けないでいると、そっとサムに伸ばされる腕がありました。フロドは手をサムの肩にかけて自分の方へ向かせました。サムはまだ下を向いていました。
「サム、どうしてわたしを見てくれないのだい?」
「どうしてって・・・フロドの旦那、おらにはそんな資格ないですだ。」
「これは命令だ、そう言ってもかい?」
「え・・・」
やさしいままですが、少し強くなった口調にサムは思わずフロドの顔を見てしまいました。『どうしよう、きっと怖い顔でこっちを見てる。いや、あきれてるかもしんねえ。おらがばかなことをしたばっかりに。』そんなサムの思いとは裏腹に、フロドは声と同じようにやさしく穏やかな顔をしていました。
「サム、お前はわたしに触れたいのだろう?どうしてそうしようとしないのだい?」
「フロ・・・ドの旦那・・・?」
サムにはどうして主人がそんな事を言うのか分かりませんでした。どうして主人は自分の心を読み取ってしまったようにそう微笑むのか、分かりませんでした。困惑したままサムはフロドを見つめたまま動けなくなってしまいました。フロドの目に吸い込まれそうになっている自分がいるのにも気がつきませんでした。フロドの瞳があまりに美しくて動けなかったのです。不意にフロドがそんなサムの手を自分の頬にそっとあてました。
「ほら、ここにいるだろう?わたしはここに、お前と一緒にここにいるだろう?」
フロドはそう言ってサムの手を頬から項のあたりに滑らせました。縮れたやわらかいフロドの髪の毛の感触がサムの手に伝わってきました。そしてフロドの体温と鼓動まで、サムの指の先から伝わってくるのでした。
「サムや、何とか言っておくれ。ここにフロド・バギンズがいる事を、お前が教えておくれ。」
呆然としてフロドの言葉を聞いていたサムは、突然我に返ったように手を引っ込めようとしました。しかしフロドの手は少しも緩まることなくサムの手を握り、自分の耳にそっと触れさせました。
「フロドの旦那!やめてくだせえ!おかしくなっちまう!!こんなに心臓が速いです。こんなの初めてで・・・どうにかしちまったようで・・・お願いです!やめてくだせえ!」
「だめだ、サム。」
「どうしてだか?!離してくだせえ!!」
サムは混乱していました。主人の行動にも、自分の心臓の音が早鐘のように打ち続けることにも、それが何を意味するのかも、分かりませんでした。ただ恥ずかしくてどうにかなってしまいそうでした。
「サム。わたしはお前がいてくれて嬉しいと言っただろう?それにおかしくなりそうなのはお前だけじゃない。わたしだって、一緒なんだよ。」
フロドは一瞬うつむきました。伏せられた睫の影が、フロドの顔に濃い憂いを落としました。どうしてしまったのかと主人を見ようとサムが大きく目を見開くのと、フロドがサムの視界いっぱいに広がるのはほぼ同時でした。サムはぎゅっと目を瞑りました。暖かいフロドの唇がひび割れた自分の唇をやさしく包むようにたどっていくのが分かりました。あとは、自分がどうなったのかさえ良く分かりませんでした。サムはフロドの暖かさを貪る様にその唇を塞ぎました。何回も向きを変え、お互いの息だけがとても熱かったことだけが分かりました。息をするほんの一瞬に、フロドはサムを抱きしめて、自分を地面に倒させました。
「フロドの旦那・・・!」
はっとして顔を上げたサムが目を開くと、そこにはいつものようでそうでない主人がいました。あまりに綺麗で、精巧に出来た銀細工のようなその顔を見ているだけでサムは気を失いそうになりました。
「サムや、もう少しこっちに来てごらん。」
フロドはそう言ってサムの手を引き寄せました。そしてエルフのマントを外させ、ミスリルの下にサムの手を滑り込ませようとしました。
「だめですだ!フロドの旦那!これはビルボ大旦那から絶対に外すなと言われていたものです。サムワイズ・ギャムジーなんかが外していいもんじゃないんですだ!」
サムはそう言って首を激しく横に振りました。しかしフロドはそれを許しはしませんでした。
「手をもう一度貸してごらん。」
鎖帷子の上には村で見慣れたフロドの柔らかい肌着があり、鎖帷子の下には真っ白いフロドの肌がそっとのぞいていました。サムは目を閉じていても、主人の身体からやわらかい光が透けているように感じました。フロドはその下にサムの手を滑り込ませました。サムはもう、この地から消えていなくなりたいと思いました。あまりに自分の顔が熱くて恥ずかしくて、フロドやビルボがしたように、消えてどこかへ行ってしまいたいと思いました。目を瞑ったままサムは離れようとしましたが、フロドに阻まれ離れられませんでした。
「ほら、分かるかい、サム?」
サムはフロドが何を聞いたのか分かりませんでした。
「わたしもお前と同じだろう?」
やっと意味が分かりました。サムの手から伝わってくるフロドの鼓動は、サムと同じように速く、速く打っていたのです。
「フロドの旦那・・・同じで・・・」
驚きに目を開いてしまったサムは、さっきよりずっと幸せそうに微笑むフロドが見えました。自分の下にある主人の華奢な身体はほんのり薄桃色に染まっているようでした。フロドが手をサムに伸ばしても、もうサムは怯えませんでした。両手で顔を包まれて、サムはフロドのほうへ引き寄せられました。唇が重なるのと、二人が重なるのはほぼ同時だったようでした。さっきより深く、さっきより長く激しい口づけは続いていました。今だけは、旅のことも黒き影たちのことも、自分たちの運命もそこにありながら無い様なものでした。サムがフロドから自分の唇を離すと、フロドは小さく息を吸って横を向きました。白く浮き上がったフロドの項にサムは吸いつけられるように口付けを落としていったのでした。白い濱に紅い華が咲くように、小さな痕を残しながら項から肩へ、肩から胸へとサムは唇を滑らせていきました。フロドの小さな喘ぎ声と吐息がサムにかかる頃にはもう、サムは主人をしっかりと抱いていました。いなくならないように、いつまでも一緒にいられるように・・・と、朦朧とする意識の中で、サムはただそれだけを祈っていました。
サムが気がつくとフロドはサムの腕の中で小さく微笑んでいました。
「フロドの旦那・・・」
何かは分かりませんが、何か恥ずかしくてサムは真っ赤になりました。それはもう、夜の闇が透けて見えるほどサムは自分の頬がほてっているのが分かりました。お互いがまだ暖かく、二人は抱き合ったまま離れられずにいました。
「サム。ありがとう。」
「フロドの旦那、何を?」
微笑んで少し瞳を伏せたフロドがそう静かに言いました。
「わたしはもしこの旅で永遠の眠りにつくような事があったら、またはお前が言うようにもしホビット庄に戻れる様な事があったら。こうしてお前と共に目を閉じたいと思うよ。」
サムははっと息をのんで綺麗なままの主人を見つめました。そして眉を寄せ、厳しい表情を覗かせながらフロドに言ったのでした。
「旅の途中でなんてそんな事は絶対させないですだ。サムがフロドの旦那を守り抜いてみせますだ。もう何度も誓った事ですだ。二人とも死にゃしません。みんなにもまた会えるかもしれないですだ。そしていつか一緒にホビット庄に戻れたら・・・・・・・・・サムもこうやってフロドの旦那と眠りたいですだ。」
フロドはそれを聞いて本当に幸せそうに微笑みました。そして二人を包んだ夜は、静かなまま、ほの暗い夜明けを迎えようとしていました。
おわり
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